犠牲
薫が向かった先は、光希の屋敷だった。
何やら王達が来て宙で話をしていたが、そのうちにまた、宮の方へと皆で飛び去って行った。
それを見て、薫はそっと、目視できるほどしっかりと張られた月の結界へと歩み寄った。十六夜の結界は、元々月を敵視するような命には敏感だが身内にはかなり甘い。思った通り、すんなり中へと入れた薫は、光希の屋敷の戸を、そっと開いて中を伺った。
驚いたことに、床には静音が、這いつくばるような形で倒れていた。
「な…!」
腹の子が!
薫はそう思い、慌てて静音を助け起こした。
「何をしておる!そんなことをしておって、腹の子に何かあっては…!」
静音などどうでも良いが。
薫の気持ちは、そうだった。
静音は、助け起こされてもされるがままで、薫に側の椅子へと座らされて、やっと薫の顔を見た。そうして、しばらくボーっと薫の顔を見ていたが、突然に、ニッと不気味に笑った。
「…これはこれは、美しい薫様…。」
薫は、その言い方にムッとして眉根を寄せて言った。
「…うるさいわ。主などどうでも良い。我は、闇に話しがあって参った。」
すると、突然に静音の顔が無表情になったかと思うと、唸るような声を出した。
「…何ぞ。月に隠れて参ったのか。立場が悪うなるのではないのか?」
薫は、ハッとした。今、闇は静音に憑いている。つまり、腹の子から出たのだ。
「…月はどう考えているのか分からぬが、他の者達が二人を殺して闇を消すとか申しておるのだ。だが、我は友の子を助けたい。だから来たのだ…肉の身と言うのなら、その静音でも良いのではないのか。」
静音の顔は、不気味に歪んだ。笑ったのだと、薫は後で分かった。
「陰の身など要らぬ。我は陽の身が欲しいのだ…だから、腹の子に居る。この腹に居るのは、陽の型なのだ。」
そうではなく、腹の子は弱いので耐えられず、浄化出来ないからこそそこに居るのだが、薫はそのようなことを知る由もない。
「陽の型?…男でないとならぬと言うか。」
静音は、その不気味な笑顔のまま、頷いた。
「そう。我が求めるのは陰の月。ゆえに陰陽でなければならぬのよ。だが…どうしてもと申すなら、主が身代わりになればどうか?」
薫は、反射的に身を退いた。身代わりだと?
「そうして、主に食われるのか。」
静音は、フフンと首を振った。
「いいや。一時的に借りるだけ。何しろ陰の月は、この月の結界の中でも霧をいくらでも呼び集めて存在させることが出来る。我が陰の月と一緒になれば、肉の身など要らぬ。人型を己で取ることが出来るゆえの。それまで宿る身が要るのだ。その間、我慢すると言うのなら、主に移ってやっても良いぞ?さすれば、この女の腹の子など要らぬから、ここから出てやろう。まあ我からしたら、赤子の方が扱いやすうて良いのだがな。何しろ、意思も何もかも食うことが出来るのだ。まだ何の意思もない命だからの。」
薫は、身を震わせた。このまま、闇が憑いたまま生まれてしまっては、赤子は取り返しのつかないことになる。だが、自分なら…。
しかし、闇が厄介なのは、書を読んで知っている。
薫が躊躇っていると、静音は手を伸ばした。
「さあ。どうするのだ。我はどちらでも良い。赤子の中は穏やかで安全であるからなあ。長い年月待っておるし、生まれるまでこのまま待っても良いのだ。さっさと決めて、身代わりになるのならこの手を取れ。ならぬなら、さっさとここを去るが良い。」
薫の脳裏には、光希の死に顔が過ぎった。自分がもっと早く対応していれば、死ななかったかもしれない命…。腹の子まで、殺させるわけには行かぬ。
《ならぬ!》
どこかから、声が聞こえたような気がした。
しかし、薫はその手を取った。
真っ黒い何かが心の中へと流れ込んで来て、闇の高笑いが聴こえる中、薫は意識を失った。
その判断が間違っていたのかどうかも、もう薫には分からなかった。
維月は、光希の屋敷の十六夜の結界へと到着していた。上空から見ても、間違いなく闇は移動している。そう、屋敷の外、結界の外へと出て来ていた。
「…静音が死んでいるわ。」
維月は、言った。どうやって屋敷の結界から出たのかは分からなかったが、闇は憑りついた薫の体で上空を見上げて、嬉し気に叫んだ。
「陰の月!主が好む、美しい陽の型ぞ!」
追いついて来た十六夜が、眉を寄せた。
「…あいつ、どうやったのか分からんが、オレの力を防ぐ膜を張ってやがる。」
碧黎が、横から言った。
「どうするのだ。腹の子はまだ息があるぞ。」
「そっちは任せろ。」十六夜は言って、降りて行った。「維月、お前が行け。親父はそれを見ててくれ。」
碧黎は、頷いた。
「闇に対しては我は無力であるが、とにかくは見ておるわ。主も気を付けておけよ。」
十六夜は頷くと、裏側から屋敷の方へと降りて行く。
維月は、その様子をじっと見上げて見ている、闇の憑いた薫の方へと降りて行った。
維月が薫の少し斜め上に浮くと、闇はそれは嬉し気に目を輝かせて維月を見上げ、言った。
「陰の月よ。主が好む、美しい陽の型。これならば、主は我の話を聞いてくれるか。」
維月は、それを無表情に見下ろしていたが、フフンと蔑むように笑うと、言った。
「…まあ、型は良いわね。確かに華やかで美しいわ。」と、地上へと降り立った。「少しは賢いのかしら。片割れの力を、どうやって防いでいるの?私の手を借りないでやるなんて、なかなか見どころがあるじゃない。その話なら聞いてやってもいいわよ?」
闇は、嬉々として維月の真ん前へと寄って来た。そうして、言った。
「あの愚かな女の命で術を。あんな女でも命一つの力は強い。まるまるそれをこの人型たった一つの守りに使っておるから、いくら陽の月でもそれを破っては来れぬのだ。本当は腹の子の分も使おうかと思うたのだが…」と、闇は顔をしかめた。「…この体、意思の強いヤツであったようで。それはどうしても無理であった。だが、一つでも充分よ。」
維月は、本当は今すぐにでも張り倒したい気持ちだったが、微笑した。心の中では腹を立てていたので、その笑顔は歪んで大変に狡猾に見えた。
「そう。まあ良いわ。」と、手を上げた。「膝まづきなさい。」
闇の憑いた薫は、グイと何かに押されたように、維月の前に両膝をついた。維月はじっとその目を見つめると、中の闇へと向けて、命じた。
「頭が高いわよ。私の前では膝をつきなさい。お前は、先ほどの無礼を詫びる気持ちもないの?」
闇は、陰の月が話を聞いてくれているという事実に酔っているようで、恍惚とした表情で深々と頭を下げた。
「先ほどは未熟な型の中に籠り、陽の月に怖気づいてあなた様の前へと出て参ることも出来ぬで申し訳ありませぬ。」
維月は、フンと横を向いた。
「では、私がお前に力を貸す気になるように、話すのを許してあげるわ。」
闇は顔を上げると、言った。
「では、あちらの椅子にお座りください。このままでは…」
維月は、キッと闇の憑いた薫を睨みつけた。
「私に指図するなんて、何様のつもり?!どこに座るかは、私が決める!」
闇は慌ててまた頭を下げた。
「申し訳ありませぬ。出過ぎた真似を。」
維月は、キョロキョロと回りを見た。碧黎が、そっと湖の方向へ指を差す。それに頷いて、飛び上がった。
「あちらへ参るわ!ついて来なさい!」
そうして、維月は湖の方角へと飛ぶ。闇がそれに付き従って行き、碧黎はそれを見送った。維心が、維月を追おうとして、碧黎を振り返った。
「維月を独りで行かせるのか。」
碧黎は、頷いた。
「あれを油断させねばならぬ。湖には、我の力が収束しやすいのだ。何かあっても、十六夜とて力を下ろしやすい開けた場所。だから行かせた。このままではどうにもならぬし、見ておったら紫翠が言うておったように、闇は維月に力づくでは何も出来ぬようだ。どこに居っても我の上、見ておるから安心せよ。」
維心は、仕方なく頷いたが、気が気でなかった。闇に近付くと、陰の月の意識に押されるのだと言っていた。維月が維月でなくなってしまったら…それでなくても、あのような様は見たこともないのに。
十六夜が、静音を気で浮かせて屋敷から連れて出て来ながら、肩をすくめた。
「マジで維月がボンテージ姿に見えたぞ。闇は案外マゾなんじゃねぇのか。鞭を持たせたら完璧だな。」
蒼が、上から十六夜を叱るように言った。
「十六夜!こんな時に冗談言ってる場合じゃないだろうが!」
十六夜は、息をついて蒼を見上げた。
「冗談でも言わなきゃやってられねぇよ。」と、静音に視線を移した。「…静音は、もう駄目だ。とりあえずオレの気を流し込んで赤ん坊だけでも養えるように体を維持してる。ただの抜け殻だよ。このまま、月満ちて生まれる時まで誰かが代わる代わる気を補充しなきゃならねぇ。医務室へ送る。」
嘉韻と義心が、己の王を放って置けぬと思ったのか、いつの間にか追ってついて来ていて、隣りに浮いていた。蒼は、その嘉韻に頷きかけた。嘉韻は、頭を下げて、十六夜から静音を受け取ると、そのまま気で浮かせて医務室へと引っ張って行った。
十六夜は、ふうと肩で大きくため息をついた。
「主でも破れぬ膜か。」
碧黎が言うと、十六夜は頷く。
「親父にも分かってるだろう。命懸けの術ってのはどれもかなり強い。まああれは、無理矢理静音から命を搾り取った術だがな。今のままじゃあオレにはあの体から闇を追い出せねぇよ。つまり維月も、あの体から闇を引っ張り出さない限り無理だろうな。体の持ち主の意思の強さも必要になるし…赤ん坊は救えたが、薫はマズい。」
蒼は、言った。
「ここはまず維月に任せて、様子を見よう。薫を闇から引き離す方法は分からないけど、闇も維月が居る限りまず、それに必死で他には手を出せないだろう。その証拠に他にもこんなに居るのに、全く目もくれなかったから。」
十六夜は、暗い顔をしながらも、浮き上がった。
「オレが手を出すにもあれじゃ無理だしそれしかねぇな。維月もイライラしてるみたいで本体まで伝わってくらぁ。SM女王のままで元に戻らなかったらどうしてくれるんだよ。維心だって嫁が足で踏んづけて来たら嫌だろうが。」
維心は、それを聞いてびっくりしたように一瞬退いたが、しかし少し考えて、首を傾げた。
「…いや、別に…よう考えたら維月はたまにああいう時があるので。」
十六夜は、眉を寄せた。
「まあお前らって毎日一緒だからいろんなことするんだろうけど、毎日あれじゃ面倒だろうが。早いとこなんとかしねぇと、陰の月にイライラされてるとオレまでイライラするんでぇ!」
結局、自分がイライラするんじゃないか。
蒼は思いながら、宮へ向かって飛び上がる。
「もういいから。とにかく帰ろう!」
そして、紫翠達が待つ王の居間へと戻って行ったのだった。