希望
「維月…。」
維心が、寝巻の上に袿を羽織っただけの様子でそこに居る維月に、恐らくは傍まで来て聞いていたのだろうと思った。自分が慌てて部屋を出て行ったので、心配になってすぐ追って来ていたのだろう。
碧黎は、腰に手を当てて息をついた。
「維月、主は聞いておったろうが。主はもう、将維の母ではない。弁えよ。」と、維月の肩を抱いて立ち上がらせる、維心と、それにすがるようにしている維月の二人に向き合い、言い渡すように言った。「良いか。主らはもうこれの親ではない。これの両親は死んだ。さっさと先に死んだ両親を責めもせず、必死に努めて世を保ったのは将維ぞ。その両親がいきなり戻って来て楽になるなと二人して、己の感情をぶつけて参るとはなんと勝手なことよ。記憶を持って転生して来たからと、奢るでないぞ。そんな記憶、消してしまうことも我には出来るのだぞ。それをせずにいてやっておるのに、これ以上の我がままは我が許さぬ。命の理を曲げることを我が嫌うのを知っておろう。」
強い口調に、さすがの維月も維心の腕の中で縮み上がった。小さな頃から、父は怒ると大変に怖かった。その記憶がそうさせるのだ。
維心は、さっさと先に死んで、戻って来て無理を通そうとしていると怒る碧黎の言葉に、言い返せなかった。何しろ、その通りだったからだ。
『…碧黎の言うことは間違っておらぬ。』ずっと黙っていた、門の中の張維が言った。『諦めよ、維心。主らが拒否しようと、これは将維自身の問題ぞ。碧黎が送るなら、不自然なことにはならぬから、無事に通常通り黄泉へ向かうだろう。迷うことは無い。』
維心は、絶望的な視線を張維に向けた。
「父上…。」
碧黎は、頷いて将維を見た。
「将維。どうする、主が黄泉へ参りたいと申すなら、今ここに張維が来ておるのだから、このまま連れて参ってもらえば良い。維心が使っておった屋敷が空いておるし、いきなりでも困る事は無い。張維もそろそろ転生の準備に入らねばならぬ…これが最後の責務となろうかの。」
張維は、驚いた顔をした。転生?番人の、我が?
『何を言うておる、碧黎。代わりが来ねば我は永劫このままだと言うておったのではないのか。だから我は、箔炎や箔真、炎真が転生して行ってもこちらへ残っておったのでは。』
碧黎は、渋い顔をした。
「こら。誰が転生しておると種を明かすでないわ。もう、主はお役御免よ。この間黄泉で破邪の舞いを舞って、黄泉の道が綺麗になったしの。またしばらくは乱れることはあるまい。主の功績よ。それに免じて主の罪は消すつもりであった。主も転生して新しい生で成長していきたいと思うであろう?」
維心は、それを聞いて身を強ばらせた。将維ばかりか、父までも…?記憶を亡くして、もう話すこともなくなるというのか。
自分が恨んで殺した父だった。それでもそれが、先に逝った母に会いたいがための芝居であったと後で知った。なんとか関係の修復を、死して後に番人となった張維と話して努めて来た。それが、なくなる。
維月は、自分を抱きしめている維心の体が、小刻みに震えるのを感じた。
思えば、維心は今生では、孤独ではなかった。
生まれながらに前世同様母は居なかったが、それでも臣下達や将維に大切に育てられ、前世のような葛藤も持つことは無く、成人してすぐに維月に出逢い、愛して、順当に婚姻して子供にも恵まれ、精神的に安定していたこともあり、友も多く、今生は友神付き合いも普通の神並みで、孤独とは無縁で生きて来た。
前世の記憶を持っていたので、それに倣って生きていたように思っていたが、そうではない。維心は、今生を幸福に生きていたのだ。
そして、今生では初めて、大切なものを急に一気に失おうとしているのを感じて、それを恐れているのだ。
維月は、将維を失うことは自分も苦しく悲しくて、受け入れ難いことであったのだが、それよりも維心の心の衝撃を思って、寝巻姿の維心の腰に手を回して、ぐっと抱きしめて見上げた。維心は、維月の気遣うような癒しの気が一気に流れ込んで来るのを感じて、維月を見下ろして涙ぐんだ。維月は、その瞳に自分も涙目になりながら、言った。
「維心様…私が居ります。どのような事になろうとも、我らは共。維心様は、そのようにおっしゃったのではありませんか。お父様がおっしゃる通り、私達は先に死んでしまいました。将維は、その後を一生懸命守ってくれた。そうして、今はもうそんな生から解放されたいと申しておるのに、私達が寂しいからと留める事は出来ませぬ…。」
維心は、言葉が出なかった。分かっていたのだ。維月に昨夜、転生してきた母の記憶が戻るのを期待してはならないと言ったばかりだった。何を言っても涙がこぼれそうで、維心はただ黙って維月を抱きしめ返すしかできなかった。
碧黎は、もう一度将維を見た。
「で、どうするのだ、将維。あまりに突然で誰かに挨拶をと申すなら、明日にしても良いぞ。とにかくは、我は今忙しい。決めたらその時に張維に迎えに来させて、それで張維の役目を終わらせ、転生の循環の中に戻して転生を待たせる。」
将維は、その場に居る誰よりも落ち着いた様子で頷いた。
「最後に我がままを聞いてくれると申すなら、明日の夕刻にもう一度、お祖父様にはこちらへ迎えにいらして欲しいとお頼み申す。長くここで過ごさせてくれた蒼にも、別れを言うておきたいしな。炎嘉殿にも…父上が戻って参るまでは、いろいろ世話になったもの。挨拶ぐらいは、しておかねばと思うておるので。」
碧黎は、頷いて門の向こうの張維を見た。
「ということだ。張維、明日の夕刻に将維を迎えに参れ。黄泉への道の向こうに将維の門が開くゆえ、そこへ参るのだ。将維、主は普通に死ぬ。魂魄だけが他の神と同じように黄泉の空間へと参り、己の門へ向けて歩くのだ。張維が迎えに来るゆえ、迷うことはあるまい。それで、張維は簡単には門の外への空間には出て来れぬようになる。普通、誰かを迎えに参るという許可が無ければ来ることが出来ぬのだが、張維は番人であったから、いくらでも黄泉の空間へ出て参れた。それが、出来ぬようになる。そこからは、普通の黄泉の住人と同じ、転生を待って責務の無い時を過ごすが良い。」
張維は、もはや腹をくくったのか、門の向こうで頷いた。維心は、ただ何かに縋るように維月を抱きしめてそれを聞いていたが、口をはさんだ。
「ならば、せめて我に門を開かせよ。」維心は、声を絞り出すようにして、言った。「黄泉の道を歩かずで済む。父上には、門の前まで来て頂けば良い。迷う心配も、ない。」
維心は、外の命にもそうやって門を開いてやることがあった。迷うこともなく、心配なく門へと入れるのだ。何より、確かにその命が黄泉へと入るのを見届けることが出来るので、こちらが安心したいという気持ちもあった。
それには、将維は穏やかに頷いた。
「では、そのように。我はこちらで蒼と炎嘉殿に挨拶をしてから、龍の宮へと帰る。そうして、七代龍王維心の父・将維として、龍の宮で逝くことにする。」
維月は、ついに溢れて来る涙を抑えることも出来ずに、ボロボロと涙を流した。前世の維心と自分との、初めての子。維心そっくりでそれは愛らしく、小さな頃からそれは可愛がって育てた自慢の息子。時に自分を助け、人であったことも理解して支えてくれた愛する息子…。
だが、その繋がりは、前世の自分が死んだ時に消えたのだ。
自分たちが、どうなるかなど考えず、ただ愛する維心と十六夜のことを忘れたくなかったために、お互いに記憶を持って転生して来たばかりに受ける、心の痛み…。
将維は、自分たちを失った時、そんな選択も出来ないまま、悲しんで見送ってくれたのだろうに。
声も出ない維心と維月を見て、将維は苦笑した。
「…泣くでない。我は責務を終えた。あちらは穏やかな場所と聞く。我は世の理通りに、親として先にそちらへ参るだけよ。」
維月は、頷きながらも止まらない涙に維心の胸へと顔をうずめた。維心も、将維を見ることも出来ずにただ、救いを求めるように維月を抱きしめる。
碧黎はそれを見て、門の中の張維に頷きかけると、さっと手を振って維心の作った門を消滅させ、そうして、そこを出て行った。