駿
次の日の朝、駿は久しぶりに何を気にすることも無く、ぐっすりと眠ったとスッキリと目が覚めた。
起き上がって手水を済ませようといつもの桶へと歩み寄ると、そこには水が満たされてあり、珍しい生地の布が置かれてあった。
それは、とても吸水性があって、顔を拭くのも心地よい。
侍女が駿が起きたのを気取って、着物を換えに来たのを見て、駿は問うた。
「これは?」
侍女は、駿が布を差して言うと、ああ、と微笑んで答えた。
「はい。それは、月の宮で作っておるタオルという生地でありまして。椿様が、駿様のお手水の時にお使いくださいと下さったのですわ。何でも、龍王妃様から母上の綾様にと、よう送ってくださるのだとか。龍王妃様の御里は、月の宮であられるので。」
椿か。
駿は、そういえば昨日の労いもしていなかったと、居間を見た。確か、母が良い部屋が無いからあなたの対の端に新しく設えている、妃の部屋を使わせてと言って来て、そこに滞在しているはずだった。
とはいえ、いきなりに訪ねるのはまずい。何しろ、まだ正式にではないようだったが、椿は箔炎の妃になるのだと内定しているのだとか。その部屋へ訪ねるなど、困ったことになりかねない。
なので、駿は言った。
「椿殿に、我の部屋の前の庭にある赤い山茶花を。昨日の労いだと申して、届けてくれぬか。」と、側の文箱を急いで開いた。「これを…共に。」
駿は、サッサと筆を走らせて、椿にねぎらいの言葉を書きつけて、侍女へと差し出す。
侍女は、驚いたような顔をしたが、急いで頭を下げた。
「はい、駿様。」
そうして、慌てたように出て行った。
駿は、喪の色の着物を身に着けて、今日をしっかり過ごさねばと気を引き締めた。父を墓所へとお送りし、そうしてそれからは、即位式に備えて準備をしなければ。
「駿様。王をお送りする、ご準備が整いましてございます。」
岳が、ここ数日で一回りほどやせたような顔をして、駿の前に膝をついた。駿は、頷いた。
「参る。」と、歩き出しながら、続けた。「これで終いぞ。岳、主はようやった。しばらく休むが良い。父上をお見送りし、我らの仕事は終わるのだ。」
岳は、顔を上げて、駿を見て涙を浮かべた。
「はい、駿様。」
そうして、駿は最後の皇子としての責務を果たすため、墓所へと向かったのだった。
椿は、もう起きて観の棺に飾る花を指示し、そうして控えめでありながら美しく飾り付けてから、邪魔をしないようにと部屋へと戻って来た。
すると、今刈り取ったばかりのような、瑞々しい見事な赤い山茶花の花束が、陶器の花瓶に生けられて机の上に置かれてあった。
その脇には、しっかりとした筆致で、強い性質を思わせるが、それはバランスの取れた美しい文字での、短い文が添えられてあった。
『椿殿
父の葬儀の式を滞りなく催すことが出来、これも主のお蔭と感謝しておりまする。
我が庭の花をお送り申す。
これを労いに。 駿』
あっさりとしたものだったが、その書からは心を感じた。駿は、忙しい合間に自分をねぎらわねばと思ってくれたのだ。そうして、このように美しい多弁の花を、送ってくれた。
椿は、心が温かくなって、その花に顔をうずめてその匂いを嗅いだ。そんな椿に、侍女がフフと笑って言った。
「椿様、山茶花の花言葉をご存知でありまするか?」
椿は、え、と目を丸くした。
「え、花言葉?人が良く使っておるものよね。山茶花にもあるのかしら。」
侍女は、何度も頷いた。
「はい。駿様はわざわざ、赤い山茶花をと申されましたの。あの…もしかしたら、駿様もご存知であったのではないかって。」
椿は、怪訝そうな顔をして、首を傾げた。
「知って?いったい、何を?」
「ですから、花言葉をですわ。」と、その花弁に触れた。「赤い山茶花をと申されましたの。山茶花は、色によって意味が違って参るのです。赤い山茶花の花言葉は、『あなたが最も美しい』ですの。フフ。」
椿は、真っ赤になった。
「え…ええ?!そんな…きっと、ご存知なかったのだわ!だって、駿様はそのようなお暇など無いかたですもの…。」
侍女は、まだ意味ありげに微笑んで、首を振った。
「ですけれど、山茶花ならまだ他に、桃色もありましたし白だって。でも、わざわざ赤い山茶花と指定されましたの。絶対にご存知であったと思いまするわ。椿様は、お美しいのですもの。」
椿は、赤い顔を隠すように山茶花に顔をうずめた。そんなはずは…でも、駿様がそのように思うてくださっているのなら、それはとても嬉しい…。
椿は、意味ありげに微笑んで自分を見守る侍女に分からないように、ただその赤い山茶花に見とれているふりをしながら、駿の助けにならなければと心の底から思った。
そうして、葬儀の式は無事に終わり、次は100日後の喪明けと共に執り行われる即位式の準備だと、駿は喪の色に染まった着物を身に付けながら務めていた。
一度帰ってはという翠明の文にも、宮の侍女達からどうかどうかと縋られて、椿は否と返し、今は宮の中を徹底的に対外向けに設え直す事に心を砕いていた。
侍女侍従の教育は元より、自分が帰っても困らないようにと茉希と茉奈にも細かい事を教え、完璧に振る舞えるようにと努めた。幸い、炎嘉が数人の侍女を「役立てよ」と椿宛に送って来ていて、彼女らの動きは完璧で、その上宮の大きな催しにも慣れているので皆の指導にはうってつけだった。椿は、鳥の宮の侍女達と連携し、獅子の宮の侍女侍従を最高位の宮として恥ずかしくない状態へと変えて行くのに注力していた。
あれから駿とも対面し、最近では即位式の事を臣下達と共に話し合う事も増えた。
椿はハキハキと小気味よく話し、説得力がある。つくづく綾がどれ程の手腕の持ち主なのか、それで皆が知る事となった。
今日も、即位式の客の流れと式次第を決めていた。筆頭重臣の圭司は、椿が皆に説明するために、大きく紙に書き記した式次第を大事そう巻き取った。
「それでは、これは当日までに装丁を施しまして掲げる準備を致します。」
椿は、驚いて言った。
「まあ。それは我が今、皆に知らせるために書いただけで。掲げるならば、もう少し大きな紙に大きな文字で書かねばならないわ。」
圭司は、顔をしかめて手の中の巻紙を見つめた。
「ですが…このように美しい文字をこの場限りとはもったいないことでございます。せっかくの駿様の即位式、やはり美しい文字を掲げたいと我ら、思うておりますので…。」
椿は、苦笑した。
「まあ圭司、我は皆様に見て頂くような手ではありませぬのに。恥ずかしいことですわ。」
しかし、駿が横の席から言った。
「いや。主の手は見たことも無いほどに美しいものぞ。我も初めて見た時は、このような文字があるとはと驚いたもの。とはいえ、確かに覚書を掲げるとなると主も気になるであろうし…紙を用意させるゆえ。そこへ、改めて大きく書いてもらえぬだろうか。」
椿は、とんでもないと首を振った。
「そのような…駿様。我はまだ未熟でありますのに。」
駿は、穏やかに微笑むと、首を振った。
「我の生涯一度の式ぞ。主の文字を掲げてもらいたい。主が良いように書いてもらって良いから、書いてはもらえぬか。」
生涯一度の式。
即位式とは、確かにそうなのだ。そんな重大な役目をと椿は恐縮したが、しかし駿が望むというのなら、書いてみようと思い、思い切って頷いた。
「はい。やってみますわ。本来、書に長けたかたが書くものなのですけれど…我で良いと仰るなら。」
駿は、頷いた。
「主が良いと思う。」駿が言うのに、椿はドキッとして胸を押えた。駿は続けた。「楽しみにしておる。」
そうして、駿は立ち上がって会合の間を出て行った。椿は、ドキドキと高鳴って来る胸に落ち着かなかった。我が良いと…でも、駿様の様子では、他意は無いようだった。
椿は、そんな想いを振り切るように頭を振った。駿様の事になると、最近はおかしい。あのかたはただ一生懸命宮のために毎日努めていらっしゃるだけなのに、どうしてこんなに気になるのだろう。
臣下達が、嬉々として墨と紙を準備し始めるのに、椿はそちらへと意識を向けて、深く考えないように、書に没頭したのだった。




