西の島南西の宮
翠明は、今日も訓練場に引っ張り出されていた。
というのも、紫翠がどうしてもどうしてもと、連日この宮で一番の手練れである王である、自分に指南して欲しいと煩いからだ。
椿の次に生まれた第二皇子である緑翠もまさかこんな感じになるのではと、翠明は気が気でなかった。
椿は愛らしいが活発で、綾に似たのかそれはお転婆で困った娘だったが、それでも翠明は可愛くて仕方が無かった。それなりに育って来た椿は、今は人で言うと中学生になったぐらいの大きさだ。色合いは翠明に似ていて緑の瞳だが、髪は黒く、気の強そうな感じは綾譲りだった。
綾は、自分に性質が似ている、と感じた途端、それは厳しく椿を躾けたので、お転婆だったとはいえ、公の場ではきちんとした姫だった。連日精進する兄の紫翠を見習って、自分も一生懸命に書を習っている様は、翠明も微笑ましかった。
午前中いっぱい紫翠に付き合って、政務も溜まって来ていると新光がやって来てじりじりしているのを感じていたので、翠明は刀を下ろした。
「紫翠、では父は政務に戻る。本来なら午前中に終わらせるものであるのだぞ。主も無理を言うでない。」
紫翠は、刀を鞘へと納めると、頭を下げた。
「は。父上、ありがとうございました。では我もご政務をお側で拝聴したいと思います。」
そうして、きびきびと準備に動き出す。
そんな紫翠を見ていると、自分はあの歳の頃何をしていたのかと翠明はつくづく思った。恐らく、あちこち飛び回って遊んでいたような。
鷲の血がそれほどまでに優れているのか、と今更ながらに思いながら、翠明は新光に追い立てられて会合の間へと向かった。
「どちらも、跡継ぎには困られておるというのに」新光は、議題も処理し、雑談のようなものに答えて言った。「我が宮では紫翠様のように優れた跡継ぎが居られて。大変に心強いことでございます。」
確かに、ここの宮ではそういった懸念が今はない。
自分にはまだ20歳ほどの紫翠が居て、これが間違いなく後を継ぎ、そうしてこの宮は安泰だ。軍神の方も、頼光の息子の怜光が育って来ていてそれを紫翠に付けていて、恐らくは間違いない。しかし、東の方では今の軍神や王が優秀過ぎて、後を継ぐ者を案じているような状況のようだ。
月の宮も一時の勢いはどこへやら、今は確かに手練れだらけなのだが、あれらが退いた後はというと、少し心もとない状態のようだ。
とはいえ、龍の宮は次世代もそれは熾烈な序列争いがあるほどに、後継には困っていないようだった。
「…鳥の宮でも炎嘉殿は妃が居られぬし、炎託殿は前世の息子だと聞いておる。軍神には未だ、困っておられるようであるしな。成長が待たれることよ。」
翠明は、そう言って隣りの紫翠を盗み見た。
紫翠は、まだ20歳を過ぎた辺りとは思えないほどに落ち着いていて、それは勤勉で誰に似たのか分からないほどの優秀な皇子だった。
その上、綾にこれでもかと似たので、紫の瞳に自分の髪の色と同じような茶色の、それは凛々しく他に類を見ないほどに美しい容姿で、既にこの宮の侍女達だけでなく、他の宮の皇女達や侍女達に、先を争われて見られるほどだった。
夕方を過ぎて、日が暮れて差し込んで来る夕日の光に照らされ、今は更に美しかった。見慣れている翠明でも、思わずハッとするような様だ。
翠明が自分を見ているのに気付いた紫翠が、小首を傾げた。
「?なんでございましょう、父上。」
翠明は、自分の美しさなど面倒でしかないと思っているこの息子に龍王のようだと苦笑して、首を振った。
「いや。ところで紫翠、主は未だ公明殿や明蓮とは交流があるようぞ。最近はどうよ?」
紫翠は、頷いた。
「は。明蓮には相変わらず教えられる事ばかり、あれを越えられるのかと文を取り交わす度に思うところでありまする。公明とは、政務の何某かを教え合う仲でありまする。あれもよう努めておるようですので、我もしっかりと精進せねばと。」
どこまでも真面目なようだ。
どこかの誰かの生まれ変わりなのだそうだが、相当に優れた神だったのだろうな、と翠明は思った。
「では…本日の議題も無事に終わり申しましたので、これにて。」
新光が言うのに、翠明は立ち上がって頷いた。
「ご苦労だった。では明日の。」
「明日は午前でお願い致します。」
新光が慌てて付け足すのに翠明は苦笑して頷くと、紫翠と共に会合の間を出て、奥へと歩き出した。
夕闇が近付いているので、回廊には灯が入っている。二人でそこを歩いていると、ふと、紫翠が立ち止まった。
翠明がつられて立ち止まって振り返ると、紫翠は回廊の大きな窓の外、東北東の方角の方の空を、じっと目を凝らすように見ているのに気が付いた。
「…紫翠?」
紫翠は、まだじっとそちらを凝視している。翠明は、もう一度声を掛けた。
「紫翠、どうしたのだ。何かあるのか。」
翠明は、同じ方角を見たが、特に変わった感じは受けなかった。紫翠は、ハッと我に返ったように翠明を見ると、少し考えてから、首を振った。
「いえ…何やら、気になる気配を感じ申して。気のせいのようでございます。」
翠明は、怪訝な顔をしたが、また足を踏み出した。
「ならば良い。主も疲れておろうし、本日はもう休め。母がうるそう申すであろうが。」
紫翠は、頷いて歩き出した。
「は。」
そうして、歩き出したが、また、立ち止まった。翠明は、ため息をついて、振り返った。
「なんぞ?気になるのなら、頼光に見に行かせるが。」
紫翠は、しかし真剣な顔になると、言った。
「父上、我に龍の宮へ行く許可をくださいませ。」
翠明は、目を丸くした。龍の宮?
「何のためぞ。明蓮か?」
紫翠は、何度も頷いた。
「はい。あれに聞いて来たいことがあり申す。書で学んでおるだけでは分からぬことがあって、あれならば答えを持っておろうと。」
翠明は、ハアとため息をついた。勉学勉学と、そればかりだの。
「分かった分かった、行って参れ。とは申してもう夕暮れであるから、明日にせよ。曲がりなりにも皇子が参るのだから、あちらにも知らせねばならぬ。礼を失してはならぬから。分かったの。」
紫翠は、翠明の様とは対照的に、真剣な顔で言った。
「先触れを今から出しておきまする。明蓮は王族ではありませぬゆえ、夕刻に訪ねても問題なかろうかと思いまするが。」
翠明は、はあ?という顔をしたが、言い出したら聞かないのだ。だからこそ、今日も朝から自分は会合の間ではなく、訓練場に居たのだから。
「好きにせよ。我はもう疲れたゆえ。ああ、一人ではならぬぞ。怜光を連れて参れ。」
紫翠は、頭を下げた。
「は!」
そうして、紫翠はサッと脇へと反れて飛んで行った。
…あやつは何を考えておるのかたまに分からぬわ。
翠明はそう思ったが、今日は朝から出ずっぱりで疲れていたのもあり、さっさと奥へと引き上げたのだった。
紫翠は、部屋へと飛び込むとさっさと先触れの文を自分で書き、それを軍神の一人に持たせて明蓮へと送った。
そうして、怜光を呼んだ。
「怜光!」
すると、こんな時間に呼ばれるとは思っていなかった怜光が、急いで飛んで来て、紫翠の前に膝をついた。
「御前に、紫翠様。」
甲冑もそこそこだったので、今正に寛ごうとしていたところなのだと分かった紫翠だったが、生憎急いでいた。
「我は東北東へ行く。龍の宮へ行くと父上に言うてあるのでまずそこへ行くが、そこから場所を変えるやもしれぬ。」
怜光は、眉を上げた。
「いったい、どちらへ?」
紫翠は、答えた。
「まだ分からぬ。とにかく、明蓮の所へ。参るぞ!」
そうして、紫翠は明蓮からの返事が届くのも待たずに、西の島南西の宮を飛び出した。




