緑翠と白蘭
白蘭は、佐保他侍女達に気付かれないように、焦った様子は欠片も見せず、おっとりと寝る支度をすると、もう疲れたので休むと言って、侍女達を下がらせ、寝室へと入った。
同じ控えの間を与えられている父とは、同じ部屋だが寝室は別だ。とはいえ、帰って来て白蘭が居なければ気取るだろうが、月見の宴のように夜行われる催しは、通常明け方近くまで酒を飲んでいるものなのだとは侍女達から聞いて知っていた。
白蘭は、まだ宴が始まってすぐの、序の口の辺りで場を下がって来ることが出来たので、外へ出ている間に父が帰って来ることはあり得ないと思えた。
そっと寝室の窓を開いて庭へと足を踏み出すと、スッと浮いて、月が明るく照らす中を湖を目指して低空を飛んで行った。
月が明るいので、湖までの小道も美しく見えた。
正面に大きく見えるその、湖の畔へと到着すると、その美しさに思わず見とれた。湖面には、大きな満月が移り込んでいる。ここの気は驚くほど清浄で、ここで何か恐ろしいことが起こることなど考えられず、白蘭がぼうっとそこに突っ立っていると、脇の林の方から、ガサッと音が聞こえた。
ハッと現実が戻って来たような気がした白蘭は、慌てて振り返った。いくら月の宮でも、どんな神が居るのか分からないではないか。
しかし、そこからは、見慣れた顔が覗いて、手招きした。
「そら、こちらへ!そのように丸見えな場所で。」
白蘭は、ホッと肩の力を抜いて、そちらへと足を進めた。
「緑翠様。我に指南をしてくださるためにいらしてくださったのですね。」
緑翠は、頷いて白蘭を林の奥へと押し込むと、誰にも見られていないか辺りを見回した。そして、息をついた。
「主な、我らは会っておってはならぬのよ。前も申したが、我が主を娶らねばならなくなるのだぞ?しっかりせよ。主は想う相手が居るのだろうが。」
白蘭は、しょんぼりと下を向いた。
「申し訳ありませぬ…。何しろ、緑翠様がおっしゃる通りに努めておったら、侍女も皆我の味方をしてくれるようになり申して。この上はお早く義心様に娶られるように、次の指示を聞きたいと思うたのですわ。」
緑翠は、義心と聞いて驚いた。もしかして、あの龍軍筆頭の手練れの軍神を想うておるのか。
前は、名前まで聞いていなかったのだ。
「主、あの義心をと。あれは…かなり敷居の高いことぞ。ならば思うておったより、急がねばならぬやもの。」
白蘭は、不安そうな顔をした。
「今の我ではまだまだということでしょうか。」
緑翠は、白蘭が悲し気にしているのに、罪もない子供を叱ったような気がして、慌てて言った。
「いや、主はようやっておるわ。ようそこまで努めたものと感心しておった。この上は、まず、振る舞いぞ。」と、着物の裾を指した。「蹴捌くのがまだぎこちない。上位の宮の皇女なら、そんなものはお手の物でなければならぬ。それに、お辞儀の角度や速度がまだ違う。一度、侍女に申してそこを徹底的に直させるのだ。主の宮の侍女は、幸い皆品が良い動きが出来る。あれを完璧に学ぶのだ。」
白蘭は、緑翠に褒められて嬉しそうな顔をしたが、次に続くこれからの課題に、真剣に聞き入った。そうして、頷いた。
「はい!あれらにしっかりと動きを教わって参りますわ。それから?」
緑翠は頷いて、胸から懐紙を引き出した。そして、塗りの筆箱を開いて、筆を白蘭に渡した。
「なんでも良いから書いてみよ。主の手が見たい。」
白蘭は、それにも真剣な顔で頷き、ここ数か月の成果を見せねばと月明かりの中で、そこへ言われるままに文字を綴った。
緑翠はそれを見て、うーんと唸った。
「…うむ。いくらか学んでおるような文字ではあるが、まだ誰かの真似事のような。そうよな…ここら辺りが父王を思わせるの。」
白蘭は、驚いた。
「まあ!最近ではお父様の御手を真似て鍛錬をしておったのですわ。ようお分かりになりますこと。」
緑翠は、真面目な顔で頷くと、筆を白蘭から受け取り、サラサラと書いた。
「この辺はこんな感じに大らかにした方が印象が良い。それから、緩急をもう少し…この字を書くなら、こうした方が良いぞ。」
白蘭は、息を飲んだ。
緑翠の筆からは、見たことも無いような、それは美しい文字が現れて来るからだ。こんなに美しい文字は、自分の指南をしている佐保ですら書いた事が無い。
「まあ…緑翠様は、何とお筆が達者であられることか。こんな美しい文字は、見たこともありませぬ。」
緑翠は、それを聞いて苦笑した。確かに回りからはそう言われる。しかし、これは紫翠も椿もそうだし、ひとえに母の厳しい指南があったからだ。
その母は、父にも臣下にも、他の宮の妃達にも絶賛される字を書いた。なので、物心ついた時には、兄弟たちも自分も、その文字から教えを受けて、自分なりの字を書けるまでになっていたのだ。
「…我は、母が大変に美しい手を書くので、幼い頃から手習いしておったから。字はの、バランスと調和ぞ。全体を考えて書き始め、同じ文字でも内容で険しくも穏やかにも変えることが出来る。文字は主の性質を表す。ゆえな、気を入れて慎ましい心地を忘れずに、己が高貴な姫であることを自覚しながら演じて書くのだ。最初はそれで充分ぞ。そうしておる内に、それが主自身となって行く。ただ誰かを真似るのではなく、己自身を込めるつもりで書くのだ。そうして書き上がったら、全体の美しさを確認せよ。どこか調和がとれておらなんだら、書き直すぐらいでなければならぬ。父王の真似が悪いとは言わぬが、それを主なりのものにしていかねばならぬのだ。男の神からの印象は、文字だけで格段に変わるもの。分かったの。」
白蘭は、自信なさげに頷いた。そう言ってもまだ、自分はそこまでのレベルに達してはいないのに。
「…分かりましたわ。頑張ってみまするが、しかしながら字ばかりは、緑翠様が御指南頂くわけには行きませぬかしら。」
それには、緑翠は顔をしかめた。
「我が?いったい何がどうなってそうなったのだと問われたら、どう答えるのだ。姉上ならば分からぬでもないが、我は皇子ぞ。すぐに娶る話になるというのに、だから主は我に嫁ぎたくないだろうが。」
白蘭は、しゅんと下を向いた。
「はい…。」
緑翠は、すっかりしょげてしまった白蘭に、困ったように息をつきながら、筆を片付けて言った。
「ならば…そうよな。主の兄の志夕殿は、確か箔炎殿と友であったの?」
白蘭は、困ったように眉を寄せたまま、頷いた。
「はい。我も箔炎様にはお兄様と同じような心地で居りまする。」
緑翠は頷いて、続けた。
「ならば、兄に頼んで箔炎殿から我が姉の椿に、主の書の指南をしてはもらないかと打診してもらってみよ。どうやら正式に箔炎殿と姉上は婚姻を約すことになるようであるし、それならば不自然ではないゆえ。あれで姉上は世話好きであって、主の指南を受けると思うぞ。とにかくは、一度兄に相談するのだ。分かったの。」
白蘭は、ぱあっと明るい顔をした。
「はい!分かりましたわ、兄に頼んでみます!本当に、何から何までありがとうございます、緑翠様。」
素直にコロコロと表情を変えて言う白蘭に、緑翠は苦笑した。こうして見ると、元々の性質はそれほど悪くはないようなのに。
そう思いながら、緑翠は立ち上がった。
「さあ、ではこれで。長く離れておっては、侍女達に出て参ったのがばれようが。励むのだぞ。」
白蘭は、もう立ち去ろうとする緑翠に、慌てて言った。
「お待ちくださいませ!」緑翠は、いきなり声を上げた白蘭に驚いて振り返る。白蘭は急いで声のトーンを落として、言った。「あの…次の指南は、どうしたら良いのでしょうか。」
緑翠は、顔をしかめた。
「そうであるな、主がそれを成せてからであるから、まだ時が掛かろうし。しかし、姉上から指南を受けるのならば、主が我が宮を訪ねるのも出来るようになろう。そうなった時、また話す。だが今はこれまでぞ。」
そうして、緑翠はスッと浮き上がってサーッと飛んで行ってしまった。
取り残された白蘭は、確かに見咎められたらまずいことになる、と思ったが、それでもこんな場所に放って置かれたのは初めてで、戸惑った。緑翠が自分をこれっぽっちも思っていないのは知っているが、部屋の近くまででも送るのが、王族としての嗜みだろうに。
緑翠だって皇子としてまだ未熟じゃないかと少し腹が立ったが、しかし緑翠の行動も道理なので、仕方なく白蘭は一人でまた、低空を飛んで自分の控えの間へと飛んで行ったのだった。




