襲撃
悠理は、母を助けようと必死に刀を手に走ったが、甲冑の時ならいざ知らず、女物の着物が動きを封じていてとても間に合わないのはもう、足を踏み出した時点で分かっていた。
「お母様…!」
悠理が悲痛な叫びを上げる中、黒い影がフッと目の前を過ぎり、何か重いものが床に倒れる音がした。
「…?」
悠理の目の前には、軍神の甲冑の背が見える。この甲冑は、筆頭…?佐紀?
慌てて床を見ると、母はぐったりと気を失って倒れていた。悠理は、急いでその悠子の傍に駆け寄った。
「お母様…!」体を見たが、どこも傷ついていない。悠理は、ホッとして涙を流した。「ああ、良かったこと…佐紀、ようやってくれました。我は間に合わなかった。」
佐紀は、一瞬にして斬り殺された、玖気を見下ろしながら刀を鞘へと戻した。
「あの距離からならば致し方ないことかと。王に命じられ、様子を窺っておりました。」
悠理は、驚いた顔をした。
「え、お兄様が?」悠理は、考えるように視線を泳がせた。「お兄様は…お母様を疎ましく思われておるのだと思うておりました。お母様がそのように申しておりましたし。」
佐紀は、悠理を見下ろして、首を振った。
「今の箔炎様に、悠子様を疎ましく思うお暇などございませぬ。あちこちへの対応でそちらに忙しくなされておるので、奥へ様子を見にお戻りになるお時間が無いだけでございます。臣下の中で良くない動きがあるのはご存知で、悠子様のお気持ちを利用する輩が居るのも知っておられた。そして、此度の高司様のご譲位で、悠子様が危ういと思われて我に指示を出されたのです。奥にこれ以上長く留まるのは失礼でありますので、それでは我はこれにて。」
と、さっさと気で玖気の体を持ち上げると、サッとその場を出て行った。
悠理は、その背を頼もしく思った。佐紀は、成人前から仕えているまだ300歳にもならない軍神で、ずっと筆頭に座っている優秀な神だ。
我にもあの、素早さがあれば。
悠理は、口惜しく思った。母を守ることが出来たし、兄に心配をかけることも無かったのに。
だが、そうは言っても男女の差は大きい。悠理は普通の女性の体形で、たまに神世に居るガッツリした体形の女神ではなかった。気の量もまったく違うし、咄嗟の動きは絶対的に不利だった。
悠理は、しかし兄を助けるためにも更に精進しようと心に誓った。
箔炎が玖伊と共にこれからの対応について話を詰めていると、佐紀が入って来て膝をついた。箔炎は、顔を上げて言った。
「佐紀か。終わったか。」
佐紀は、頭を下げた。
「は。玖気でありました。悠子様に短刀を向けたので我が斬り捨てましてございます。」
それを聞いた玖伊が、バサリと手にした書状を落とした。玖気が…!
箔炎は、それを見て同情気味に僅かに顔をしかめると、玖伊に言った。
「もうここは良い。あとは佐紀と詰めるゆえ。主は戻れ。」
玖伊は、茫然としていたが、佐紀に言った。
「誠に…?誠に玖気が、悠子様を殺そうとしたのか。」
佐紀は、気の毒なと思いながら、頷く。
「そうだ。悠子様にそのお命を持って箔真様を守れと申して。高晶様が悠子様に手をお貸しにならぬと知って、悠子様を殺すことで神世に王を批判させ、王の退位、もしくは処刑を促すためだと思われる。」
玖伊は、聞いている間に目に涙をためた。最近は、屋敷にも戻れず宮で必死に箔翔崩御から即位の手続きを進めていて、玖気の様子にも気付かなかった。
「王…誠に申し訳なく…。」玖伊は、その場に跪いて頭を下げた。「まさか我が息子が、そのようなことを策しておるとは思いもしませず。我が足元からそのようなことが。如何様にもご処分くださいますよう。」
箔炎は、そんな玖伊にため息をつくと、首を振った。
「主には関係のないことぞ。息子も成人しておって己で務めておったのだからの。あれも箔真の世になれば、早う重臣として取り立てられると思うたのだろう。しかし、それは主の失脚も意味するし、主が思うほど息子は良い考えでは無かったと言うことだ。とはいえ、息子には違いない。このことは、告示せぬゆえ。静かに送ってやるが良い。」
玖伊は、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて、箔炎を見た。
「王…誠に、誠に申し訳ありませぬ。そのような温情を…感謝いたしまする。」
そうして、玖伊は屋敷へと戻って行った。
それを見送ってから、佐紀は言った。
「王。仲間はどう致しましょうか。恐らくは、玖気の筋から分かるはずでありまする。今、次席の雲居に調べさせておりますので、後で名はお伝え出来るはずでございます。」
箔炎は、先に指示を出している佐紀に、片眉を上げた。さっき己で考えよと言ったばかりで、もう己で動けるのか。
「…ならば後程それを報告せよ。だがまあ、名を見てみなければ分からぬが、恐らく玖気が殺され高司が退位した時点で、奴らは諦めるしか無かろうな。玖気の筋から名が知れることは、あやつらも知っておる。動けぬようになるはずよ。そもそも、箔真にその気がない。我は昨日の夜箔真と話して参ったが、あれはよう分かっておるわ。なので…母の悠子を、高司に返すかと思うておる。」
佐紀は、顔を曇らせた。母上であるのに…。
「しかし…箔炎様には育ての母であられるのに。」
箔炎は、苦笑して手を振った。
「何を子供のような。我は赤子の頃から気が違うゆえ、あれが母でないことは知っておったわ。躾はしておったが、育てたのは乳母よ。何より此度、あれは我より箔真をと願ったのだろう。やはり母ではない。ゆえ、もう宮から出して、災いの種は残しておかぬ方が良いと考えておる。」
佐紀は、箔炎を見上げて困惑した顔をした。
「では…御妹君も?」
それには、箔炎は首を振った。
「悠理は我が妹よ。あれがどうしても母と共にと申すなら行かせるが、我はここに残すつもりだ。箔真もな。鷹の子は鷹。悠子は鷹ではないが、父上の子である悠理も箔真も生粋の鷹ぞ。我が眷属は、我が守る。」
箔炎の、臈長けた様には佐紀も戸惑いっぱなしだった。この年月を感じる重みは何だろう。任せていれば安心と、こんなまだ子供でしかない王に、頼りたい気持ちになる。それが、間違っていないように感じるのだ。
そうして、また政務の書状に視線を落とした箔炎を、佐紀は心から仕えて行こうと決意を新たにして見ていた。
維心は、その報告を居間で義心から受けていた。そうして、ホッと息をつくと、頷いた。
「そうか。箔炎はやはりやり手であるな。普通ならそこで殺されてから気付くもの。だが、先に気付いて指示を出しておいたのだ。ま、それならばこの後のことも心配あるまい。あれならそつなくやりおるわ。して、即位は緊急であるからもうしておるであろうが、式は行いそうか?」
義心は、それには首を振った。
「恐らくは、せぬかと。今の箔炎様のご様子を見ておると、そんなことより実利の方を取られる様子。父王の喪が明けられるまでに、政務を全て把握しておかねばならぬとお考えのようで、毎日重臣達と会合の間に詰めていらっしゃいまする。」
維心は、それはそれで心配になった。
「まだ50でしかないのに。体の方が案じられることよ。とはいえ、我からも喪中は口出しできぬしな。全ては喪が明けてからということか。」
義心は、頭を下げた。
「は…。」
維心は、窓の外の庭へと目をやりながら、考えた。箔炎がどこまで出来るのか、一度腕前を見て置いてもいいかもしれぬ。だが100日が過ぎても派手なことは慎むという考えから、催しには来ないだろうし、いろいろ実際に接して探るのは、一年後か。
「ならば、あれの喪が完全に明ける頃に、また立ち合いの試合を開くことにしようぞ。」がしかし、義心からの返事がない。維心は、義心に視線を向けた。「義心?」
義心は、膝をついたまま、床に手をついて額に丸い汗を噴き出させて歯を食いしばっていた。
「…王…しばし、失礼を…。」
維心は、驚いて立ち上がった。
「どうしたのだ、どこか痛むか?」
義心は、しかし声が出ないようだ。維心は、声を上げた。
「治癒の者!参れ!」
「維心様?」維月の声だ。「まあ!義心!いったい、どうしたの?!」
義心は、何としても無様な姿は見せたくないと、必死に立ち上がろうとしたが、そのまま、維心の声と維月の声が呼びかけるのを耳にしながら、遠くなる意識と戦い、そうして暗闇へと沈んで行ったのだった。




