焦燥
「王。」義心の声が、居間から聞こえる。「王…至急ご報告がございます。」
維心は、ため息をついたが起き上がらない。維月は、襦袢を引き寄せて維心を見た。
「維心様…義心が参っておるようですわ。」
維心は、チラと維月を見た。
「まだ一睡もしておらぬのに。」
維月は、苦笑した。
「ですがもう、褥に入って数時間ですもの…。」
眠る時間が無かったのは維心がいろいろ他にやっていたからだ、とは維月は言わなかった。維心は、仕方なく起き上がって維月に口づけた。
「まあ良い、事の最中なら無視したがもう終わっておるしの。出て参る。主はここで待て。」
維月は頷いて、衣桁から袿を取って羽織って出て行く、維心の背を苦笑して見送った。
維心が居間へと出て来ると、暗かった居間が明るくなった。義心が、そこで膝をついていた。
「…何事よ。このような夜中に。」
義心は、顔を上げた。
「お休みのところ申し訳ありませぬ。明輪から、報告を受けまして取り急ぎ王にご指示を仰ごうと参りました次第でございます。」
維心は、頷いてため息をつくと、先を促した。
「申せ。」
そうして、椅子へと座る。義心は、言った。
「は。ただ今、紫翠様が明輪の屋敷にいらしておるのはご存知でいらっしゃるかと思いまするが。」
維心は頷いた。
「知っておる。それがどうした。」
義心は、深刻な顔をして先を続けた。
「その紫翠様が、明蓮に取り急ぎ、東北東に闇の意思を感じると、知らせたのだとの事。」
維心は、片方の眉を上げた。紫翠が?
「…あれがなぜに西の島南西の宮からそんなものを気取ったのだ。確かにかなり急いで来たようではあったが、そんな筋でもないのに。」
鷲にそんな能力は無かったはず。
維心が怪訝に思っていると、義心は視線を落とした。
「は…それは、我も疑問に思いましたところでありまするが、紫翠様は今は申し上げられぬとのことで。ただ、それがどうも、昔十六夜が封じておって、蒼様が消されたあの、性質の良くない方の闇の意思であったとかで…紫翠様は、先に怜光を連れて月の宮の方へと向かわれました。王には、後程ご説明をと申しておられましたが。」
維心は、顎に手を置いて考え込んだ。どちらにしろ、蒼が何かを気取って不安を感じていたのは確か。紫翠が闇を気取るというのは解せないが、しかしあり得ぬことではない。
「…月の宮へ。いや、十六夜に直接申せば良いか。」と、維心は立ち上がって月を見上げた。「十六夜。今そっちへ紫翠が行ったか?」
その少し前、十六夜は蒼と共に、静音の居る小さな屋敷に結界を張り、その中に腹の子ごと封じ込めていた。
光希の遺体は、蒼が気を使って運び出し、外へと寝かされている。
その有様には朔も到も身震いしていたが、薫が寄って行って、じっと見下ろした。
「…まともな死に方ではないな。」と、腕から垂れ下がった、麻紐が通された石の欠片を見た。「これが、術の玉の欠片なのか。」
碧黎が、降りて来てそれを見て、息をついて頷いた。
「そうよ。十六夜と蒼が言うように、これにはもう、闇の気配はない。だがしかし、しばらくはここへ闇の霧が吸い込まれてため込まれておったのは容易に想像できような。ゆえに、これは黒い霧に憑かれておるような状態であったのだ。いろいろな負の感情が増幅される…そうして、また霧を生み出してここへ吸収される。いつから持っておったのか知らぬが、そうやって闇に力を与えておったのだ。」
薫は、悔し気に言った。
「では、光希は悪くはなかったのだ。朔や到と同じように、いくらか恨んではいても、普通なら浄化されて何事もなく生きておったろうに。こんなものを拾ってしもうたばかりに、闇などに利用される羽目になってしもうて…哀れなことよ。」
十六夜の声が、言った。
《つまりは、あの場所へ行って僅かに残ってた闇の欠片をこれに回収することで、静音のペンダントの石と合わせて闇はまた意思を形作ることになったってことなのか。それだけのものが揃ったと。》
碧黎は、月を見上げて頷いた。
「そういうことだ。我もここまでは気取れなんだ。知っておったら蒼に宿題など渡さず我がさっさと処理しておったわ。これらが闇の術がどうのと言うておるのは知っておったが、そこらの神が集まって簡単に手に入る術でもないのは知っておるので、蒼がどうにかするまではと見ておるだけで放って置いた。我の責でもあろうな。」
そこに居る全員が、重苦しい気持ちで光希の遺体を見下ろしていた。何も知らない光希は、これが何か高価な石であるとでも思ったのだろう。砕けた玉を見つけて、それに穴を開けて大事に紐を通して持っていた。それだけのことなのだ。
薫は、顔を上げた。
「こうなると、光希の子だけでも助けてやりたいと思うもの。静音はあのようだが、それでも子には罪はないのだ。それに、石さえ無ければもう少しマシな女なのかもしれぬし。碧黎様、何か手はありませぬでしょうか。」
碧黎は、それを聞いて首を振った。
「ない。」あっさりとそう言い放つのに、皆が呆気に取られていると、碧黎は続けた。「まだ己の意思さえはっきりとはせぬ命ぞ。腹の子には抗う力などない。闇は肉の身を持って生まれようとしておるのだ…助けることなど出来ぬ。哀れではあるが、静音と申す女には腹の子共々死んでもらうよりないの。さすれば、闇はむき出しになり、十六夜の力に晒されて成す術もなく消えようぞ。それしか、手は無い。」
蒼は、分かっていたのか珍しく反論もせずに黙っている。薫が、自分の力の及ばないことに拳を握りしめて悔し気にしていると、十六夜が、何かに気付いたように、言った。
《…なんだ?どうした、お前なんでここに居る?》
え?と皆が見上げる。すると、満月をバックに、二人の人影が浮いているのが見えた。その人影の一人が、言った。
「闇を気取ったので、知らせに参ったのだが…」と、下を見た。「…遅かったようぞ。」
蒼が、ハッとして言った。
「その声…紫翠か?」
紫翠は、軍神の一人を連れて、上から降りて来た。そして、蒼の前に立つと、頭を軽く下げた。
「蒼殿。ご無沙汰いたしておりまする。我は宮からこちらの方に嫌な気配を感じ、龍の宮で明蓮に相談してから、こちらへと参ったのです。真っ直ぐにこちらへ向かうべきだったのかもしれませぬ。申し訳ありませぬ。」
蒼は、目を丸くした。
「え?気取った?西の島からか?」
蒼が戸惑っていると、十六夜がまた言った。
《ああ?お前、この時間は寝てるんじゃねぇのかよ。こっちは忙しいんでぇ。紫翠は今来たけど、何か西からこっちの嫌な気配ってのを感じたとか何とか。》と、見上げている皆に言った。《維心だ。こっちへ紫翠は来たかってよ。》
蒼は、頷いた。そうか、維心様もご存知なのか。
《なんだって、来るって?おいおいお前が来てどうなるってんだよ、こっちは闇だぞ。…寝てなくてイライラってオレだってそうだっての!面倒なことになってるんだよ、親父だってお手上げなんだからな!》
十六夜が、何やら維心と言い合っている。
それを後目に、碧黎はため息をついて皆に言った。
「ここは今は、結論は出ぬだろう。主らにしたら子の命ひとつが掛かっておると思うておるであろうしな。だが、これだけは申す。闇が復活したら、月のみならず地上の命は己の手で己を滅ぼす道を歩む。我にはどうしようもなくなる。月が命懸けで前の闇を消したこと、主らには分かっておるはずよ。だが、次は無い。分かっておろう…我には、もう片割れが居ない。今の月を失ったら、月の命を生み出すことは、もう出来ぬ。」
蒼は、ハッと口を押さえた。十六夜と維月を、二度産んだ陽蘭はもう、居ない。神として転生して、どこかで生きているはずなのだ。
月の二人は、もうこれで最後の命で、代わりは無いのだと碧黎は言っているのだ。
「碧黎様…。」
蒼が、悲し気に言う。碧黎はそのまま、スッと消えて行った。
《わーったわーった!じゃあ来いよ、もうどっちでもいいっての!維月?連れて来い!寝ててもいいから維月は連れて来い!》と、十六夜はこちらを見たようだった。《…お。どうした?親父はどこ行った?》
蒼は、悲壮な顔のまま、十六夜を見上げた。十六夜と維月の前世、二人が光輝いて死んで逝った記憶は、蒼にはまだ新しかった。それでも、陽蘭と碧黎の二人が居たからこそ、こうして戻って来た。だが、これからは失ったら、もう戻らないのだ。
「十六夜…とにかく、一度話をしよう。維心様も来るんだろ?紫翠からも話を聞かないと。」と、皆を見回した。「嘉韻、薫と朔、到、螢を帰らせてくれ。明日はまた話を聞くこともあるかもしれないし、四人共非番で。その後、嘉韻もオレの居間へ来てくれ。話をしておかないと。」
嘉韻は、頭を下げた。
「は!」
そうして、まだこちらの様子が気になる四人の背を押して、嘉韻は軍宿舎の方へと飛んで行った。
蒼は、紫翠と怜光を促して、そして自分の居間の方へと戻って行った。