喪中に
茉奈は、すっかり女らしく淑やかな風になっていたが、それでも時に訓練場に立つことも忘れなかった。
茉希も、そんな様子にホッとしたようで、やはり父親を亡くしたことで目が覚めたのだろうととても喜んでいた。
喪の期間は百日あるが、あれからもうふた月以上になる。
定佳と密かに愛し合ったのは、父の葬儀の日だった。その日、定佳は父の喪が明けたらすぐに、こちらへ婚姻の申し込みの書状を送ると約束してくれていた。
兄の駿には、全て包み隠さずに話した。兄は、急な事に驚いたようだったが、父の葬儀の日にと責めることもなく、良い事だと許してくれた。
そうして、定佳に文を遣わせて、茉奈への文を駿宛に送ることを許可してくれたのだ。
なので、定佳とは毎日のように文を取り交わすことが出来た。とはいえ、公に文のやり取りが増えたら、兄が何か定佳に用があるのかとおかしく見えるので、あくまでも密かに軍神は行き来していた。
椿とも、それは仲良くなっていた。
椿の手は、それはそれは見事なもので、母ですらどうしてもと乞うて指南を受けているほどだ。
もちろん茉奈も定佳に恥ずかしくないように、毎日椿について書を学んでいた。
そんな中で、茉奈は椿には、定佳とのことを話していた。
母には怖くて話せなかったが、椿には何もかも許してくれそうな、大きな包み込むような感じを受けるので、つい相談してしまったのだ。
それでも椿は兄と同じく、茉奈を責める事もなく、それは今はお寂しいでしょうといたわってくれた。
駿には全て話して許してくれていると言うと、とても驚いたようだった。駿の心の大きさ、優しさが、椿には荒れた宮の王とは思えないかただと思わせたようだった。
「駿様には…お辛いことも多いでしょうに。我にもとても親切に、いつも気遣ってくださいまする。なので我も、出来ることは何でもお手伝い差し上げたいものと思うて…。」
椿は、そう言って顔を曇らせた。どうして顔を曇らせるのか分からなかった茉奈は、元気付けようと言った。
「お兄様には大変に出来たかたでいらっしゃるから。立ち合いなどして憂さを晴らすのだと申しておりました。なので椿様と立ち合ったりなさる折りには、きっと楽しんでおるのだと思いますわ。」
しかし、椿は息をついた。
「駿様は大変に優れた立ち合いをなさるから。我などいつも手加減をして頂いて、指南を受けているようなものですわ。楽しませて差し上げるには、我は未熟過ぎて…。」
それでも、茉奈から見たら椿は相当のものだった。
「ですけれど…そうですわ!」茉奈は、目を輝かせた。「我も嫁ぎまするけど、椿様も箔炎様とのお話がおありなのでしょう?あのように大きな宮の美しいかたに嫁げるなど、夢のようなことですわ。椿様だからこその良い嫁ぎ先であるかと。」
なんとか椿を明るくしてあげたいと言った事だったが、椿はそれで、更に暗い顔をした。
「…確かに、我には過ぎたお話かと。箔炎様も、良いかたであられるし…。」
それでも、椿の口調からはとてもそれを喜んでいるようには見えない。茉奈は、急に心配になった。もしかして、椿は気が進まないのでは。
「…もしかして、お気が進まないのですか?」
椿は、ハッとしたような顔をした。そして、慌てて首を振った。
「そのような。父や母が決めて参った事でありますわ。我は、宮のためにも、それに従わねばならぬと思うておりまする。」
それでも、茉奈は退かなかった。
「いいえ。椿様、否ならば否と。父上や母上も、椿様のお幸せだけを祈っていらっしゃるはずですわ。そのように椿様がお暗いお顔をなさるのを、見たいはずなどありませぬもの。我は、このように荒れた宮でありますが、それでも父も兄も我の考えを聞いてくだされた。母も結局は折れてくださった。己の望みは、申し上げねばなりませぬ。」
椿は、迷うような顔をした。茉奈に、言おうか言うまいか迷っているようだった。茉奈は、ただじっと椿が話してくれるのを待った。
しばらく黙った後に、椿は思いきったように茉奈を見た。
「誰にも、言わないと約してくださいまするか?」
茉奈は、何度も頷いた。
「ええ。我だって定佳様の事をお話ししましたのに。ご案じなさいますな。」
椿は、頷いてから声を潜めて、言った。
「実は…我は、箔炎様に嫁ぐことは、何やら懐かしいような、決められておったような感覚がして、嬉しく思うておったのですわ。その、何やら記憶にあるような感じで。」
茉奈は、真剣な顔で頷いた。
「良い事ですわ。それならば特にこちらも抵抗なく嫁げるというものですし。」
椿は、頷いた。
「そうなのです。ですけれど…こちらへ来て、いろいろな神達と接して、必要とされておると、それにとても意味を感じるようになり申した。最初は、不安に思うて参ったのです。我がお役に立てるのだろうかと。でも、皆とても協力的で。茉希様も茉奈様も良いかたで、何より…駿様が、あのようなかたであったとは。我は、あのような神がいらっしゃるとは、思うてもおりませなんだ。」
茉奈は、目を丸くした。お兄様…?確かに、兄はとても素晴らしい神だと茉奈は思っていた。その能力だけでなく、心映えも王に相応しい。だからこそ、助けて差し上げたいと常、思って来て…定佳に、自分が女だと告白しようと思ったのも、兄に迷惑を掛けたくないからだった。
だが、もしかして椿も兄の事をそう思うのだろうか。
「お兄様は、確かに我から見ても大変に素晴らしい神であられますわ。あのお歳で、この宮を申し分なく回しておって。軍神達も、あれだけ父には反抗的であったのに、兄が王座に就くとなったら、大多数が神妙に兄の話を聞くようになり、それは忠実に仕えてくれておりまする。兄自身は、どうして皆が急にそんな風になったのか分からないようでしたが、皆、王として兄が父より優れていると思うたのだと思いましてございます。お母様には、言えませぬけど。」
椿は、身を乗り出して頷いた。
「我もそのように。駿様には、皆敬うような視線を向けておりまする。とても荒れた宮とは思えない様子。もしかして、駿様は観様より皆を統率することに長けていらっしゃるのではと思いましたの。それに…立ち合いの腕もあのように素晴らしく、我は父も敵わぬのではと思いまする。ご政務も卆なくこなされ、我のようなものにまで御心を砕いてくださる。それに、とてもお美しいかたであられるし…。」
茉奈は、驚いた。椿は、兄をそんな風に思って見ていたのだ。確かにその通りなので、そう思ってもおかしくはないが、ほかならぬ椿の口からそれを聞くなんて。
「…もしかして椿様、お兄様を…?」
椿は、驚いたように口を押えると、真っ赤になった。茉奈は、それを見て悟った。椿は、兄を想っているのだ。きっと、来た時にはそんなことは無かったのだろう。だが、接しているうちに、兄の人柄に触れて、それで気持ちが揺らいだのだ。
それならば、この素晴らしい椿を、素晴らしい兄に。まだ正式に婚約していないと聞いている。喪の着物を着て全てに慎む期間は100日だが、派手なことを慎むのは1年間続ける必要があるのだ。龍の宮が喪中であるのだから、恐らくはまだ、時間はある。自分の婚姻すら、1年後まで公には決められないと兄からは聞いていた。
「椿様、それならばこちらで兄とご交流を。兄は、あのように政務や軍務に明け暮れて生きて参ったので、女神との交流などしたことも無いので不愛想かもしれませぬが、それでもとてもご誠実なかたで、とてもお優しいのですわ。椿様が我のお姉様になってくださったら、我だってどれほどに嬉しいことか。母だって、喜び過ぎて倒れるかもしれませぬ。とはいえ…母は顔に出てしまいましょうから、まだ言えませぬけれど。」
椿は、茉奈を潤んだ目で見た。
「ですが…駿様にはそのようにお考えではないのでは。茉奈様も仰ったように、ご政務と軍務でお忙しいですし。鬱陶しく思われるのではないかと。」
茉奈は、ブンブンと首を振った。
「いいえ!良いのですわ、今は共に務めていらっしゃるではありませぬか。椿様は政務にも軍務にも通じていらっしゃるから、会合にも出ておられるし。兄も椿様が博識なので助かるのだと申しておりましたもの。椿様が妃となってくださるというのなら、きっと前向きに考えてくださると思うのですわ。」
椿は一瞬、明るい顔をしたが、しかしすぐに暗い表情になった。
「ですが…駿様は、我に婚姻の話があるのを知っておられますわ。」茉奈は、確かにそうだ、と息を飲む。椿は続けた。「ご誠実なお人柄ですもの…他の宮との話がある女を、そのようにはご覧にならないのではと…。」
言われてみればそうだった。
茉奈は、どうしたものかと眉を寄せた。自分は、定佳と幸せになることが出来る。椿にも兄にも、確かに幸せになってもらいたかった。何しろ、駿は今まであのように楽し気に立ち合いや政務に向かっているのを見たことが無かったのだ。それは恐らく、椿が共であるからではないかと思われた。
きっと、二人はうまく行くのではと確かに思えるのだ。




