気概
茉奈が駿の居間を窺うと、炎嘉はもう帰ったようだった。
なので、兄弟の気安さで、そっと脇の仕切り布から、兄の様子を見る。すると、兄は何やら険しい顔をして、じっと正面の椅子へと腰かけて考え込んでいた。
何か、政の話でもあったのだろうか。
茉奈はそう思ったが、しかしこのまま引き返すことも出来ない。沈んでいた椿を想うと、自分を気遣ってくれていた恩もあって、頑張ろうと思えた。
「お兄様。」
茉奈が、思い切って居間の中へと足を踏み入れると、駿はハッと顔を上げた。そうして、茉奈が入って来たのだと気付くと、急いで言った。
「茉奈、話がある。」
茉奈は、何事かと驚いた顔をした。政の事じゃなかったのだろうか。
「え…いったい、どうなさったのですか。」
駿は、頷いて自分の前の椅子を示した。
「座るが良い。主を呼ぼうと思うておったところだったのだ。もう夕刻であるし、寝ておったらと明日まで待たねばならぬかと考え込んでおった。」
茉奈は、示された椅子へと座って戸惑いがちに言った。
「まだ寝ませぬわ。それより、いったい我に何を?」
駿は、頷いて声を潜めると、前のめりになって言った。
「その…何を言うておると思うやもしれぬが、主なら我の心地も分かってくれると思うて。」茉奈は、怪訝な顔をする。駿は、続けた。「我は、椿を娶りたいと思うておる。」
茉奈は、一瞬何を言われたのか分からなかった。
だが、言った後の駿の真剣な目を見つめ返していて、段々にその言葉の意味が頭に浸透し、思わず声を上げた。
「ええ?!お、お兄様が、椿様を?!」
駿は、慌てて茉奈を押えた。
「声が高い。」言われて、茉奈は口を押える。駿は続けた。「突然のことで呆れておるだろうの。だが、我はついさっきまでそんなことには思いもつかなかったのだ。だが、炎嘉殿と話しておって、椿が即位式が終わると帰るのだと今さらに悟って…あれが、この宮から居なくなるのは、何やら苦しいと感じて。もしや、我はあれを想うておるのではないかと。」
茉奈は、頭が回り始めて、何度も頷いた。
「それは、間違いなく椿様を想われておるのですわ。ならば、椿様に何としてもこちらへ嫁いでもらわなければ。お兄様、椿様にそのお気持ちを告げられるべきですわ。」
駿は、茉奈の言葉に困惑した顔をした。
「そんなことをいきなりに言うたら…あれが、退くのではないかと。椿はそんなつもりはないのだろう。我から一方的に想うておっても、嫌な想いをさせてしまう。鷹との話があるし、箔炎を想っておらぬとは決まっておらぬのでは。」
茉奈は、何度も首を振った。
「お兄様、そんなこと。椿様は、お兄様をそれは褒めておられて、毎日影からようお姿を眺めていらっしゃいまする。お兄様が鬱陶しく思われてはならぬので、我には黙っておってくれとおっしゃって。きっと、椿様もお兄様を想われておると思いますわ。でも、父王が決めた縁があるのをお兄様も知っていらっしゃるから、それで何も言えぬでおられるのだと思います。どうか、自信をお持ちになってくださいませ。女から何か言うなど難しいのですから。お兄様から頑張ってくださらない事には、椿様も宮へ帰らねばならなくなるのですわ。」
駿は、椿が自分を褒めていたなど、知らなかった。まして影から自分を見ていたなど、気付きもしなかった。だが、茉奈が言うのだから真実なのだ。もしかしたら、椿も自分を想うてくれているのかもしれない。ならば、ここで自分が思い切って行動しなければ、何も状況は変わらないのだ。
駿は、軍神達を収める時でもこれほどに緊張しないと思いながら、必死の決意を持って、頷いた。
「主を信じようぞ。どちらにしろ、怖がっていては何も動かぬ。我が、あれに問うしかないのだ。我の妃になってくれるのかどうか。」
茉奈は、満足げに頷いた。
「はい、お兄様。お兄様ならば、絶対に大丈夫ですわ。では、我が椿様を呼んで参りまする。」
駿は、それには仰天した顔をした。今?!
「今すぐか。」
茉奈は、立ち上がって駿を鼓舞した。
「早いに越したことはありませぬ。神世は早い者勝ちなのですわ!お兄様、お気張りくださいませ。」
駿は、妹の気の強さをこの時ばかりは恨めしかったが、炎嘉と同じことを言う茉奈に、頷いた。
「…分かった。父上の喪中に何をと言われるやもしれぬが、確かに早い者勝ちよ。玉砕覚悟で申してみる。」
茉奈は、そんなはずはないと心の中で太鼓判を押しながら、飛ぶように駿の居間を出て行った。お兄様があのように前向きになってくださったなら、もう椿がこちらへ来るのも決まったようなものだわ!
椿の部屋へと駆け込むと、椿が何やら、書を見て険しい顔をしていた。茉奈は、邪魔をしたかと足を止めた。
「椿様…?お邪魔でしたか。」
椿は、声に我に返ったようにこちらを見る。そうして、暗い顔で言った。
「…父から、一度帰って参れと文が参りましたの。即位式までふた月、また式の七日前ぐらいにこちらへ来れば良いと。どうやら…箔翔様から、独身の皇女を他の宮で長く置くのはいかがなものかと、諫められたようですの。」
箔炎との婚姻をどうしても成したいらしい箔翔からしたら、独身の王が君臨する獅子の宮で長く置くのは、心配の種でしかないのだろう。なので、翠明に圧力をかけたのだ。
茉奈は、キッと顔を上げると、椿の手を握り締めた。
「椿様、ならばすぐにでもお兄様と婚姻を。」椿は、さすがに仰天して茉奈を見た。茉奈は構わず続けた。「今、お兄様から聞いて参ったところですの。お兄様は、椿様を娶りたいと思うておられまする。それを告げたいので、呼んで来て欲しいと言われのです。本当は兄から知らせて欲しかったのですけど、事は切迫しておって悠長にはしておれませぬ。このままではお二人は、思い合っておるのに引き離されてしまいまする。ですけれど、きっとあの慣れない兄のこと、喪がどうのと躊躇するかと思うのです。椿様、あちらもあなた様を想うておるのです。自信をお持ちになって、ここはあなた様から押して押して押し倒すぐらいで行かねば、取り返しのつかない事になりまするわ!」
椿は、さすがにそれには息を飲んだ。駿様に、自分から迫るのか。
茉奈は、成人していて正式ではなくても既に定佳の妃であり、さすがにもう婚姻のことを知っているので、そういう事には抵抗が無いようだったが、しかし椿は、まだそんなことはしたことも無いし、侍女達から少し聞いているだけで、深くは何も知らないのだ。何しろ、まだ成人していない。
「そ、それは…何しろ、我はまだ成人しておらずで、何も知らぬのですわ。侍女達から少し聞いておるだけで…。」
茉奈は、首を振った。
「椿様、ここはお気張りにならねば。お兄様と引き離されても良いのですか?我だって、定佳様に己が女だと告げに参った時は、それはそれは勇気を出して参ったのです。捨て身の行為でありました。でも、それで我は定佳様と真に思い合うことが出来申した。しかも、お兄様も椿様を想うておるのに。椿様、生きておったら、ここ一番は頑張らねばならぬのです!」
そういうことを、経験している茉奈は、とても強かった。何しろ、軍神達に混じって任務についていたほどの気概がある女神なのだ。ここ一番は、確かに茉奈は、強かった。
椿は、茉奈の言葉を聞いていて、段々に勇気が湧いて来た。駿様が、想ってくださっているのだという。ならば、どうあっても帰りたくない。そのためには、駿様と婚姻を。そう、一刻も早く。
椿は、父からの書状を机にバンと置いて、立ち上がった。
「わかりましたわ。そう、茉奈様のおっしゃる通り。どうしてもつかみ取りたい未来があるなら、ここ一番は踏ん張らねばなりませぬ!茉奈様、我はやり遂げてみせまする!」
茉奈は、微笑んで何度も頷いた。
「そうですわ!大丈夫、お兄様はお待ちです。さあ、お兄様の居間へ。」
椿は、茉奈を頷き合って、そうして並大抵の覚悟ではない覚悟を持って、駿の居間へと向かったのだった。




