時が来た
義心は、目を開いた。
そこは、自分の宿舎でも屋敷でもなく、宮の治癒の対の寝台の上だった。
甲冑は着てないようなのに体がどうしたことか重い…気が抜け去って行くようだ。
義心がそう思いながらも体を起こそうとすると、治癒の女神の声が言った。
「義心様?まあ、お目が覚めましたか?」と、脇の侍女に言った。「王にご連絡を。」
義心は、半身を起こしながら首を振った。
「このようなことで王を煩わせたくはない。我は戻るゆえ。」
しかし、その声はかすれていて力がない。自分でも驚いていると、治癒の女神は寝ているようにと促した。
「お体が弱っておいでですから。今少しこちらでお休みくださいませ。王がそのように命じられておられます。お倒れになられてから、もう二日眠っておられたのですよ。」
義心は、驚いた。もうそんなに経っていたのか。
「任務につかねば。長く離れておったら、周辺の宮の監視がおろそかになってしまう。王のご判断に支障が出て…」
そこまで言った時、維心が維月と共に急いで治癒の対へと入って来た。
「義心。」と、治癒の女神を見た。「主は戻って良い。」
治癒の女神は、頭を下げて出て行った。義心は、急いで頭を下げた。
「王。このような姿で、申し訳ありませぬ。」
維心は、首を振った。
「良い。もう…任務には、就かぬで良いゆえ。」
義心は、驚いた顔をした。
「王?しかし、我は少し休めば任務に…」
維月が、困惑したように維心を見上げる。維心は、眉を寄せた顔のまま、言った。
「治癒の者に聞いておらぬか。」
義心は、首を振った。
「いえ、何も。体が少し重いのですが、特に問題は無いかと。」
しかし、維心は深刻な顔をした。維月も、袖で口を押えて黙っている。
そういえば、王は維月様を絶対に我に近付けないようにしておられたのに、なぜに共にお連れになっておるのだろう。
義心が疑問に思っていると、維心は言った。
「…老いが、参ったのだ。主の今の姿は、老人に近い。あと数日経てば、恐らく老衰で逝くだろう。」
義心は、驚いて己の顔に触れた。
触れた手に伝わる肌は、まるで緩んだ布のようだった。そうやって上げた手も、シミや皺が刻まれ、確かに老人に近い様だ。
…自分は、死ぬのか。
義心は、愕然とした。まだ、後継を育てていない。まだ、自分の代わりを作れていないのに。このまま死して、そうして王は、どうやって世を守るための情報を得るのだろう。そして、維月様の幸福は…!
「…文箱を。」義心は、呟いた。「侍女、文箱と巻き紙を!早う!」
こんな時に、二日も寝ておったなんて。
義心は、必死になった。自分が知ることを、書き記しておかねばならぬ。気を使えば死期が速まる。ならば手で、書ける所まで己が知ることを全て遺して逝かねば!
「義心、無理をするでない。もはや時は少ない、せめて維月に看護させるゆえ。ゆったり過ごして逝けば良い。」
あわただしく侍女が文箱と巻き紙を用意している間、義心は首を振った。
「なりませぬ。王が、この後滞りなく世を治めて参られるためにも、我は己の持てる知識をできうる限り遺して参ります。」
維月様の、幸福のために。
義心は、必死に筆を取った。どこまで書けるか分からない。それでも残る命の限り書き記して後に残る者達に、何とか我の代役が務まるよう…。
「義心…。」
維心は、言葉を詰まらせた。自分は、いったい何を憤っていたのだろう。義心の忠節は、知っていたはずなのに。維月を巡って、意地ばかり張って。これだけ自分に尽くす神なのだから、子の一人でも維月と遺しても良かったではないか…。
維心は、取り返しのつかない時になって、やっとそう思った。義心は死ぬ。最後まで自分に尽くして。
そんな維心の気持ちなど知らず、義心は目の前で老いた姿で、必死に書を書き記している。
維月はただ、それを見守るだけだった。
義心の老いが来た知らせは、義心の屋敷にも届いた。息子の義蓮が急いで治癒の対へ来て、屋敷へ戻るようにと促したが、義心はそんな時も惜しいと寝る間も惜しんで筆を走らせていた。
そこには維月が、なぜか付き添っていて、義蓮は驚いた。とはいえ、義心はそれに目もくれず、ひたすらに書に向き合っていて、気にする様子もない。
王からの命だと言うが、軍神筆頭ともなれば、王の妃が看護するものなのだろうか。
義蓮は首をひねったが、王が命じた事なのだからと何も言わなかった。
治癒の対には、月の浄化の力が降りている。恐らくは十六夜がそうしているのだろうが、それのお陰で義心の老いは緩やかになっていた。
それでも着実に老いは進んでいて、義心の筆の勢いも、いつしか衰えて来ていた。
「そのように根を詰めずに。」維月が、義心の腕に手を置いて、言った。「気が残り少ないのに…治癒の者が、座っておるのもつらいはずだと申しておったわ。」
義心は、その腕に置かれた手から伝わる維月の気に、維月とのいろいろな事が頭を過ぎり、気持ちが緩んだ。維月様…だからこそ、我はあなた様の幸福を我が死した後も守りたいと思うのです。
義心はそう思ったが、維月に首を振った。
「いいえ。平穏な世を守るため、我の知識は必要なのです。維月様、王が神世を滞りなく治めるために、我亡き後も、王がお困りにならぬように。」
義心は、また筆を動かした。
「義心…。」
維月は、心が痛んだ。義心と過ごした時間は、あまりにも少ない。自分たちが黄泉へと逝っている間も、義心は将維を助けてくれていた。一時退官していたにも関わらず、また復帰して維心を助けてここまで生きて来てくれたのだ。
維心は、義心のそんな姿を見るのがつらいと、ここには来ない。
維月は、確かにこの様を見たら、維心の心は締め付けられてしまうのだろうと思っていた。
そうして数日、姿は人で言うなら100歳を迎えようかというものに変貌していたが、義心はまだ筆を動かしていた。維月は、毎日定期的に行うように、せめて老いを緩やかにする薬を調合し、それを飲みやすいように茶として淹れた。
「義心、薬湯の時間よ。少し休んで…、」
維月がそう言って茶碗を持って入って来たその時、義心は顔を上げた瞬間フッと気を失い、パタリと筆を落とした。
「義心?!」
維月が叫ぶ。義心は背を持ち上げた寝台の上に、座る形のまま倒れ込んだ。
「治癒の者!来て!義心が…!」気の残りが、少ない。維月は更に叫んだ。「維心様!こちらへいらして…!お早く!」
義心はその声を、遠く聞いていた。維月様…我はどれ程にあなた様を愛したことか。そのお声を耳に、死んで行けるとはなんと幸福なことぞ…。
しかし、義心は目を覚ました。
目の前には、維心の顔があった。暗い室内には、義蓮と維月、それに治癒の対の者達がひしめき合っている。
…まだ死なぬか。
義心は、身を起こそうとした。ならば筆を。
「王…筆を。」
維心は、目にうっすらと涙を浮かべた。まだ我のためと思うか。
「もう良い。我が気を一気に送り込んだゆえ留めただけ。もう時はない。」
維月は、泣いている。
義心は、もう終わりなのだと声を絞り出すようにした。
「ならば…王よ。これからも王の御世が滞りなく続くよう、我は心より願いまする。不義理な我を許しお仕えさせて頂いたこと、感謝致します。」
維心は頷いた。
「主は我をこれ以上ないほど助けてくれた。礼を申すぞ、義心。」
義心は、涙を流した。王…こんな我に礼を尽くしてくださるか。
息が荒くなる。しかし、もう義心は苦しさも感じなかった。
「義心!」
皆が叫ぶ。
知らせを受けた帝羽や新月、その他の上位の軍神が駆け込んで来る中、義心は、必死に維月を見た。
麗しいお姿…我は、この時もあなた様をお慕いしておりまする。
義心は心の中でそう、言った。
視界が曇る。焦点が定まらないようになった目で虚空を見つめる義心に、皆の声が呼び掛けた。その中に、維月の声があるのを義心は幸福に思った。
「…王…。我は、必ずや再び、王にお仕え致します。」
それが、最後の言葉だった。
「義心!」
皆が呼ぶ。しかし、目を閉じた義心には、もう何も聴こえていなかった。




