老い
碧黎が去って、取り残された維心と維月は、共に将維とそのまま日が昇り始めるまで話し続けた。
将維が去る事は決定事項で、どうにも覆す事は出来ない。将維自身、もう世を去る事を受け入れて、ただ穏やかに二人との会話を進めるだけだった。
維月は、段々に落ち着いて来て、言った。
「ならば今一度、私があなたを生み申すわ、将維。」維月は、断固とした口調で言った。「維心様との間にあなたを。また育てて、そうして第三皇子として生きたら良いのよ。そうすれば此度のように、重い責務もなくその生を楽しむ事が出来まする。」
将維は苦笑した。
「黄泉からすぐに戻れと言うか。いつかはまた、この世に生まれ出るのやもしれぬが、それは時が掛かろうと思う。まだ、お祖父様も居られる。此度転生の循環に戻られるのだし、そちらの方が先であろう。」
維月は、首を振った。
「もちろん張維様もお生みするわ!幾人だって我が宮なら養えまするもの。維心様にも頑張って頂きまする!」
維心は、驚いたような顔をしたが、それにはさすがに苦笑した。
「まあ、主が生むと言うのならいくらでも我は良いが、そのように急かすでない。少しは休ませてやらねば。幸い、我ら老いぬしまだ世を去る予定も碧黎のあの様子ならない。ゆったり構えても問題ない。」と、将維を見た。「まだ、我とて主を失うのは抵抗がある。維月がこう言うのも分かるのだ。また主が我らの子として戻ると思えば、それを待って気持ちも楽になる。なので我は急かさぬが、それでもいつかは戻ってくれるのだと思いたいと思う。」
将維は、それには微笑んで頷いた。
「は。いつかはこちらに戻るのですから、その時には必ずやお二人りの間にと約しまする。」
ふと、維心は気付いた。将維の動きがぎこちない。ただソファに座っていたのだが、その様が朝日が射し込むにつれて、違和感をもって感じられた。
「…将維。」維心は、焦りのような感情を抑えて言った。「主…まさか、老いて来ておるのか。」
維月が、息を飲んだ。将維は、困ったように笑った。
「はい。実は碧黎が去った直後から、何やら体の気が抜けて参るのを感じておって。手の甲にシワが刻まれて参ったので、老いとはこれか、と。やっと炎託の心地が分かるようです。」
朝日が完全に辺りを照らすと、将維の顔には何百年の老いが一気に来た証が刻まれて、年相応の姿に変わりつつあるのがハッキリと分かった。維月は、やっと涙も収まっていたのが、ぼろぼろと涙を落とした。
将維が去って行くのが、手に取るように分かったからだ。
「ああ将維…!」
それにしても、速い。
維心は、思った。今日の夕刻と碧黎は言った。つまりは、それに合わせて一気に老いているのだ。
「…急がねば。」維心は、立ち上がった。「龍の宮へ帰らねばならぬ。蒼と炎嘉をこれへ。主は挨拶をしたいと申したであろう。我らも急ぎ着替えて参る。主も侍女に手伝わせて着替えを。」
維月は、歯を食い縛って立ち上がった。
「私が。」と、まだ涙を流しながらも決然と顔を上げて言った。「幼い頃から私が世話をしたのですわ。ならば此度も私が着替えさせまする。」
維月は言うと、着物を取りに隣の部屋へと急いで向かった。維心は苦笑しながらそれを見送り、将維を見た。
「過保護なことよ。昔から変わらぬわ。主も…再び、あれの元に戻ってやるが良い。出来るだけ早うな。」
将維は、さすがに込み上げて来るものと戦いながら、頭を下げた。
「は。母上には、本当に世話になり申した。父上にも…我のわがままを聞いてくださったこと、忘れはしませぬ。次は、ご心労をお掛けすることのないように。」
維心は老いた将維の顔を眺めながら、頷いた。自分は前世でも、ついに老いることなく逝った。これは、自分があるべきだった姿なのだ。自分そっくりだと、育つにつれて頼もしく思っていた将維…。
時がこれほどに惜しいと思ったのは、前世以来、無かった。
一方その頃、蒼の元には、侍女が駆け込んで来ていた。
「王、急ぎお出ましくださいませ!」
蒼は、やっと眠りについて数時間だったので、重い体を起こして時計を見た。5時…まだ二時間ほどしか寝ていない。
とはいえ自分は王なので、眠いから後にしてくれと言うわけにはいかなかった。
なので仕方なく、着物を引っ掛けて居間へと出ると、侍女が慌てた風で言った。
「獅子の宮の岳殿が、急ぎ治癒の者をと警備の兵に申して参り、観様のお加減がことのほかお悪いのだと仰られ、観様を慌てて治癒の対へとお移し致しました!」
「ええ?!」
蒼は、慌てて駆け出した。観が…?!昨日飲み過ぎたということでもないようだ。それぐらいでこんなに騒がない。そもそも観は、昨夜別れた時には普通に元気だったのだ。
侍女が、必死に蒼について来ながら叫ぶように言った。
「治癒の者が申すには、体から気が抜けて参るような病のようで…!」
蒼は、そんな急に気が抜けて行く病は聞いた事が無いと思いながらも、確かに気を数年掛けて徐々に失う病もあることから、そんなこともあるのかもしれない、と思っていた。
「とにかく、嘉韻に言って獅子の宮の駿に連絡させよ!状態を見てあちらへ帰せるかこちらで治療するべきなのかまた連絡すると!」
侍女は、頷いた。
「はい!」
侍女は、別の方向へと足早に向かった。蒼は、治癒の対へと必死に走って向かっていたのだが、別の方向から声が飛んだ。
「王!」
今度はなんだ。
蒼は、幾分足を緩めたが、まだ足を進めながら振り返った。
「なんぞ。観の事なら聞いておる。」
蒼が憮然として言う。見ると、それは将維の対の侍女だった。
「龍王様が、急ぎ将維様の対へ参ってくださるようにとのことでありまする!本日将維様を龍の宮へとお連れになると…!」
蒼は、それどころではないとイライラしながら手を振った。
「分かったと伝えよ。観が具合を悪くしてるのだと。」
しかし、侍女は蒼に必死について来ながら首を振った。
「蒼様、将維様のお加減がお悪いのでございます!急に、老いが参ったとおっしゃって…!」
蒼は、それには仰天して足を止めた。
「ええ?!将維が?!」
それならそれどころではない。
蒼は、今度は将維の北の対へと必死に向かった。将維に老いが来た…だったらもう、一か月ももたないはずだ!
必死に途中から浮いて走って到着したそこには、もうきっちりと着物を着た維心と維月が、老いて昨日までの姿とは似ても似つかぬ様子になった将維と向かい合って座っていた。蒼は、それを見てショックを受けた…そんな、こんなに速く?
「…将維…?どうした、どうしてそんなに急にそんな姿にっ?」
蒼が、震えて来る体を押えて、それでも声の震えまでは隠しきれずに、そう言った。将維は、ゆっくりと微笑むと、言った。
「さて、なぜであろうな。老いと申すのは分からぬものであるからの。昨夜父上が気取って来てくださり、今日主と炎嘉殿に挨拶をしてから龍の宮へ帰ろうと思うておるのだ。主には、なのでこれが別れになろうの。」
蒼は、ショックで声が出なかった。つまり将維は、急速に老いているのでもう数日もたないだろうと言うのだ。
「そんな…そんなこと。あんまり急過ぎて、オレには受け入れられないよ。そうだ、碧黎様に言って、もうちょっと寿命を延ばしてもらって、せめてもう少し心の準備を…。」
それには、維心が首を振った。
「碧黎は知っておる。我らがそれに思い当たらないと思うか。将維は、次の生に向けてあちらで準備をする覚悟を決めておるのだ。我らの勝手な感情で、引き留めることは出来ぬのよ。」
維月は、黙って下を向き、ただ涙を堪えているようだった。
蒼は、それを見てもう、これは決まってしまっていることなのだと悟った。維心と維月が、将維を留めようとしないはずはないのだ。恐らくは、万策尽きて認めるよりないと思ったのだろう。
すると、炎嘉の声が扉からした。
「…急を知らせるゆえ何事かと来てみれば。」炎嘉は、扉を抜けて入って来た。「そうか、もう逝くか。我にまで挨拶をなど、主も律儀なものよ。まあ、あちらは住みやすい。主とて新たな役目が欲しくなる頃よな。我は、良いことだと思う。」
将維は、驚くこともなく炎嘉に頷きかけた。
「炎嘉殿。父上がお亡くなりになってから、我の問いに答える唯一の存在が主であった。無事に代を父上に譲り、我は役目を果たせたのは主のお蔭でもあると思うておる。感謝している。」
炎嘉は、憮然とした顔で答えた。
「あれは主の手柄よ。我は口先だけで何をした訳でもないわ。しかし…よう務めたの。主でなければ維心の跡など継げぬであったわ。ようやった。」
将維は、その言葉に少し涙ぐんだが、黙って頷いた。
炎嘉は、その暗い雰囲気から目を反らすように横を向くと、言った。
「…誠に…観も老いが参って大騒ぎであるのに。主までこのようとは、一つの時代が終わろうとしておるのかの。」
それには、蒼も維心も、維月も驚いた顔をした。
「何と申した…観もか?」
維心が言うと、炎嘉は頷く。
「朝っぱらから大騒ぎで、岳が慌てておるゆえ起こされてしもうたわ。我が急いで治癒の対へ連れて参れと申して、侍女が呼びに来るまでそちらに居ったが…あれは、病ではないわ。老いが参ったのだ。」
蒼は、観のことを忘れていたと急いで言った。
「そうだった、侍女が呼びに来てたんです。観はどんな様子なのですか。」
炎嘉は、蒼を見て答えた。
「本人は体がだるいだけだと申して。気がゆっくりと抜け去るのにそれを補充することが出来ぬ。基本的な気の量が、どんどんと落ちている状態よ。顔に皺が刻まれ始めておったから、老け始めておるなと思うた。治癒の者達も、これは間違いなく老いの兆候だと結論づけておったわ。しかし…」と、将維を見た。「これほどに速く老いてはおらぬがの。」
蒼は、それを聞いて頷く。将維の老いは、これまで見て来たどの神より速い。今こうして居る間にも、どんどんと目に見えて老いているのが分かった。
将維は、それでも微笑んで頷いた。
「我には若い姿での時間が長かったのだと思う。もう長くはもたぬゆえ、これより父上と一緒に龍の宮へ帰ろうと思うのだ。何と申しても、我にはあちらが故郷であって、最期はあちらで迎えたいゆえな。なので、蒼、炎嘉殿、今はこれまで。いつかまた、会うこともあるかと思う。」
蒼は、それを聞いて堪え切れずに涙を流した。ということは、将維としての命に会うのは、これが最後だ。何しろ、蒼は不死なので黄泉へ逝くことは無い。あちらで会って、話すということはあり得ないのだ。
炎嘉は、険しい顔で将維を見ると、頷いた。
「ではの、将維よ。我もそのうちに参るわ。とはいえ、主はすぐに転生して参るやもしれぬし、今生で会うことになるのやもしれぬがの。そうなると昔語りは出来まいな…主は記憶など要らぬだろうて。」
将維は、今度は大儀そうに頷いた。
「記憶など持って参っては要らぬ事まで考えねばならぬゆえ。碧黎が申しておった…我は、他の命と同じように、真っ新の命として生まれて参るよ。」
蒼は、もはや隠そうともせずに涙を流して、将維を見た。
「将維…オレは、将維が居て心強かった。維心様も母さんも十六夜も一気に居なくなって、どうしたらいいのか分からなくて、何でも将維に相談して、炎嘉様に相談して。ほんとに感謝してる。もう、オレは黄泉へ逝けないから、会えないと思うけど…、」
蒼は、言葉を詰まらせた。将維…兄弟と同じだった。人だった頃の本当の兄弟姉妹を亡くし、友の裕馬を亡くした時も、将維と炎託が傍に居てくれた。炎託が逝き、そうして将維も、それを追って行ってしまう。
将維は、重そうに腕を上げて蒼の手を握った。
「我らは兄弟であった。主は母上の人の頃の子。そして、月の子。我の中の陰の月が、主を近しい血だと申しておる。次に生まれた時には、覚えてはおらぬだろうが、それでも我ら、親しく過ごすことが出来ようぞ。今はこれまでであるが、また出会う。案ずるな。さあ、もう行け。主は王として、観のことも采配せねばならぬ。客も帰ろうしな。我も、もう参る。」
蒼は、何度も頷いて将維の手を握り返した。そうして、名残惜しそうにその手を放すと、振り返り振り返り、最後は振り切るように、そこを出て行った。




