過去の恨みは
その数時間前、朔と到の二人は、ため息をついていた。今夜の催しは、月の宮にとっても久しぶりのことで、外から来る神に安全でしっかりした宮で、はぐれの神を受け入れて一時は混乱していたが、今は落ち着いたのだと対外的に知らしめる大切なものなのだと嘉韻から聞いていた。
なので、軍神達総出で宮の回りを見回り、結界外にも警備兵がたくさん出て辺りを守っていた。
もちろん、地の碧黎と月の十六夜の二人も地から月から見張っていて、恐らくは死角など無いと思われた。
しかし、そんな中で、観が岳を連れてやって来たのを見た時には、さすがに朔と到も気が騒いだ。
岳が、観の命令で自分たちの父親を顔色一つ変えずにさっさと殺してしまったのは、記憶に新しい。それを恨んだ光輝は闇を飼い、それに殺された。それを見た自分たちは、もう恨むことなど忘れてただ黙々と、責務をこなしてここで穏やかに暮らすことだけを考えて、生きていたのだ。
それなのに、岳は来た。
だからといって、それを見ないでおくことしか、最初はせずにいた。今夜が早く終わりさえしたらいいと、二人は思っていたのだ。
観は、岳、他数人の軍神を連れて来ていた。王が他の宮の催しに出る時の常のように、その宮へと礼の品を持って来たので、それを運ぶ要員として、数人見繕って連れて来られた者たちだった。
岳は観の護衛であって品物を運ぶなどという任務はない。
荷物運び要員は、なのでそう地位の高い軍神達では無かった。
月見の宴となると、岳は護衛なので桟敷の近く、観が座っているすぐ傍に控えている必要があったが、荷物運び要員の軍神達は、月の宮から指定された場所へと品を運んでしまうと、後は軍神達の控えの間へと一まとまりになって入って、時が過ぎるのを待つだけだった。
そこは大きな宮になるほどそれは広いホールのような場所で、脇には宿泊できるように簡易な寝台などが出し入れできるようになっていて、王が急に泊まりになっても軍神達に寝る場所が無いなどという事がないようになっている。
茶など飲み物にも困らないので、ほとんどの軍神達は、そこで他の宮から来た軍神達とも歓談しながら、時を待つことが多かった。
朔と到の部隊の見回り範囲には、そこも含まれていた。
二人は部隊の他の軍神達と巡回ルートを回り、上空からの偵察を済ませてから、地上へ降り立って徒歩での巡回を始めた。二人一組で決められたルートを通り、辺りにおかしな気が無いか見て行くのだ。
とはいえ、この地上に居る限り碧黎が見えないものは無いので、他の宮とは違い、この動きは不穏なことを画策している者達が居たとしても、それをけん制するためだけのものなのだと二人はもう知っていた。
そうして、軍神待機所の辺りまで来た時、脇の茂みから声を掛けられた。
「…主ら。もしかして北西南海岸近くの集落から来たのではないか?」
朔と到は、驚いて振り返った。すると、脇の茂みには獅子の鈍色の甲冑に身を包んだ、軍神が二人、こちらを鋭い目で見ていた。
到と朔は顔を見合わせたが、朔が答えた。
「確かにそうだが…我らは今、任務中なのだ。昔話に興じておる暇はないのだ。」
荷物運び要員の、暇な軍神が声を掛けて来たのだと思ったのだ。しかし、相手は言った。
「そうではない。我に覚えはないか。今は敏と名乗っておる…こちらは、識。かなり幼い頃であるが、集落の外れの海でよう遊んだではないか。」
言われて、目を凝らして見ると、確かにそれは、幼い頃に遊んだ神達の面影があった。あの頃とは似ても似つかぬような険しい風貌だったが、それでも持って生まれた容姿は変えられない。
到が、脇から言った。
「ああ、あやつぞ朔!海岸近くの小屋に居た…海、と呼んでいた。海の近くに居たゆえ。我らのことはこやつらは、村の子と呼んでおったではないか。」
朔は、ああ、と手を打った。確かにそう呼んでいた。
「海達か。我は王から朔と名を戴き、こやつは到。主ら、急に居らぬようになったと思うたら、獅子に拾われておったか。」
敏は、頷いた。
「父上の太刀筋が良いと言うて、岳に連れられて獅子の結界に入った。我らもそこで育ったゆえ、軍神になるのだと疑いもせず、そちらで。」
朔は、頷いた。
「我とて同じ。我らは月の宮の結界に入ったが、その頃には主らより育っておったし、今はこうしてなんとか慣れて参ったところよ。とはいえ…」と、到を見た。「すまぬが、我ら今も言うたように任務の最中。昔語りなどしておる暇はないのよ。非番になるのは明日の朝。今はこれまでぞ。」
朔と到が踵を返そうとすると、敏が慌てて言った。
「待て。こんな話をするために呼び止めたのではないのだ。」朔は、怪訝な顔をして振り返る。敏は続けた。「主ら、岳に父親を殺されたのではないのか。」
朔と到は、それを聞いて凍り付いたように動きを止めた。なぜに知っている…確かに、岳がやったことなのだから、獅子の宮に仕えているのなら噂を伝え聞くこともあったのかもしれない。
朔が固まっているので、到が言った。
「そうだが、それがどうした。我ら、ここで仕えて居るゆえ、それも致し方ないと思うておる。父上は確かに我らが軍に仕えておるのをいいことに、己らは楽をして任務を蔑ろにしておったゆえ。これからのことだと思うて、考えぬようにしておるのだ。」
すると、それには敏の隣りで黙っていた識が言った。
「主らは本当にそれでいいのか。父上は岳に言われて、我ら子の将来を考えてあの面倒な宮に入って励んでおったのに…ただ、他の軍神との口論で、刀を抜いただけでその軍神諸共斬られてしもうたのだぞ!話も聞かぬ!そちらもそうだったのではないのか。はぐれの神だとどれだけ頑張っても普通の軍神と同じ対応などしてもらえぬ。ちょっとさぼっておったぐらいで、普通の神なら命まで取られるのか。我が宮でもそうぞ。普通なら諍いがあればどちらが悪いと精査するものなのに、その場で両方とも斬り捨てるなど…我らなど、虫けら以下の扱いぞ。」
それを聞いて、朔と到の二人は、息を飲んだ。言われてみればそうなのだ。敏と識の父はそうだったのだろう。だが、自分の父はそう子煩悩でもなく、ただ自分が楽をしたいだけでここへ来ることを選んだ神達だった。月の宮は緩いので、獅子の宮ほど敷居が高くなく、そんな神も流入しやすかった。
はぐれの神に対する不平等さは、最初は感じたが月の宮で今はそれほどでもない。王の蒼がそういう考えなので、訴えを聞いて納得し、そういう扱いをしないように指示しているからだった。
なので、朔は答えた。
「…主らのことは、不憫に思う。だが、我らは今、王があのように穏やかなかたなので、こちらが訴えれば聞いてくださるのだ。なので、そのような不平等さは今、感じたことがない。父上の事に関しては、岳に恨みはあるが…もう、何を言うても成ってしもうたことは、どうしようもない。」
敏が、声を荒げた。
「どうしようもないとは何ぞ!我らの父は、主らの父とは違って真面目に任務についておったのだ。それを…岳が来たと思うたら、一瞬で二人とも消してしもうた。我らは、あれを許してはおらぬ。」
到が、困ったように言った。
「主らの気持ちは分かるつもりぞ。確かに主の父は不憫であった。だが、どうするというのだ。父はそうなっても主らは生きて仕えておるのに、岳を襲撃でもしたら命を落とすぞ。」
識が、敏と目を合わせてから、答えた。
「我ら、どうせこのままでもいつかは岳に殺されるのだ。真面目に仕えておっても殺された父上のように。ならばあれに僅かでも傷をつけて、死にたいと思うもの。」
朔が、慌てて言った。
「待たぬか、それほどに思い詰めておるのなら、我らが王にお頼みするゆえ!こちらへ移って参ったら良いではないか。岳の顔を見ることも無くなろうが。父のためにも、主らは命を繋いで生きるべきなのだ。」
敏は、失望したように息をついた。
「…もう良い。主らなら、手を貸してくれるかと思うたのに。今は、この月の宮の中で岳も油断しておる。他の軍神も居らぬから、あれを襲撃するなら絶好だと思うたのだ。ならばせめて、我らがここから出ておることを上に報告せずでおって欲しい。」
待機所の軍神は、その建物と回りの僅かな範囲しか、移動を許されていない。だからこそ、朔達が巡回しているのだが、見逃せと言っているのだ。
「そのような…やめた方が良い。ここは、月と地が見張っておる地なのだぞ。今こうして話しておることすら、地の上であろう。聞いておったとしてもおかしくは無いのだぞ。月の光とてそうよ。差し込む場所ならば全て見ることが出来る。バレておると思うた方が良い。」
識が、フンと鼻を鳴らした。
「見ておると言うて、意識して見ておる場所でなければ見逃すことも多いと聞く。あれらは見るべき場所が多かろう。我ら、何も月の宮に仇なすことをしようとしておるのではないからの。内輪のことぞ。」と、木々の間から見える、月を見上げた。「とはいえ…ここの気の清浄さはどうよ。こうしておると、主らのように腑抜けになる気持ちも分かるわ。だが、我らは長年の恨みを晴らすことを諦めるつもりはない。」
そうして、敏と識はその場を去った。
朔と到は、その背を黙って見送り、二人の事を、部隊長に報告することは、出来なかった。




