絶望の末
『将維!主が思うておるほど、こちらは楽な場所ではない!やめよ!まだ責務が終わっておらぬであろうにこちらへ来たら、良いことにはならぬぞ!』
張維は、もはや余裕なく必死に言った。このままでは、本当に将維はこんな不自然な状態でこちらへ来ることになる。そうなると、いったい黄泉ではどうなるのか、張維にも分からなかった。
しかし、将維はそんな張維の気持ちなど気にも留めない様子で、じっと黙って門を維持する力を絶つことは無かった。
『将維…!』
いよいよ門が揺らぎ始め、張維は叫んだ。
しかし、その瞬間、黄泉の門がいきなりはっきりとした形を成して、ガッツリとそこへと現れて地に降り立った。
何事かと驚いた張維が見ると、部屋の扉から寝巻姿の維心がいきなり現れて、手をこちらへ差し伸べて気を発していた。
『維心!主、居ったのか!』
張維が、ホッとしたように言う。維心は、険しい顔をしたまま、差しのべている手もそのままにこちらへと歩いて来た。
「父上。本日は月の宮で月見の宴であったのです。それより、将維が面倒なことを。ご迷惑をお掛けしてしまい申した。」
張維は、首を振った。
『良い。これが前に炎託を呼んだ時のことは、我も番人として見ておったので気にしておった。また炎託を呼ぼうとしたゆえ、あれは今、聞こえても気が足りぬで来れぬし、言うて聞かせようと思うて出て参ったのよ。』
維心は、頷いて将維を見た。将維は、もはや立ち上がることは出来ないほど気を消耗していたが、それでもまだ、意識はあった。そんな己にイライラしているようで、朦朧として視線も定まらない中で、声を荒げて言った。
「なぜに…!我はもう、無用の長物ではないのか!子を成し代を譲って責務を終えたはずぞ!」
維心は、黄泉の門をしっかりと形作ったのを確認してから、将維に向けて思い切り大きな気を一気に送り込んだ。
体に損傷がない状態で死にかけていても、いや死んでいても直後なら、維心に呼び戻せない命などない。
将維は自分の体に一気に流れ込んで来る気にむせ返り、大きく体をしならせて喘いだ。しかし、もはや自分の命に別状は無いことは、体に力が満ちて来るのを感じて分かった。
維心は、床に手をついて咳き込む将維を見下ろして、言った。
「甘えるでないわ。我とて前世永の間、死ぬに死ねぬ己に縛られて1500年も君臨しておったわ。己が死ねば世が乱れる。ゆえ、死ぬことも出来ぬで、しかし生きておっても何もすることも無く退屈でしかなくて。主には生きる意味があるから老いも来ぬのだろうが。それを探して成せば自然死ぬことになろう。急ぐでないわ。愚か者めが。」
将維は、ようやく咳き込むことから逃れてゼイゼイと肩で息をしながら維心を睨むように見た。
「分かっておる…だが、父上は生きておるだけで世を押さえつけるという責務があり申した!我には、そんなものはない。ただ生きておるだけ。いったい、何のために我は永らえておるのだ!我はもう、こんなことは真っ平ぞ!」
維心が、目を細めてどう答えるかと将維を睨んでいると、後ろから張維が言った。
『こやつは黄泉へ来て番人をすると言いおった。我の代わりにの。』
維心は、その意味を知って将維を睨みつけた。
「主はその重さを知らぬ。父上は長年番人に縛られておって、これは前世我に親殺しをさせた罪であるのだ。これまで、転生も許されておらぬ。黄泉での責務は普通持たぬのだが、それを持たされておる。死んだこともない主が、その重さを知らぬのに簡単に番人になるなどと…片腹痛いわ。」
将維は、気が復活した発作から回復し、それでも重そうに体を起こして、維心を見た。その自分そっくりな様に、維心は顔をしかめた。前世、自分も炎嘉に殺させようとした事があった…その時の事が、脳裏を過ったのだ。
「我は忙しいのに。」急に、別の声が割り込んだ。「月の宮の威信に関わる故な。面倒があってそちらを見張る必要があるのよ。なのに何をしておるのだ、主らは。」
見ると、碧黎がそこに立っていた。
いきなり現れるのはいつもの事だったが、維心はその言葉を聞き逃さなかった。
「…何ぞ?何か面倒な輩が居るか。」
碧黎は、手を振った。
「ああ、そっちはいいのよ、我らでなんとかするゆえ。それより、将維よ。」と、将維の顔を覗き込んだ。「主、もう黄泉へ参りたいか。」
維心も、門の向こうの張維も、驚いた顔をする。
将維は、何度も頷いた。
「我に出来る事は父上にも出来る。それ以上の能力が父上にはある。現世の我には、もう出来る事はない。ならば新しい生での責務か、それともお祖父様のように番人としてあちらで責務をこなすか、我は何か、己も役に立って生きたい。黄泉で休むというのなら、ここ数百年が充分それに当たるゆえ。ここ数百年は、我は生きながらまるで死んでいるかのようだった。炎託を亡くした時に、それに思い当たったのだ。」
維心は、それを聞いてますます眉を寄せた。確かに将維は、ここのところ自分をほんの時たま補佐する以上、世に役立つ事をしては居なかった。時に龍の宮に帰って来て世の動きは把握している努力をしていたが、だからといってそれを役立てる立場になったことはない。
最近では維明も育ち、十分に維心の代役もこなしている。将維を頼る事は、ここ数年無くなっていた。
碧黎は、頷いた。
「ならば考えようぞ。主の立場は維心の補佐であった。世をここまで、維心が戻るまで保ち、戻った後はそれを助けた主の願い、聞いてやっても良い。」
維心は、目を見開いた。まさか、碧黎がそれを許すとは思わなかったのだ。
「待たぬか、ならばなぜに将維はここまで老いもせず残っておったのだ。まだ責務が残っておるのではないのか。」
碧黎が、維心を見て首を振った。
「こやつの責務は、主が戻るまでの世を平穏に保つ事であった。そしてその命を、世に再び生み出すことぞ。その後はまた、維心をさらに助ける命が育つのを見守り、補佐すること。維明が成人してそれなりの事が出来るようになった今、こやつが残っておったのはひとえに主ら…主と維月の心の平穏を保つためだけに他ならぬ。だが、それも、そろそろ大丈夫であろう。主らは陽蘭の死も転生も受け入れて、今穏やかにしておる。いつまでもこれを世に縛り付けるのは、主らのエゴでしかない。それでもこれがまだ世に未練があるならとそのままにしておったが、これがこれほどに新しい責務を望むなら、遊ばせておくにはもったいない優秀な命なのだからの。」
張維は、門の向こうでじっと黙っている。維心は碧黎に訴えた。
「まだ我に心の平穏などない!我の…我と維月の初めての子であるのに!」維心の声は、悲痛な色を帯びていて、将維でさえも驚いて顔を上げる。維心は構わず続けた。「我はこれを得て初めて子というものの愛おしさを知ったのだ!維月と共に愛し、育てて幸福を知った。我らの前世の…我と維月という命の交流の上で、常にこれが居った。時に我らの仲を取り持ち、理解して我らを助けて来た。何も世を平穏にするための道具だけでこれの生を望んでおったのではないわ!我ですらこれが去るのにこれほど抵抗があるのに…維月などどれ程に悲しむことか…!」
維心の叫びは、心の底から滲み出る親としての愛情だった。滅多にそんなものは見せたことのない維心の、初めての言葉にさすがの将維も心が揺らいだ。命より大切な維月を、前世あれほどに執着していたにも関わらず、自分にだけは許して見てみぬふりをしてくれた。維心の言葉に、偽りなどないのは分かったからだ。
しかし、碧黎は、穏やかに労るように言った。
「それがエゴであるのだ。維心よ、我は主らの心持ちは分かっておるつもりよ。子を亡くすのはつらいもの。だが、よう考えてみよ。主自身も今言うたように、将維は主の前世の子。主と維月を涙ながらに見送り、それを乗り越えて世を守って生きた。普通ならば、主は将維の子であって、将維は父。この地上に生き物が生まれた時から続いて来たように、親は子が独り立ちしたのを見て安心して世を去って行く。そして、子は親をねぎらいながらそれを見送る。主はもう、今生父である将維を見送らねばならぬ時が来たのだ。」
将維は、それを聞きながら碧黎の言うことを回想していた。母が死に、父がすぐにそれを追った。まだ成人もしていなかった将維が、龍王としてその王座に就き、どうあっても父が作り上げたこの地を守らねばと悲しむ暇もなく必死に努めていた。臣下達が妃をと言って来ても、面倒で無視し、それどころでないと父の気持ちを慮った。それでも、必死に頼むその頃存命だった洪が、正式に持って来た縁だけは仕方なく受けた。そうして、たった一夜だけ礼儀と通い、その時に宿ったのが、父が転生する命などとは、その時には思いもしなかった。
その、父そっくりの維心を育て、何とか次へつなごうと必死になった。これが終われば、きっと自分の役目は終わる。ただただ、そう思って…。
これまでの自分の生が、走馬灯のように脳裏を過ぎる。父と母に挟まれて、育ったあれこれ…自分より遥かに大きな維心が、自分のために軽く刀を振って相手をしてくれたこと、その様子を幼い兄弟たちを抱いて、維月が微笑んで見ていたこと…。父の背を追い、父に追いつきたいと必死になり、母をいつの間にか本当に愛し、苦悩して、父も悩ませて…。
自分は、幸福だった。
将維は、妙にスッキリとした頭になって、そう思った。確かに両親に愛されて育った。自分も皆を愛し、兄弟たちと共に励み、友を得て、自由になり、楽しんだ。
この生では、もう何も思い残すことはないだろう。
そんなことが一瞬にして将維の頭の中に流れている時、維心は言った。
「納得できぬ。我はまだ、こやつを一人前にしたとは思うておらぬ。成人もせぬうちに放り出してさっさと維月を追って逝ってしもうた。これは己の中で答えを出すしか無かった…若くして父を殺した、我のように。これに苦労をさせて、そして我は戻って参った。確かに今は神世に貢献しておらぬやもしれぬ。だが、我がこやつの役目を与える。もっと優秀な命に育つことが出来る。今黄泉へ逝くのは許さぬ。」
碧黎は、どこまでも必死な維心に、困ったように顔をしかめた。
「将維はもう、育てる必要などないのだ。分かっておろう?今生はこれまで。来世でまたこれは己の命を高めるために努力する。主はもう、これの親ではない。だから言うたではないか。なぜに記憶を持って参った。何度も言うが、親であったのは前世。今は反対に主がこれの子なのだ。諦めよ。皆、そうして親の死を乗り越えて参るのだ。」
「しかし…!」
維心が更に食い下がろうとすると、将維が、すっきりとした顔で立ち上がり、首を振った。
「父上。いや、維心。我はもう、参る。主は立派に成長し、孫の維明もあのように育った。もう我には、世に留まる心残りなど何もないのよ。」
維心は、将維の顔を見て、ハッと悟った。将維は、行くつもりでいる…自分が何を言おうとも、もう聞く気などないだろう。
碧黎の言うことは、間違ってはいない。分かっていた。それでも、前世の自分と維月の幸福の象徴が、自分を助けて生きていたその存在が、消えて行くのを黙って見ていることは出来ない。
するとその場に、維月が転がり込んで来た。
「お待ちくださいませ!」維月は、碧黎の前に膝をついた。「お父様、どうか将維の寿命を切らないでくださいませ…!」




