敗北
その数日後、鷹の宮には、翠明からの丁寧な詫びの書状が届いていた。
箔翔はそれを見て激怒し、悠子はがっくりと肩を落として寝込んでしまった。
箔翔のそんな様子を見た箔炎は、そっと翠明の筆頭軍神である頼光から手渡された、椿からの文を開いた。相変わらずそれは美しい文字で、約束を違えたことへの詫びと、駿を本当に愛していることがしたためてあった。
それを見て、箔炎は、案外にあっさりと、仕方がない、と思った。
なぜか、あれから会ってもいないのに、自分の方が追いすがる椿を手酷く振り切ったような気持ちがして、初対面の時に感じた後ろめたいような、悪かった、というような、そんな気持ちを未だに引きずっていたのだ。
このまま婚姻したら、恐らく椿にそんな気持ちを持ってしまう自分なので、思うように意見が言えないかもしれない、と恐れてはいた。
なので、これで良かったのだ、と思ったのだ。
そう、お互い様なのだという気持ちが箔炎にはあったのだ。
なので、素早く皆の目を盗んで、駿との婚姻の祝いと、自分は仕方がないと思っているので幸福に、と短く返事を書いて、頼光に手渡した。
箔翔も悠子も、強く椿を押していたのでそれは憤っていたのだが、そんなわけで箔炎は、全く気にしていなかった。慕わしいとは言っても、特にまだ深く愛しているような感じではなかったし、そもそも一度顔を見ただけの女神を、そんな風に思う方が難しい。
なので、大騒ぎする箔翔を後目に、箔炎は息を付いていつもと同じ生活をしていた。
だが、箔翔は違った。
「翠明がいくら詫びても腹の虫が収まらぬわ!」箔翔は、頭を下げて控えている重臣たちの前で書状を振り回して叫んだ。「だから申したのに!こちらからの護衛も帰してしもうて、完全にあちらの手の内であったではないか!獅子は、駿の代で鷹と対立するつもりか!正式ではなくとも、皆の前で婚姻の話をして対面までさせておるというに!」
筆頭の玖伊が、びくびくしながらも言った。
「王、どうかお静まりを。そのようなおつもりは無いかと思われまする。あの折居られたのは観様、此度はその観様の葬儀のために、お二人が出会われてこのようなことになり申しただけなのです。駿様としてはそのような事にはご興味がおありで無い状態であって、これまでそれどころでなく、ご存知ではなかったのではないでしょうか。」
箔翔は、ギリギリと歯を食いしばった。
「父親の喪も明けておらぬのに…!このように急ぐ理由というたらこちらと話があることを知っておったからではないのか!腹の虫が収まらぬわ!次の会合で皆の前で抗議させてもらおうぞ!龍とて黙っておらぬのではないのか!」
しかし、玖伊は困ったように箔翔を見上げて、言った。
「それが…箔翔様、一昨日ご連絡が来たのですが、皆の負担が重いなら、次から龍の宮も会合の輪番に組み込んでも良いとあちらから申して参ったのでございます。ご存知の通り龍の宮は、最多回数会合の場として宮を提供している宮であり申して、それが喪中となると、皆会合のたびに負担が大きいので困っておったのです。龍王がそうして申して来たということは、正式にではないにしろ世へ出て来ようという意思であり、特に婚姻などももう、派手な式さえ挙げなければ何も言わぬのではないかという空気が流れておりまして…。」
箔翔は、地団駄踏みたい気持ちだった。だがしかし、他の宮の王達は、あの場に居て生き証人となっている。次の会合の後、場を設けさせて翠明と駿を糾弾するべきだ。これから観亡き後支えてやろうと思っていたのに、頭を下げたその後ろ脚で泥を掛けるようなことをして来た獅子だけは、どうしても許せない。
それを甘んじて指くわえて見ていただけの、翠明にもはっきりものを申しておかなければ。
箔翔は、気持ちが収まらずしばらくあちこちの物を放り投げては暴れていたが、そのうちに奥へと荒れながら入って行って、閉じこもってしまった。
玖伊は、ホッと肩を落として息を付き、困った事になった、と執務室へと引き上げて行った。
そんなわけで嫁取り合戦には完全に敗北した形の箔翔だったが、一歩も退くつもりはなかった。既に成ったこととはいえ、神世は確かに略奪の世。皇子の箔炎では王になる駿とは今、比べ物にならないが、同じ王である箔翔となら対等だ。むしろ序列で言うと鷹の方が上になる。箔翔が正式に話をして、割り込むことは形式上可能だった。
ただ、宮と宮との関係があるので、そんなことをする王は少ない。
だが、箔翔は今回、心底怒っていた。王の妃として宮に入れ、その実皇子の妃とすることは他の宮でもやっていることなので、箔翔は今回、そうやって割り込もうと決めていたのだ。
なので、ひと月後にあった駿の即位式にも、箔翔は出席しなかった。
喪中の維心が参列したのに出ない選択をするのは、実は鷹にとってかなり強い行動で、それによって神世では、鷹が何やら怒っているらしい、という噂が流れる事になってしまっていた。
上位の宮の王達にはその意味が分かっていたが、そのときは誰もそれに言及しなかった。
駿の即位に水を指す結果になってしまうと恐れたからだ。
とはいえ、面倒なことになっているのは確かだった。
なので、即位式の後にあった宴がはねてから、駿以外の上位の王は維心の控えの居間へと集まり、話し合う事になった。
「ここまでごねるとはの。」焔が、真っ先に口を開いた。「まさか己が娶るとか言い出すのであるまいな。そうなると緊張状態で領土の挟まる志心は面倒になろう。炎嘉は駿に付こうが、皆どうするのだ。」
志心が、顔をしかめた。
「だから慎重にと思うておったのに。炎嘉が何やら面倒をみてやるとか駿に言うておったから、悪い予感はしておったのだ。我も椿は駿の方が良いと状況を見て思うておったが、箔翔がやたら乗り気であったゆえまずいなと。困ったものよ。」
翠明が心持後ろに座り、恐縮して言った。
「誠にわが娘が申し訳ない。あれが予行練習するのは良いことだと思うてこちらへやったのだが、まさかこうなるとは。しかし駿殿は悪うないのよ。椿が奥へ押し掛けて娶れと迫ったようであるから。」
それには、焔が驚いた顔をした。
「なんとの。強い性質だとは聞いておったが誠にそうか。まあ仕方ないことよ…駿とて良いと思うたから受けたのだろうしな。本日も幸福そうで、良い縁ではないかと思うたもの。だが…箔翔の出方次第であるな。」
維心が、渋々口を開いた。
「…我はすまぬが炎嘉につく。つまり駿よな。先手を打って維月に悠子が泣きついて来ておったが、王が決めるのでどうしようもないと返せと言うておいた。なので箔翔には勝ち目は無いが、焔が言うた通り娶ると言い出したら我にもどうしようもない。」
蒼が、困ったように皆を見回して言った。
「待ってください、誰かにつくという話になるのなら、オレは絶対に維心様と炎嘉様について行きますが、そんなに大層なことになるんですか。ただの婚姻のことでしょう?」
それには、炎嘉が息をついた。
「王の妃を奪うとなると宮と宮との戦いになるのだ。維心が我につくと申したのは、別に我が友だとか関係なく、龍と鳥が分かれたら世が真っ二つになるからだ。我の方針が決まっておるので、維心は我につくしかないのだ。もちろん維心なら、否と思うたら箔翔につくと申したであろうが、こんなことで争う事が良いとは思うておらぬのだろうし、だから我につくとすぐに申したのだ。」
蒼は、こんな僅かなことで乱れるような、危うい世の中なのだと改めて思った。とりあえず、よくわからないのだから絶対に維心について行こうと決めていた。
志心が、それを聞いて頷く。
「そういうことぞ。蒼はとりあえず、維心について参ることは誰も疑っておらぬから、黙って聞いておれば良い。ま、我は我の考えで決めるのだが…今回の場合、どう考えても駿の方につくの。こんなことで戦になるのはおかしい。戦国になると神世も荒れるが人世も荒れる。連動しておるからの。もっと政などの事で揉めておるなら我とて考えるが、この場合どう考えても箔翔はやり過ぎよ。とはいえ…馬鹿にされたと思うておるだろうし、腹の虫が収まらぬ心地も分かるがな。」
炎嘉は、ホッとしたような顔をした。白虎に反目されたら、獅子の領地と接しているので軍の力ではこちらが上でも肝心の獅子の宮を守り切れない可能性があるのだ。
焔が、頷いた。
「我も炎嘉。しかし箔翔はそれを知っておるから、強くは出ないと思いたいがの。しかし、はなっから敵対という形ではなく、正式に婚姻の意思を表明するだけでも駿は無視できぬようになる。常に箔翔が椿を略奪せぬか気を付けておかねばならぬようになるし、実際略奪されたらされたで黙っておられぬだろう。略奪自身は神世で合法であるゆえ、それ単体で我らは口を出すことは出来ぬ。が、駿が取り返そうと兵を挙げたらこの限りではない。そこまでではないとしたら駿とて事を荒立てぬだろうが、本日のあの様子を見ておってもそれはないだろう。獅子と鷹が争うことになる…神世を静めるために、我らは兵を挙げねばならぬ。そうして鷹と獅子の話し合いの場を取り持たねばならぬ。どちらも滅ぼすつもりはないゆえな。しかし、椿のあの様子であれば話は獅子に有利であろうし…後には鷹は深い遺恨を残すことになろうの。」
蒼が、首を傾げた。
「ですが、聞いておったら皆炎嘉様につくのではないですか?箔翔だって勝ち目の無い争いはしないでおこうと思うはずじゃ。」
それには、志心が答えた。
「蒼、本日ここに、なぜ樹籐が居らぬ。式には出ておったであろう?」
蒼は、ハッとした。そういえば、最上位、上位となると、樹籐も居たし高司も混じる時がある。それなのに、二人とも式には出ていたが、宴には出て居なかった。帰ったということだ。
ここへ集まる話は宴の後でこちらへ歩いて来る時に聞いた。宴に出ていないので、ここに居ないのだ。
「…樹籐殿は、箔翔につくということですか?」
それには、炎嘉が辛抱強く答えた。
「蒼、各宮にはいろいろ柵があるのだ。まず、箔翔の正妃は高司の皇女の悠子。悠子が父王に泣きついておってもおかしくはない。何しろ、悠子は維月にまで文を遣わせておるぐらいなのだから、父王には絶対に相談しておるはずよ。その関係上、高司は箔翔につかざるを得ない。獅子についたら、悠子は最悪帰されてしまうやもしれぬからの。ちなみに、今ここでは我か箔翔かのような話になっておるが、神世全体の視点ではそうではない。鷹か獅子かなのだ。神世はまだ、我らがどちらにつくのか知らぬ。ただ、本日何のわだかまりもなく宴にも出ておるから、中立か獅子かと思うておって、様子見をしておるであろうの。なので、高司もああいう態度に出たのだ。一応、気分を害しているふりをしておるのだな。」
蒼は、頷いたがせっついた。
「それで、樹籐殿は?」
炎嘉は、さらに頷いて言った。
「樹籐の妹が高司に嫁いでおるのだ。なので樹籐はその繋がりから高司に準じることにしたのだろう。血の繋がりを越えてまで鷹に逆らうことも無いという判断なのだ…今は、の。」
蒼は、驚きながらそれを聞いていた。神世のどっちにつくとかの考えは、結構そういう婚姻の繋がりを見て決めていることも多いのだ。確かに、維月が維心に嫁いでいるので月と龍は繋がりが強いと言われているが、蒼から見たらそれだけでは絶対に無いと思っていた。これまでの関係性から維心には従って間違いないという確信があるからなのだ。
「これからは分からないってことですか?」
蒼が言うと、志心が頷いた。
「先ほど炎嘉が言うたが、神世はまだ我らがどちらにつくとか知らぬ。下位の宮々というのはの、我らがこれほどに近しく付き合いがあるとは思うておらぬのだ。たまに宴で同席して話しておるぐらいにしか思わぬのよ。だが、我らは結構簡単に行き来して情報を交換しておる。なので、ああして式に出て宴に出ておれば、我らは皆一枚岩ということなのに、それが分からぬのだ。我とて、まあ話を聞いてから決めるかと思うておったが、ほとんど皆に従おうと思うておった。だからこそ、宴に出た。箔翔が来ぬのはどこの宮でも先に知っておったからの。あれに準じようと思うておったら、まず樹籐や高司と同じようにここには居らぬ。ま、維心が一言獅子を庇うようなことを言っただけで、神世は一気に獅子側に流れような。樹籐とて、絶対に維心には逆らわぬ。例え妹が高司に嫁いでおってもの。高司すら、どうなるのか分からぬぞ?泣く泣く悠子を諦めてこちらへつく事が、無いとは言えぬ。それほどに、龍とは影響力を持っておるのだ。」
維心が、面倒そうに手を振って言った。
「そんなことは良い。箔翔だって知らぬはずは無いし、事前に我を取り込もうと悠子に命じて維月に文を書かせたのだろうしな。だが、龍がどちらか分からぬとなれば、次は鳥を押えねばならぬ。箔翔ですら、恐らくこの婚姻の裏に炎嘉が動いておったのは知らぬだろう。知っておったら煮え湯を飲まされる心地で本日の式には出て来ておった。普通は鳥、鷹、鷲は連携しておって龍に対抗するにはこの三つが揃わねば無理と言われておるのだが、本来連携するはずの鳥が獅子側についてしもうておるから、鷹にはどうしようもないのだ。それが分かるので、そうするより無いわけよ。」
皆が、うんうんと頷いている。蒼は、つくづく何も知らないのだと思いながら、その話を聞いていた。
焔が、ため息をついてしみじみ言った。
「我ら、同じ鳥という種族から分化したであろう?その昔は、我ら鳥の王のもとに集っておった。そして、我らが分かれると決めた時も、鳥の王は快く送り出してくれた。宮を作ることにも協力してくれた。そういう過去があるので、どうしても鳥には逆らえぬのだ。我が炎嘉炎嘉言うのも、そのせいなのよ。我らの血が覚えておるのでな。鳥、鷹、鷲の連携というよりも、鳥のもとに鷹と鷲が集っておるだけで、鷹と鷲はそうでもない。なので、もし箔翔が炎嘉と違う方向へ行こうとしても、我はそれに同意できぬ。我は鳥と共に鷹と戦おうの。」
それぞれの宮の背後には歴史と柵といろいろなものがあるのだな。
蒼はそう思いながら、聞いていた。炎嘉が焔を助けていたわけではないが、種族として覚えているからこそ、焔は炎嘉に親しく接するのだろう。
王達は、月が高く昇っている中で、まだ話し合っていた。




