訪問
「紫翠が?」
維心は、維月と共に寝る準備をしているところだったのだが、もう日も落ちて宮に明々と灯が入っている中で、兆加に言った。兆加は、困惑した顔をしながらも、頷いた。
「はい。何やら急に明蓮に話しがあるとかで、王には大変に失礼なことなれど、明日の朝ご挨拶に参るとお伝えを、とのことでございまする。」
維月が、横で目を丸くしている。紫翠はとても礼儀を弁えた頭の良い皇子で、こちらで何度か見かけた時にも、維心とよく育っていると褒めていたほどだったのだ。
それなのに、これほどにいきなり来るのは珍しかった。
「…まあ、あれも一度こうと思うたら聞かぬ性分なのだと翠明がこぼしておったしな。恐らくは、何か疑問があってどうしても明蓮に聞かずでおれなんだのだろう。我に直接に会いに参った訳でもあるまいに、特に我は構わぬよ。礼を失しておるとも思わぬ。まだ皇子であるし、こういう外出も多めに見られるものなのだ。王となったらこうは行かぬしな。」
兆加は、ホッとしたように頭を下げた。
「は。では、参られましたなら、直接に明輪の屋敷の、明蓮の所へ。」
維心は頷いて、ふと空を見た。
「…もう来たの。まあ良い結界は通したゆえ、後は明輪になんとかせよと申しておけ。我は休む。」
兆加は、慌てて頭を下げた。
「はは!それでは、御前失礼致しまする!」
そうして、転がるように出て行った。
維月が、それを見送りながら言った。
「…ほんに身分があると友に突然に会いに参るのも面倒ですのね。紫翠は明蓮を親友だと思うておるようですし、明蓮もよう話しておって。」
維心は、フッと笑って維月の手を取った。
「我はそこまでうるそうないゆえ。別に紫翠が明蓮に突然に会いに参ったとて構わぬわ。まだ寝ておらぬで良かったことよ。さすがの我も、寝ておるところに兆加が報告に参ったら良い気はせぬし。」
維月は、苦笑して維心の手を握った。
「まあ維心様ったら…そこも多めに見てあげてくださいませ。」
維心は、奥の間へと歩きながら、首を振った。
「我とて主と過ごす時間は大事にしたいと思うておるわ。来るなら勝手に来いということぞ。」
そうして、二人は奥へと入って行った。
明輪は、突然に紫翠から明蓮に向けて訪ねる、という文が来たと聞き、慌ててそれを持って宮へと参上していた。
明蓮が友人と付き合うのは問題ないのだが、その相手が第一皇子ともなると話は違う。政治向きの事も有るので、まずは王に中へ入れてもいいのか聞いて来なければならないのだ。
そして、自分の屋敷へと招き入れる以上、それはその屋敷の主である明輪が聞きに行く必要があった。
明蓮は恐縮していたが、これは明蓮が悪いのではないのだと知っていた。紫翠がいきなりに来るというのが悪いのだ。だが、相手は王族であるし、来るなとは明輪にも明蓮にも言えない。そんな訳で、明輪はこんな夕刻も過ぎてから、宮へと来る事になってしまったのだ。
兆加が、慌てたように息を切らせて奥から出て来たかと思うと、言った。
「明輪!もう来られたようぞ!王が結界を通されたと!迎えに参ってくれ!」
明輪は、もう?!と驚いた。まだ良いとも返事をしていないのに。
仕方なく、立ち上がった。
「すまぬの、兆加殿。では、参る!」
明輪は、慌てて空へと紫翠の気を探って飛び上がって行った。
しかし、いくらも探さずでも、紫翠は軍神をたった一人連れただけで、猛スピードで降りて来た。
「明輪か!すまぬ、このような時刻になってから。どうあっても明蓮に話をせねばと参ったのだ。」
明輪は、いくらか嫌味でも言おうと思っていたのだが、紫翠の端正な美しい顔で愁傷に言われると、そんな気も失せてしまった。そんな己に苦笑しながら、頷いた。
「紫翠様。お急ぎのようでありまするし、今我が王からもご許可を戴きましたばかり。我が屋敷へ。明蓮が待っておりまする。」
紫翠は、頷いた。
「参る。」
そうして、もう勝手しったる龍の領地の中、明輪の屋敷へと向かったのだった。
屋敷へと降り立つと、明蓮がそれは険しい顔をして、そこに立って待っていた。紫翠は、明蓮の表情を見て、やはりこの時刻ではまずかったか、とは思ったが、言った。
「明蓮、どうしても話をせねばと参ったのだ。」
明蓮は、スラリと高い背になっていて、紫翠より少し大きく育っていた。やはり瑠維に似て美しい顔をしかめて、答えた。
「あのな。父上や王にご迷惑をおかけすることになるのよ。普通に来ぬか、普通に!いきなりにこんな夕刻になど、いったいどうしたと言うのだ。」
明輪が、後ろで困ったように立っている。紫翠は、そちらを見て、言った。
「明輪よ、世話を掛けたの。しかし我は火急の用で参ったのだ。主も話を聞くか?」
明輪は、この目の前に居る息子の明蓮の方が、自分より物を知っているのをもう、知っていた。なので、首を振った。
「いいえ、我はこれで。屋敷の中は、自由になさってくださって結構です。それでは、失礼を。」
明蓮は、そんな父に頭を下げた。
「父上、ありがとうございました。」
明輪は、それには手を軽く上げて応え、そうして、そこを出て行った。明蓮は、大きなため息をつくと、紫翠に背を向けた。
「こちらへ。我の部屋へ参ろうぞ。火急とは、本当に火急であろうな?」
紫翠は、後ろに従って来る怜光を見てから、頷いた。
「我しか知らぬこと。恐らくは、の。」
明蓮は、片眉を上げた。
「何と申した?」
紫翠は、グッと眉を寄せると、怜光を振り返った。
「主は、部屋の前で待て。」
怜光は、頭を下げた。紫翠は、明蓮を見て、明蓮の部屋なのに自分で戸を開いた。
「そら、急げ明蓮。早う話してしまわねば、気が逸って仕方がないのだ。」
明蓮は、怪訝な顔をしながらも、そこは自分の部屋なのにと文句を言う気にもなれなくて、紫翠の背を追ってそこへと入った。
部屋の中へと入ると、慣れたように椅子へと座った紫翠が、口を開いた。
「明蓮、嫌な気配を感じるのだ。」
明蓮は、それを聞きながら自分も紫翠の前へと座った。
「何の気配よ。そも、主は西の島に居て、こちらのどこかにその気配を感じたと申すか。」
紫翠は、頷いた。
「…主には話しておらなんだ。我が前世の記憶を持っておるのは知っておるの?」
明蓮は、それには頷いた。
「知っておる。だからこそ主は、ませた口をきいておったのだとの。」
紫翠は、真剣な顔でずいと明蓮に寄った。
「父上にも言うておらぬ。我が前世、何であったかよ。」
明蓮は、紫翠が何を言いたいのか分からず、それでも戸惑いながらも、言った。
「どこぞの王族か?」
紫翠は、首を振った。
「それなら良かったがの。」と、視線を落とした。「…のう、主は前世、月の陰陽が命を落とした時のことを知っておるか。」
急に話題が変わったので、さすがの明蓮もすぐには頭が回らなかったが、それでも答えた。
「歴史書で読んだ…あの後すぐ、五代龍王で1600年もの間君臨された維心様が亡くなられ、将維様がご即位なされた。そして、七代龍王として、転生なさったので将維様は早くに隠居なされたのだ。月の陰陽は、我が王と同時に転生しておったのだと聞くがの。」
紫翠は、頷いた。
「その時の、闇の事は?その性質などはかかれてあったか。」
明蓮の瞳は、宙を彷徨った。恐らくは、読んだ書を頭の中でめくって探しているのだろう。それぐらい、明蓮の記憶力は良かった。
「…臣下の覚書が。洪と申す重臣筆頭が残した手記があった。闇の出現は二度。一度目、月が封印していたものを月の王、蒼が消し去った。大変に粗野で暴力的で排他的な性質の意思を持っていた。二度目、陰の月を取り込み、力を増したので陽の月が身を捨てて陰の月ごと消し去った。人型を取る闇で、人世や神世を知り賢い。性質は穏やかで内向的で己を抑えようとしていたが、最後には力に飲まれたと。それがどうしたのだ。」
紫翠は、そんな風に残されてあるのか、とため息をついて、悲し気にした。明蓮は、ますます意味が分からずに言った。
「主はおかしいぞ。どうしたのよ、それが何の関係がある?」
紫翠は、視線を落としていたが、思い切ったように目を上げた。そして、潤んだ目で、明蓮を見て、言った。
「…それぞ。二度目の闇。それが、我だったのだ。」
明蓮は、それを聞いて一気に両方の眉を跳ね上げた。
紫翠が、闇の生まれ変わりだって?!
「な…何と申した?主、闇と?その、内向的で穏やかな人型というのが、主か?」
紫翠は、今にも泣きそうな顔をして、頷いた。
「我にも、どうして生まれたのか分からなんだ。あの頃、我は気が付いたら森の中で独りで居て。回りの動物たちは、我を避けるようにしておった。小動物を助けようとしたのに、どちらも逃げた。我が近付くと、人は負の感情を大きくして不幸になり身を滅ぼす事も、生きていて知った。我は…我はなぜか生まれながらに、全ての生き物に忌み嫌われる存在として、生きておったのだ。」
明蓮は、紫翠の瞳に、その孤独な生を見ていた。選んだわけでもない。ただ、生まれたらそういう存在で、皆に避けられたった独りだった。紫翠は、続けた。
「…我は、人や神が好きだった。だが、我が近付くと黒い霧にまとわりつかれて、あれらは悪い方向へと舵を切り、自滅して行く。誰とも近寄ることも出来なかった。触れたら相手は黒く変色して腐敗するようだった。だが…陰の月の、維月は違った。」
明蓮は、息を飲んだ。陰の月を取り込んだ…もしかして、そう言う事なのか。
「主…取り込むつもりはなかったのだの。」
紫翠は、頷いた。
「無かった。我はただ、触れても腐敗せず、霧に染まらず、ただ美しく笑うだけの維月と、また話したいと思うただけだった。それなのに、皆が皆我を遠ざけようとした。我を消そうと…むきになって維月に近付いた時に、龍王に阻まれてそれを避けようと放った力が、維月に当たり…我は、あれを取り込んでしもうた。もう、そうなると我にもどうしようもなかった。」
紫翠は、ガックリと頭を抱えた。明蓮は、そんな事実があるとは、書の中からでは分からなかった。紫翠の口から聞くまで、書の上でのことしか知らなかったのだ。
「…知らなんだ。闇も、そういう性質を持っておることもあるということか。」
紫翠は、頭を抱えたまま、頷いた。
「そう。人や神の負の念から生まれる黒い霧が、闇を作った。前世の我ぞ。しかし、人や神は、己で生み出しておきながら毛嫌いして消そうとしておった。そんな命に生まれた我は、どうしたらいいのかも分からなかった。親に追われる子、という心境であろうな。だが…死して、我は黄泉へ行った。そう、十六夜と、維月と共に。あれらは、我を責める事も無く、ただ次は良い命に生まれることが出来ようと、逆に慰めてくれた。我は、そうあって欲しいと望んだ…そうして、転生したのは、あの西の島南西の宮であったのだ。」
明蓮は、そんな壮絶な記憶を持っていたのなら、それはあの享の術の最中でも、落ち着いていられただろう、と思っていた。あの時、まさに一度目の闇の欠片との対峙をしたが、元二度目の闇であった紫翠には、その手の内が手に取るように分かったはずだ。
「…だから、あの折主は我らに助言出来たのだの。」明蓮は、もはや悟ったように、言った。「それで辻褄が合う。どのような神でも、闇相手となるとうろたえるもの。だが、主は落ち着いておった。知っておったからであるな。」
紫翠は、顔を上げて、頷いた。
「そうなのだ。我は、知っておった。己が、深という名で呼ばれていた闇だったということを。そして、同じ闇である一度目の闇の、意識を聞いた。月を恐れ、隠れて生きていた。一度目の闇の、考えも知っていた。だからこそ…我は、あの折主らが取り込まれぬようにと、ああ申したのだ。」
明蓮は、深刻な顔で紫翠を見た。そんなに深い記憶を持っていたとは、思わなかった。
「ならば…今の主も頷ける。今の生が恵まれておることを知っておるから、しっかりと努めようと思うておるのだな。だがしかし、それと今夜急に参ったのと何の関係があるのだ。それならば明日我に話しても良かったのではないのか。」
紫翠は、首を振った。
「違うのだ明蓮。それを話したのは、我がなぜにそれを気取るのかという事を主に分かってもらうため。」
明蓮は、それだけで悟った。そうして、椅子から飛び上がるように立ち上がった。
「まさか…!」
紫翠は、座ったまま、頷いた。
「そうよ。」と、紫翠は暗い顔をして明蓮を見上げた。「我は気取ったのだ…闇の意思というものを。」
明蓮は、愕然とその場に立ち尽した。
闇が、また現れたというのか。