その夜
駿は、これまで無かったほどに緊張していた。
椿が、ここへ来る。そして、自分はどうしても気持ちを告げねばならないのだ。
もしも断られたらと思うと、胸が締め付けられるような心地がした。今まで、こんなに緊張したことがあっただろうか。
いいや、父について初めて軍神達を戦った時にも、こんなに緊張しなかった。
一世一代の大勝負のような気がして、じっと覚悟を持ってそこに座っていると、扉の向こうから声がした。
「駿様。お呼びにより、参上いたしました。」
椿だ。
駿は、一気に体が震えるような緊張が走るのを感じた。だが、逃げることも出来ない。
自分が恐れているのだと、その時初めて知った。
「入るが良い。」
駿は、言った。若干声が震えてしまったが、しかしこれぐらいなら気取られてはいないだろう。
永遠とも思える時が流れて、扉が開き、椿が入って来て頭を下げた。
椿からは、今まで感じたことが無いほどの、強い決意のような、恐怖のような、何やら訳が分からない気が湧き上がって来ているのを感じる。
…もしかして、こんな夕刻に呼んだゆえ警戒しておるのか。
駿は、途端に自信がなくなり、暗い顔になった。やはり、あれは茉奈の思い過ごしなのでは。
椿は、思い切ってこちらへ来たものの、駿が自分の顔を見て暗い顔をしたので、途端に揺らいだ。茉奈はああ言ったが、駿が言ったことを勘違いして解釈して、自分に伝えに来たのでは。
二人して、ズンと暗い顔をしたが、しかしいつまでも黙っているわけにも行かず、駿は、自分の前の椅子を示した。
「そこへ座ると良い。」
椿は、言われて逃げ帰るわけにも行かず、そこへおずおずと座った。そのまま、じっと二人で向かって黙っていたのだが、窓の外では容赦なく日が沈んで行き、暗い夜の帳が降りて来る。
このまま黙っていても前には進まない。
椿が、キッと顔を上げた。駿は、勇気を振り絞って顔を上げたところだったので、椿も同じように顔を上げたのにびっくりしてまじまじと椿を見つめた。椿は、駿が何か話そうとしたのに、と、慌てて開きかけた口を閉じる。
駿は、バツが悪げに言った。
「その…このような夕刻に、すまぬな。」
椿は、下を向いたまま首を振った。
「いえ…我も、お話がしたいと思うておりましたので。」
駿は、少し前へと身を傾けた。
「え…なぜに?」
椿は、それは駿様が慕わしいし娶って欲しいから、などとは言えないので、何か適当なことをと、言った。
「その…先ほど父から文が参って。宮へ、一度帰って来いと申すのですわ。また即位式の七日前辺りにこちらへ来れば良いと。」
とりあえずの話題のはずだったのだが、駿はそれを聞いてグッと眉根を寄せて険しい顔をした。
帰って来いと。それは恐らく、鷹が何か言ったのではないか。何しろ、少し前までは翠明は、こちらからの礼の書状に、いくらでも椿を役立ててくれたらよいと、駿に書状を送って来ていたからだ。
ならば悠長にはしておられぬ。
駿は、いよいよ覚悟を決めて、まるで戦場に立って敵と対峙している時のように、真剣な顔をして姿勢を正し、椿に向き合った。
「椿。」
椿は、駿の迫力に思わず自分も背筋を伸ばした。
「は、はい。」
駿は、ぐっと椿に前のめりに体を寄せると、じっとその目を見つめた。椿は、命を取られるような圧力に、思わず黙って息を飲む。
駿からしたら命も懸かっているほどの覚悟だったので、椿がそう思っても仕方が無かった。
駿は、緊張で倒れそうになりながらも、ぐっと踏ん張って椿の手を掴む。本当は握るのが正解だったが、駿はそんなことには慣れないので、力加減も分からずに思い切り掴んだ。
それでも、椿も緊張が最高潮に達していたので、痛みも何も感じず、ただ目を離せずに駿の目を見つめていた。駿は、ブルブルと手を震わせていたが、思い切ったように、言った。
「我と、生涯共にこの宮を守って生きて行ってくれぬか。」
その声も、何やら震えてどこかいつもとは違ってしまった。椿は、何を言われるのかとただ緊張していたのだが、その言葉の意味を知って、目を見開いた。駿様は、茉奈様が仰ったように、我を娶りたいと思うてくださっておるのか。
椿は、見る見る目に涙を溜めると、思い切り微笑んで頷いた。
「はい!駿様、我は駿様のお傍に居とうございます!箔炎様とお会いした時は、初対面で運命なのかと思うておりました。でも…我は、駿様を知って、本当に慕わしいと思うことを知りました。我は、あなた様のお傍であなた様にお仕えして生きて行きとうございます!」
どんどんと、椿の心に愛されているのだという自信が湧いて来る。ここまで見て来た駿の性質で、生半可な気持ちでこんなに必死にこんなことを言い出すとは、思えないからだ。
駿は、椿の答えを聞くと、フッと表情を緩めたが、そのままへなへなと力を失くして、倒れそうになった。椿はびっくりして慌てて立ち上がり、駿をその大きな寝椅子へともたれさせた。駿は、苦笑しながら、それでも椿の手を放さずに、言った。
「情けないことよ。このようなこと、生きて来た中で初めてであったゆえ。あまりに緊張しておって、それが緩んでしもうた。」
椿は、同じように笑うと、言った。
「我も。こちらへ呼ばれておると聞いた時、どうしても我の想いを告げねばと。父が帰って来いと申しておりまするし…。」
椿は、急に思い出した。駿が自分を娶りたいと思ってくれるのは嬉しいが、しかしこのままでは宮へ帰らねばならない。だからこそ、茉奈が言ったのだ。ここ一番は、踏ん張らねばならない。詳しいことは何も知らないので不安だが、しかし今夜、駿に娶ってもらわなければならないのだ。
椿様、生きておったら、ここ一番は頑張らねばならぬのです!
茉奈の言葉が、脳裏に過ぎる。そうだ、自分には欲しい未来があるのだ。駿と共に生きたい。だったら、ここで自分が頑張らなければ、駿はそんなことにはからっきしなのだと茉奈が言っていたのだから!
「駿様!」
椿がいきなり、駿の両手を握り締め、寝椅子に座っている駿に乗り上げる勢いでずいと迫った。駿は、何事かと目を丸くする。椿は、あくまでも大真面目に、そして真剣に言った。
「このままでは、我は帰らねばならなくなりまする!成人もしておらぬので、婚姻が良く分かってはおりませぬが、駿様は知っておられますわね?!」
駿は、椿の気迫に押されながらも、かなり恥ずかしいことを聞かれているのだが、素直に答えた。
「知っておる。巻物を読んだゆえ。」
つまり、駿も実践はまだなのだ。
だが、ここで諦めてしまっては、引き離されてしまうのだ。
「でしたら、今夜!今夜婚姻してしまいましょう!」
駿は、仰天した顔をした。今夜?!巻物を読み直しておこうと思っておったのに?!
「待たぬか、我だって女を相手したことなど無いのだ。そんな暇はなかったし、成人した時巻物を読まされてそれきりぞ。もう一度読んでおかねば、何か支障が…。」
椿は、ぶんぶんと首を振った。
「明日父からの迎えが来てしまいまする!駿様、駿様は我と離れても良いのですか?もう二度とお会いできぬようになるやもしれぬのに?」
駿は、ぐっと黙った。言われてみればそうなのだ。炎嘉が、既成事実を作ってしまえと言っていた。そうすれば、後は何とかなると。
しかし、今椿に想いを告げて死ぬほど緊張したばかりなのに、またこれから緊張せねばならぬのか。
何しろ、たった一度巻物を読んだ知識しかない状態で、事に挑めと言われているのだ。しかも、相手も何も知らない状態で。
また俄かに緊張して来た駿だったが、しかしそんなことを言ってはいられない。何しろ、文が来たということは、明日にでも迎えが来る可能性があるのだ。
「…分かった。」駿は、覚悟を決めて言った。「だが、我だって知らぬことばかり。何か支障が出るやもしれぬ。それでも、良いか。」
椿は、もはや覚悟はとっくに決めていたので、頷いた。
「はい。我は覚悟は、出来ております。」
駿は、椿に頷き返し、そうして、二人して決死の覚悟で奥の間へと、手を繋いだまま向かったのだった。