恨み
薫は、久しぶりに疲れ切って学校の宿舎へと戻って来た。
途切れなくずっと立ち合いを続けていくあのスタイルは、軍神達が訓練する神世では一般的な形らしい。
なぜなら、実際に戦場に立てば、一人や二人と立ち合うレベルではないほどの人数と、立ち合って行かねばならないからなのだそうだ。
そうやって慣れて体力もつけておかないと、いざことが起こった時に、体力がなくて遅れ、隊から外れた者は狙い撃ちされるので命もない。
そんなことにならないためにも、自分の身は自分で最後まで守り切り、そうして皆について行くしかなかった。
軍神といえども過酷なのだと薫が思って宿舎の扉の前へと立つと、向こう側から、それを待っていたかのように、人影が出て来た。
咄嗟に、光希か、と構えた薫だったが、そこから出て来たのは、朔だった。
驚いて片眉を上げた薫だったが、警戒しながらそちらを見た。
「…朔か?どうした。我に何か用か。」
朔は、甲冑を着ていたが、何やら疲れているようだった。訓練では見なかったので、今日は出て来ていなかったと思う。その朔は、言った。
「薫。その、主がこの間申しておったことであるが。」
薫は、眉を寄せた。確かにここには自分以外誰も居らず、他の宿舎の部屋は空だったが、廊下でする話ではない。
なので、戸を開いた。
「…中へ。話を聞こう。」
朔は頷いて、回りを見ながら、薫の部屋へと入って来た。そして、戸を閉めると、言った。
「と言うて、長居は出来ぬのだ。我は夜番であって、もうすぐ行かねばならぬ。だが、その前にどうしても主に聞いておこうと思うて。」
薫は、頷きながら椅子へと座った。
「ならば申せ。この間話したことと申したら、地が気付いておるということか。」
薫が水を向けると、朔は頷いた。
「そうだ。我も到も、確かに父を殺されて頭に血が昇ってつい、光希が復讐をするというのに乗ってしもうたが、最初はあのような大きなことは言わなんだのだ。ただ、汐の悪口を言い合うだけで。それが、最近のあいつは明らかにおかしい。何やら、憑りつかれておるようぞ。というて、ここは月の結界の中、もしあやつに黒い霧でもついておろうものなら、たちどころに消えてなくなるであろうから、そんなものではないのだろうが。」
薫は、辛抱強く頷いた。
「そうよな。そも、この中で憎しみが育つのもおかしな話なのだ。主だって、少しは昔より汐に対する恨みも薄れて来ておるのではないか?なぜに、光希だけがあのように。」
朔は、じっと下を向いて、首を振った。
「…分からぬ。あれは明らかにおかしいのだ。というて、昔からけんかっ早いところがあったし、変わっていないのかもしれぬが、少なくともあのような大きなリスクを伴うことはせなんだ。それが…あれは、今夜闇の欠片を回収に参ると申して。」
薫は、それには驚いて目を見開いた。闇の欠片を?
「…あれは術を見つけたのか?」
朔は、首を振った。
「見つけておらぬ。そんなもの、目につく場所になど置くはずもないではないか。それなのに、闇の欠片を回収するなど…無謀だと申したのよ。そうしたら、あれは己に憑かせればいいのだとか申して。そのようなことをしたら、闇に飲まれて面倒な事になるのだと我も到も申したのに、あやつは聞く耳を持たぬ。聞いておったら、今は汐より主や螢が憎いようなことを申しておって。静音もそれを煽っておるし、我らではどうしようもない。」
薫は、じっと考え込んだ…自分に闇を憑かせて持って帰って来るという。そう言う場合、どうなるのだろう。月は、恐らくそれを気取って消し去るだろう。
「…今夜、主らが夜番なのだな?」
朔は、頷いた。
「そう。我らは同じ隊であるから。我と到、光希ぞ。光希は、その時に参ると申す。我らは反対しておるが、聞く様子はないゆえ、恐らく行くだろう。」
薫は、頷いて、朔に言った。
「朔、闇はの、本来小さなものなら月は自動的に浄化してしまうのだ。まして光希が術も知らぬ状態で、己にそれを着けてこちらへ戻ったとしても、飛んで火に入る何とやらで、一瞬にして、消える。なので、案じることは無いのだ。それよりも、光希が気に掛かる。なぜにそのように邪な気持ちを保っておるのだ。普通ならこの月の浄化の結界の中、ある程度は綺麗になるものなのに。1、2年なら分かるが、20年であるぞ?あやつはどうなっておるのだ…何やら胸騒ぎのすることよ。」
朔は、身を乗り出した。
「薫、我はもう行かねばならぬ。どうしたら良い?あやつを止めることは我らには出来ぬ。主が止めてはくれぬか。」
薫は、じっと考えていたが、険しい顔をして、首を振った。
「我なら力づくでなければ止めることは出来ぬ。我の言うことなどもはや聞かぬだろうて。分かった…では、後は我に任せよ。主は、光希に行くべきでないと申すのだ。到も共に。それだけで良い。光希は行くだろうが、それならば行かせよ。主が手を出しては、怪我をするやもしれぬから。分かったの。」
朔は、少し安心したような顔をして、立ち上がった。
「すまぬ。後は頼んだ。では、主の言うようにする。あれは行くだろうが、放って置くことにする。」
薫が頷くと、朔は幾分すっきりとしたような顔をして、そこを出て行った。
だが、薫はスッキリどころではなかった。いよいよ、もっと良く光希を調べねばならぬ。だがしかし…どうやって?
薫は、真っ直ぐに螢の屋敷へと向かった。
螢の屋敷には、まだ螢が戻った様子がない。
薫は、螢がどちらの方向から来るのか分からないが、空を見て気配を探っていた。すると、螢が訓練場の方向から、真っ直ぐに戻って来るのが見えた。
「螢!」
薫が、浮き上がって螢を迎えると、螢は驚いたように薫を見た。
「薫?主、甲冑か。そうか本日から軍へ?」
薫が、そんなことはどうでもいいように何度も頷くと、言った。
「そんなことより、朔が知らせて参った。光希は、本日闇の欠片を取りに参るのだと。」
螢は、仰天した顔をした。
「なんだって?!そんなものを持って帰って来られたら…!」
薫は、首を振った。
「持って帰っても問題ないのだ。月が浄化してしまうゆえ。それより、問題なのは光希の方よ。あやつ、どうしたのだ。普通ならあそこまで闇の欠片に固執するなどあり得ぬ。朔や到でさえ、もうそんな大事を起こすほど、汐を恨んでおらぬようだった。だが、光希だけああぞ。いや、静音もか。」
螢は、深刻な顔をした。
「どうする?止めるか。」
薫は、息をついた。
「いや。ここへ闇を連れ帰っても術を知らぬのだから、月の浄化の力に晒されてすぐに消える。だが、我が案じておるのは、何やら光希に普通ではないものを感じるからぞ。あやつは、いったいどこの出よ。主、詳しく知っておるか。」
螢は、首を振った。
「知らぬ。皆はぐれの神と一括りに呼ばれておるから、我らの、どこどこの集落のどの辺りの誰なのか、という身元の表し方は、こちらの神達には通用せぬのだ。結界内の神達は、そもそも我らの位置関係など知らぬからの。」
薫は、歯ぎしりした。何やら、胸騒ぎがする。朔ではないが、もしかして何としても光希を止めるべきなのではないのか。
「…あやつの言うておったことを、思い出せ。何か、変わったことは申しておらなんだか?」
螢は、腕を前に組んで、考え込んだ。変わった事と言うと、全てなのだが、何しろ光希は勉強というものが出来なくて、教科書も読んでいるのかというほど、何も覚えていなかった。それでよく卒業出来たなというのが正直な感想だ。後々玲に内容を何度も聞きに行っても、不審に思われないほどには光希は愚かで、とにかく物覚えは悪かったが、態度は偉そうだった。
「…そういえば、変わったことと言ったら、この間の最後の会合よ。」薫が、螢を見る。螢は続けた。「あやつはとにかく愚かなヤツで、教科書の内容などほとんど覚えておらなんだ。それなのに、その時は月の宮の歴史で見たとか言うて。月が封じた闇が入っておった穴のことぞ。あやつが覚えておるなど、珍しいことなのだ。」
薫は、顔を上げた。
「北東と申したな。どの辺りであったか。地図など無かったゆえ、正確な場所は我も知らぬのだ。」
螢は、首を傾げた。
「玲殿が仰っておったのは、半島から少し下がった付け根の辺り…」螢は、ハッとした。「あの辺りは、北東の海の集落が三つほどあったの。もしかして、光希はあの辺りの出身で、だから印象に残っていて覚えておったのでは?」
薫は、頷いた。
「ということは、もしやその穴を見たことがあるのやもしれぬぞ。だがその時は穴だというだけで、何も知らぬで通り過ぎたということも考えられる。もしや…」薫は、くるりと踵を返した。「参れ、螢!」
螢は、薫に言われて、思わず頷いて、その背を追った。
薫は、一目散に静音の家を目指していた。