宴の席から
岳は、黙って桟敷の下で観が他の王達と話すのを見上げて控えていた。
ここの月は、思っていた以上に自分を清浄に洗い流す。これまで、観の言う通りに宮の規則に則って同じ軍神達を処分して来たが、それは当然で仕方がないことなのだと思っていた。
気も満足にないような荒れた土地に追いやられて生きていた岳にとって、観が差し伸べてくれた救いの手はまさに生きよと言ってくれた唯一の光だったのだ。
観を信じてやって来たし、あの荒くれもの達の中に居たら、少々非情だと言われるような事でもやらねば図に乗った者達で宮が大変な事になる。
例外など認められなかった。
だが、一人の神としての岳は、時に疑問を感じていた。生きているのだから、多少の間違いはあるだろう。他の宮では、王の前で申し開きする場を与えられ、それによって情状酌量もあり得た。
だが、観は違った。申し開きする場すら与えられず、その場で命をもって償わせた。
恐怖で支配しているのだ…そうしないと、話が通じる神が少ないのだから、あの数の神を統治するのは難しい。分かっているのだが、岳は己で手を下しながら、虚しく感じることも多かった。
そんな想いが、この月の宮の結界の中に居ると洗い出されて来るようだ。もうそんなことはしたくないという想いが、長く居れば居るほど胸の中で湧き上がり、どうしようもなくただ、虚しくなる。
これは、月の宮に最初に来た時からそうだった。自分が間違っていると言われているようで、なので岳は、あまりこの中には居たくはなかった。
観は、ただ楽し気に焔や炎嘉と酒を酌み交わして笑っている。
もう、龍王は王妃を連れて場を外し、箔翔は箔炎が戻ってから妃と共に場を辞して行き、翠明も王妃と皇女を連れて去ったので、今ここに居るのはこの場の主である蒼と、志心、焔、炎嘉、観、樹籐の6人だった。
他の桟敷でもパラパラと控えの間へと戻る王が居て、だいぶ空いて来ていた。
月は高く昇って傾いて来ている。樹籐が、やっと腰を上げた。
「ああ、久方ぶりに飲んだ飲んだ。では、先に帰した沙耶を待たせておるし我ももう戻るわ。主らはどうする?今夜は寝ずか。」
すると、蒼が言った。
「オレはそろそろ戻ろうかと思っておるが、焔が飲み過ぎていて心配だな。炎嘉様は大丈夫ですか?」
炎嘉は、手を振った。
「我は飲み過ぎぬと決めておるからそう飲んでおらぬわ。しかし、確かに焔は飲み過ぎよ。」と、せっついた。「ほら、焔。主、最近酒ばかりであるな。誠にどうした、そんなに酒に溺れる性質でもなかろうに。そろそろ戻ろうぞ、蒼も樹籐も帰ると申しておるのに。」
焔は、朦朧としているような顔で、炎嘉を見た。
「うーん…ええ?なんだって?炎嘉、飲んでおるか。」
炎嘉は、呆れたように言った。
「なんだ半分寝ておるではないか。しようが無い、我が送ってやるゆえ。」と、焔を支えて立ち上がらせた。「では、我らも戻る。観、志心、主らはどうする。」
観は、盃を置いた。
「我も戻るわ。今夜はもう充分飲んだ。志心殿は?」
志心は、頷いた。
「では、我も。焔には困ったものよな。それにしても炎嘉も言うておったが、何やら最近の焔は何かと飲み過ぎておるような。どうかしたのかの。」
炎嘉は、肩を貸している焔の顔を覗き込んだが、半分どころかほとんど寝ている焔に、顔をしかめた。
「本人がこれでは聞くことも出来ぬわ。まあ、こやつは酒が好きなのは知っておるし…宴となると、羽目を外すのやもしれぬ。とにかくは今夜は寝かせて来るわ。」
そうして、最上位の桟敷から神達がぞろぞろと戻り始めたのを見て、他の桟敷でもそろそろと盃を置き始めた。
皆が宴がお開きだと準備をし始める中、岳は観を追ってその後ろを静かについて、その場を辞して行った。
その隣りを炎嘉の軍神である嘉張も続き、焔の軍神の弦も居たが、弦は気遣うような目で焔を見ていたのは、印象に残った。
焔は炎嘉に引きずられて部屋へと入って行き、志心も戻り、観は最後に部屋へと戻った。
それを見送ってから、護衛の軍神達だけが回廊に点々と立っていたのだが、このままここで居るわけには行かない。
護衛の軍神には、控えの間が別にある。各王達の部屋の脇に、狭い一室が設けられてあって、そこで寝ずの番をして夜を明かすのだ。
岳は他の二人と会釈を交わして、その小さめの扉を通り、軍神の控えへと入った。
そこには、簡易ベッドが設えてあり、細長い窓があって、窓の前には小さめのテーブルと椅子が設置されてあった。
王が呼んだらすぐに行けるように、隣りへ抜ける扉も設置されてあったが、王の方から閂が下ろされてあるので、あちらが来れるように閂を外しておかないことには、ここからは行けなかった。
一応確認しておいたが、観は向こうから閂を外している様子はなかった。なので、何かあって呼ばれたとしたら、岳は回廊から観の部屋へと向かわねばならないということだ。
それを頭に入れながら、それにしてもやっと気を張る事もなくなったので、ホッと椅子へと腰かけると、テーブルの上に置いてあった茶器で、自分で茶を淹れて落ち着いた。
そんな岳の様を、窓の外ではじっと、敏と識の二人が窺っていた。
はぐれの神として生きていた経験上、自分の気配を消すことには長けている。父からも、命を守るためなのだと真っ先に教えられたことだった。
二人の父は、はぐれの神には珍しく子の未来を考える神だった。
子が自分たちのような思いをしないようにと、必死に努めて自分たちが習って来た事を、困らないようにと敏と識にも教えてくれた。そうして父を目指して生きていた二人にとって、あの出来事は青天の霹靂だった。
真面目に務めていた父を、あんな荒くれものと同じように扱って殺されるなど、思ってもいなかったのだ。そう、あの頃はまだ、真面目に仕えていてさえいれば、まともに扱われるのだと信じていたのだ。
それが、目の前であっさり散った。あの時の絶望は、忘れられない。それでも、母のことを考えたら、父亡き後自分が王に仕えるしかなかった。心に恨みを持ったまま、虚しいと思いながらここまで来たのだ。
それが先日、敏の母が亡くなった。識の母は、もう数年前に亡くなっていた。もう、二人を縛るものは何も無かった。
どうせ死ぬのなら、岳を殺して恨みを晴らしてから。
二人は、そう思ってここへ来たのだ。
それなのに、月の宮の結界へと入って、この清浄な穢れの無い気に晒されているうちに、岳も同じはぐれの神ではないか、と思う気持ちが沸き上がって来て消えなかった。
岳とて、同じように観には逆らえないのだ。心から仕えているのだと思わせねば、岳とはいえ、観や駿に殺されてしまうのだろう。そう思うと、同じ境遇の岳を殺したところで、何も解決しないような気がしていた。
本当に憎いのは、観なのに。
敏は、躊躇っていた。隣りを見ると、識も同じように複雑な表情で宮の中の岳を窺っている。
敏は、小声で言った。
「…どうしたものか。岳とて同じではないかという気持ちが湧き上がって消えぬのだ。結局は、我らが憎いのは観なのだろう。王としてあれに仕えておる己がほとほと嫌で仕方がない。我らなど、いくら仕えてもどうせ使い捨てなのだろう。そう思うと、やり切れぬ。」
識は、息をついた。
「実は我もそのように。だがしかし、あれらがせっかくに見逃してくれたのだ。こんな機会はもう無いかもしれぬ。観が元凶なのはわかっておる…だが、手を下したのは岳。とりあえずは岳なのかと、自分を納得させようとしておったところよ。観を狙いたいところだが、岳が来て守ろうとするだろう。そうなると、いくらなんでも傷すらつけられぬやもしれぬ。我らが襲撃出来るとなると、岳しか無いのだ。」
敏は、窓を見た。岳は、甲冑のままただじっと座っている。観は眠っているのだろうが、岳は護衛の役目があって眠ることは許されないのだ。
「…そうかもしれぬ。我も、ここへ来るまではそう思うておった。だが、そんな理由で岳を襲撃して良いのだろうか。我らは、観が憎いのに。岳しか襲撃出来ないから岳をなど…根本的な解決にはなっておらぬのに。」
識は、それでも窓の方を睨んだ。
「だが…ならば我らはどうしたら良いのだ。父上をあのように殺されて。観も岳も、等しく憎い。どちらも我らの事など虫けら以下にしか思うておらぬと主だっていうておったではないか。この機を逃せば…我らはまた宮で地獄のような思いをしながら耐えて、いつか殺されるしかない。それでよいのか。」
敏は、迷っていた。確かに岳も憎いのだ。だが、あれも同じ立場なのだ。そう思うと、岳を殺したからとまた代わりが現れて結局は同じなのではないのか。
迷ったままじっと窓を見つめていると、後ろから声がした。
「迷う気持ちがあるのならやめておくことよ。主らにはあれは討てぬ。」
聞き覚えの無い声に慌てて二人が刀を抜いて振り返ると、そこには、特に身構えることもなく、青い髪で青い瞳の、驚くほどに大きな気で、大き過ぎて地上全体から気が湧いているような感覚がする人型が立っていた。
「な…何者ぞ。」
岳に気付かれてはならないので、声を押えてそういうと、相手は答えた。
「我が何者かなど今の主らには関係ないとは思うが、我は碧黎。地の陽ぞ。」
言われて、二人は思わず固まった。地…朔と到が言っていた。月と地が見ていると。やはり、あの二人が言っていたように、地は知っていたのか。
二人が固まってしまったので、碧黎は苦笑して続けた。
「それで、粗方聞いておった。主らには気の毒な事であるが、起こってしもうたことは元に戻すことは出来ぬ。それよりは、これからのことぞ。主らの父のためにも、主らは不幸になるべきではない。それは分かるか。」
二人は、言われてハッと我に返り、言った。
「我らはずっと不幸ぞ。心の中で、これほどに恨んでおる観と岳に仕えて生きて来なければならなかった。父上の無念を晴らしてからでなければ、死ねぬ。このままでは、我らも父上と同様、何かに巻き込まれたら一緒に殺されてしまうのだ。」
碧黎は、息をついた。
「誠に…何が正解なのか分からぬようになるの。観は、それが必要であったからそうしたのだろう。最初は確かにそうでなければ無理であったし、未だ面倒な輩も居るのは事実。だが、今となってはやり過ぎと申したらそうなのだ。真面目に仕えておる者まで、共に殺してしもうたら反感を買う。いつまで経ってもあれに対しての殺意は消えぬ。そろそろ、やり方を見直すべきなのかもしれぬがの。とはいえ、駿はどうなのだ。主ら、次の代の王に仕える事になろう。まだ若いからの。どう考えておる。」
それには、識が戸惑ったように碧黎を見た。
「それは…我ら、観がまだ死にそうにもないゆえ。変わらぬと思うておる。駿様は確かに非情に斬り殺されるが、一人一人の動向は頭に入れておられて、真面目に仕えておったらそやつのことは少々の間違いなら一度は見逃してくれ申す。どんな輩でも一応は話を聞いてくださる。しかし、観は岳に決められた通りに動くようにとの一点張りで、相手の言い分も聞かせぬゆえ…。そも、観は軍神の一人一人にまで、目が行き届いておるのかと疑問ぞ。岳に任せきりであるから。」
碧黎は、ふうむと顎に触れた。
「主は今、駿には敬称を付けたが観は呼び捨てよな。無意識に考えが出ておるの。そうよな…ならば、であるが、観が死んだら主らは駿の元で真面目に仕えるのか。」
識と敏は、顔を見合わせた。観が、死ぬ?
「それは…駿様は我ら一人一人をよう見て知っておるから…。だが、観はもう結構な歳であるのに、まだ老いも来ぬし簡単には死なぬだろうに。我らはどこまで耐えておれば良いのだ。そのうちに、殺されて我らの方が先に逝くのではないのか。」
碧黎は、しばらく考えているような顔をして、じっと一点を見つめていたが、軽く何度か頷いた。
「…分かった。もうそろそろであるなと思うておったところ。駿は優秀であるし、観は長く生き過ぎておる。神世も、世代交代の時期であろうの…誠に、そう思うわ。」と、まだ刀を抜いたままで棒立ちになっている、識と敏に背を向けた。「では、そのように。主らは待機所へ戻るが良い。早まって父の二の舞にならぬためにも、我を信じて駿に仕えよ。だが、駿に逆らうようなことがあれば、その時は我が殺してやろうがの。それで良いか。」
二人は、訳が分からず去って行こうとする碧黎に追いすがった。
「待ってください、碧黎様!何がそのようになのか、我らには全く分からぬ。我ら、観に老いが来て死ぬのを待てとおっしゃるのか。」
碧黎は、首だけこちらに向けて、頷いた。
「そうよ。早まるでない。主らが言うたように、あれはもう良い歳なのだ。ではの。あくまで主らのためを思うて言うておるのだ。待機所へ戻れ。我を信じよ。」
二人は、何のことか分からなかったが、何かこの、大きな存在が言うのに、否とは言えなかった。否と言う気になれない何かが、この碧黎にはあった。
「…分かった。」敏は、刀を納めた。「碧黎様。あなた様を信じて、ここは退く。後にあれは冗談だったとは言わぬと信じておる。」
碧黎は、フッと口元を緩めて浮き上がると、言った。
「我は約したことは違えぬのだ。見ておるが良いわ。」
そうして、識も刀を納める中、碧黎はスッと飛んで消えて行った。
二人は、まだ窓際の椅子に座ってじっと待機している岳に背を向けて、そうして待機所へと戻って行ったのだった。
その心には、なぜかもう、解決したような清々しさがあった。