反旗
それから、箔翔は王の会合に出て来なくなった。
会合の内容を知らせるのは、もっぱら焔の役目で、それは焔自身が買って出たので任せているのだが、未だに宮を閉じるなとしつこく言っているようだ。
駿はしっかりと出て来ていた。観が駿が居ないと宮を開けられないと言っていたにも関わらず、駿は難なく宮を開けて出て来ることが出来ていた。それには、維心も感心していた。ということは、駿はあの、軍神達に心から敬われて仕えられているということだ。
連れている軍神達も、駿相手だとなぜかイキイキとしているように見え、獅子は代替わりに伴って、宮が一気に落ち着いたのではないかと思われた。
義心に聞いたところによると、駿はあの一万五千の軍神達の、全ての顔と名前を憶えているのだという。それは維心も自分の軍神三万の顔と名前は知っていたが、普通の宮ではそれは無い。なかなかそこまでは、出来ないからだ。
しかし、維心は知っていた。臣下の中でも侍女侍従は顔と名前が一致しなくても問題ないが、軍神だけはしっかりと掌握しておかねばならないということを。
だからこそ、維心は軍神だけはしっかりと記憶して、義心に任せきりという事は無かった。
なので、龍軍は統率されているのだが、駿はそれを、教えられなくてもやっているということだ。
…これは、期待できるやもしれぬ。
維心は、口には出さないが、密かにそう思っていた。
秋も深まり始め、龍の宮の喪が完全に明けた二か月後、獅子の宮でも喪が明けた。
それと共に、獅子の皇女である茉奈と、西の島北西の宮の、定佳から茉奈への正式な婚姻の申し込みが来た。
すぐに結納が交わされ、茉奈はその次の日には、豪勢な婚姻の荷と共に、定佳の宮へと飛び立った。
それは神世に告示され、それだけ早く全てが進んだことから、喪の間から話は進んでいたのだろうということが、皆には分かった。
椿との婚姻と、既に子が生まれたことが告示されたのも、その時だった。
駿は、一切を秘めて言わなかったので、それには皆が驚いた。もう、子が出来たのだ。ということは、あの会合で箔翔と対峙していた時、既に腹に子がいたことになる。駿は、腹の子と椿を守るために、ああしてあの場に座っていたのだ。
それは、迫力もあろうと維心は納得していた。
翠明も綾も、初めての孫の誕生にそれはそれは喜んで、箔翔のことなど意にも介さず連日祝いだの面会だのと言っては獅子の宮へと通っているらしい。
維月にも、それは晴天の霹靂だったらしく、驚いたように言った。
「まあ。十六夜ですら気取れなかったなんて。それで、どちらであったのですか?」
維心は、書状を維月に差し出しながら、答えた。
「皇女。名が桜であるからの。翠明と綾が物凄い可愛がりようで、茉希と共に乳母が抱く暇もないほどであるとか。顔立ちは、駿に似ておるそうな。」
維月は、その書状を眺めながら頷く。
「それは良い事でありますわ。でも、箔翔様のお気持ちは緩まぬでしょうね…。獅子の幸福な様など、見たくも無いと思うておられるようでありますから。」
維心は、ため息をついた。
「そうであるな。あれから箔翔は会合にも出て参らぬし、箔炎が気にかかる。よう無い宮の状況下で、どのように思うておることか。箔翔は、未だに獅子の宮を窺う事を諦めておらぬようであるしな。」
維月は、眉を寄せた。
「義心がそのように?」
維心は、頷く。
「調べさせておるからの。鷹がチラチラと見え隠れするらしい。駿も落ち着かぬだろう。もう子は腹の外へと出たゆえ殺される心配はないが、しかし引き続き椿のことぞ。主も知っておろう?腹に子が居っても、むしろその方が他の王が簡単に始末してしまえるということを。」
維月は、身震いしながら頷いた。
「はい。炎月の時で十分に。ならば駿様の、箔翔様に対する強硬な姿勢も分かりまするわ。椿様は元より、お子を守ろうとなさっておったのですから。」
維心は、また頷いた。
「そうなのだ。それにしても…ずっとこのままというわけには行くまい。箔翔も駿も、どうするつもりなのだ。箔翔は、徐々にこちらとの交流を、臣下レベルでも失くして行っておる。宮を閉じる準備にも見えなくはない。箔炎が、どう感じてあの宮で生きておるのかと思うたら、我は案じられてならぬよ。あれは我らを信じて託して参ったのに。愚かであった。」
維月は、同情したように維心を見た。箔炎が死ぬ時に、炎嘉と共に鷹の未来を守ろうと、約したのだと聞いている。もはや記憶が無いにしても、維心には約束したことを違えるのが心に重いのだろう。
「維明は、どのように?あの子は友でありましょう。箔翔様に密かに会いに参ったようですが。」
維心は、首を振った。
「維明は、無理であったと言うておった。もはや箔翔には、四方が敵のように見えておるようだと。維明ですら、我の手先ぐらいにしか思うておらぬそうだ。これほどこじれるとはの…炎嘉も己がやり出したことであるから、気が重いであろうな。」
維月は頷きながら、どうにかして突破口は無いものかと、息をついて月があるだろう空を見上げた。
しかし、どう考えてももう、外から何かをするには、手詰まり状態であるようだった。
駿は、事態を終息に向かわせようと、考えていた。
椿には反対されていたが、神世がここまで荒れたのは、自分たちが己の感情だけで事を決めた結果なのだ。喪の間は翠明に婚姻の打診をして、喪が明けてすぐに結納を交わすことを目指して、鷹の宮と交渉し、その上での婚姻ならば、ここまでこじれなかっただろう。
それを椿に言い、椿自身、自分が駿に迫ったという負い目もあるので、渋々頷いた。
何事も、感情のままに突き進んで良い事など無いのだ。
駿は、それを痛感していた。
そうして、鷹の宮へと書状を遣わせた。
鷹の宮では、その書状を受け取ったのは、会合の只中だった。
隣りには箔炎も居て、臣下達も固唾を飲んで箔翔が内容を確認しているのを見守っている。
読み終えてから、箔翔はそれを放り出して、言った。
「…このようなことは飲めぬわ!我は椿を箔炎にと言うておるのだ。横から割り込んだ礼儀も弁えぬ王が、提案など片腹痛い。」
箔炎は、箔翔が放り出した書状を拾い上げて、中身を見た。そこには、丁寧な駿の直筆で、この度生まれた皇女の桜を、箔炎の妃にと取り決めて、和解しようと書いてあった。
箔炎は、何よりその文字に吸い寄せられた。恐らく、駿は辛抱強く賢い王だ。それに、かなりの手練れで実戦を経験しているからか、どこか余裕すら感じる。あちらからこうして折れることで、世を元に戻そうとしているのだろうと穏やかな感じさえ受けた。
臣下達は、何事かと書状に視線を落とす、箔炎と箔翔の両方を見上げた。
「いったい、獅子は何を申して来たのですか?」
箔翔は、フンと吐き捨てるように言った。
「この度生まれたばかりの桜という皇女を箔炎にと妥協策を提案して参ったのだ。どうせ、椿を狙われる圧力に耐えられなかったのであろう。我は、椿をというておる。なぜにそんな赤子を欲しいと思うておるなどと思うのだ。」
臣下達は、顔を見合わせる。生まれたばかりの皇女。
「…ですが、それは妥当なことなのでは。」玖伊が、おずおずと言った。「あの、獅子の皇女でありまする。椿様がお育てになるのだから、恐らくは素晴らしい皇女になられるはず。何より、此度はあちらから折れて来られたのですから、ここらで和睦を結ばれるのが良いのでは…。」
箔翔は、面倒そうに言った。
「あちらが椿を差し出して来るまで、我は折れるつもりなどない。皇女が何ぞ。そんなもの要らぬわ。腹の虫が収まらぬと申したではないか。椿を渡すのが嫌だから皇女をさっさとやれば良いと思うておるのだろうが。そんなものは飲まぬ。あちらに面倒だと思わせて、もっと圧力をかけてやろうぞ。」
臣下達は、顔を見合わせる。
箔翔が、さっさと次の議題に移ろうとして、箔炎から書状をひったくって放り投げると、箔炎が言った。
「…我はそうは思いませぬ。」
臣下も、箔翔も驚いて箔炎を見た。箔炎の目は、薄っすらと赤くなっている。なぜだか分からないが、箔炎は怒っているのだ…それが、何に対してなのか、皆まったく分からなかった。
箔炎は、その赤い瞳のまま、箔翔を睨みつけて続けた。
「駿殿のこの書状は、自ら筆を取ってこちらに礼を尽くしておる。しかも、略奪は神世の常であり、あちらにそう非がないのを知っておるにも関わらず、あちらの生まれたばかりの第一皇女をこちらへと、最大限の妥協ぞ。それは、父上の圧力に屈しておるのではなく、神世の平穏を取り戻すため。それも分からぬのに、鷹の王として王座に就いておるなどと、恥ずかしい以外の何ものでもないわ。」
その、静かでありながら怒りを交えた声色に、箔翔は思わず息を飲んだ。まだ若い箔炎であったが、気の大きさは前世の父王と同じ、箔翔よりも大きなものだった。その箔炎は、箔翔に対して、こうして怒っているのだ。
「何を言う!」箔翔は、思わず立ち上がって座っている箔炎に言った。「主が蔑ろにされたのだぞ?!鷹を馬鹿にされておるのに、黙っておれと言う方が愚かではないのか!」
箔炎は、それでも座ったまま言った。
「何が鷹ぞ。誇りが何ぞ。鷹という種族を守ることが王としては最優先ではないのか。我はべつに、椿でなくとも誰でも良いわ。我は己で宮を回す。妃など何でも構わぬわ。それより、神世に鷹の狭量さが知れ渡っておるかと思うと、恥ずかしゅうで仕方がないわ。ようそれで王などと申しておるな。そんなことも分からぬか。」
箔炎は、怒鳴っているのではない。それなのに、怒鳴るよりも静かな激しい怒りを感じた。箔翔は、自分の息子であるまだ若い箔炎に、そんな風に罵倒されたことに顔を真っ赤にして怒鳴った。
「皇子であるのに偉そうに!王座に就いたことも無い小童が、何を言うておる!王である父に逆らうか!」
箔炎は、立ち上がった。ゆらりと、その体から闘気のようなものが湧き上がる。箔翔は、思わず身を退いた…箔炎が、自分に斬りかかって来るのではないかと思ったからだ。