箔炎と椿
箔炎と椿は、黙って黙々と歩いていた。
綾が案じたように、正装が重くて歩けないというようなことは、椿に限っては無かった。何しろ、普段から訓練場に立って鍛えていたので、体力だけはあるのだ。
なので、箔炎が歩くのに楽について行けてはいたが、しかし箔炎が何も話さずにどんどん歩くので、椿も自分から口を開くわけにも行かず、ただ黙ってついて歩いていた。
だがしかし、それが全く嫌ではなかった。
なぜか箔炎と一緒に居ると、心が和んで楽になる。箔炎と共に居るのが、なぜか当然のような気がして、自分から望んでそこに居るような気がして、黙っていても幸福な感じがした。
そうやって歩いて行くと、奥の方まで来てしまったらしく、母から月の宮の庭の奥には見事な滝があると龍王妃様が言っていたと聞いていた通り、目の前には滝が現れた。
…ということは、この辺りが庭の端になるはず。
椿が思っていると、箔炎はやっと足を止めた。
それでも、箔炎は椿の手を取ったまま、じっと黙って滝壺のほとりに立っている。
段々に椿は、これほどに和むのは自分だけなのだろうかと不安になって来ていた。
一方、箔炎はというと、初めて会ったはずの椿が、何やら懐かしく慕わしい気持ちと、どこか申し訳ないような気持ちが湧き上がって来るのに戸惑っていた。
会ったことも無いのだから、申し訳ないのはおかしいし、それは自分の気のせいなのだろうが、この、大らかで全てを包み込んでしまいそうな暖かい気は何だろう。
龍王妃は陰の月で、その気も大概遮断しておかねば取り込まれそうな危機感を感じされられるもので、それなのに乞いたくなるような困った珍しい気だったが、椿はそれに似ているように感じる。だが、維月のように急激に吸い込まれるような危機感は全く無く、自分を委ねて守られたいような、そんな大きさを感じるのだ。
それにしても、何を話したらいいのか分からない。しかし、あまり黙っていたらさすがに気を悪くするのではないか。
箔炎がそう思って思い切って椿の方を見ると、椿が扇で顔の半分を隠したまま、心配そうな目でこちらを見上げていた。
…やはり黙って歩いておったから気を悪くしておるのだろうか。
箔炎は思ったが、しかしここで怯んでは王になって妃を娶るなど出来ないと思い、言った。
「その…急なことで主も驚いたと思うが、我らはまだ年も若いゆえ。ゆるりと慣れて参れば良いと思うておる。」
椿は、それを聞いて嬉し気に微笑んだ。箔炎は、自分を娶るのを否とは思っていないようだと思ったからだ。
「はい。慣れると申して、我はなぜだが箔炎様と共に居ると、大変に穏やかな心地になるのが不思議なほどでありまして。黙ってお傍に居るだけでも、癒されると申しますか。」
箔炎は、驚いた顔をした。椿がはっきりと物を言うことにもだが、自分も同じ感覚だったからだ。
「主も?実は…我も、主とは初めて会ったのにそうは思えぬで。何やら懐かしいような気がして。」
椿がはっきり言うので、箔炎も素直にそういうと、椿は袖で口を押えた。
「え、箔炎様も?我も、なぜだが懐かしいやらホッとするやらで…気の相性が良いのでしょうか。」
箔炎は、言われて思わず頷いた。
「そうやもの。同い年であるし、これから共に学んで行こうぞ。とはいえ、主はあの非の打ちどころの無い綾殿を母に持っておるし、もしかしたら我より宮を回すことに優秀やもしれぬが。」
椿は、それにはスッと眉を寄せた。
「それは…母はあのようですけれど…」と、声を潜めるように、誰も居ないのに回りを見てから、言った。「その、父君にも母君にも申されないと約してくださいまするか?」
箔炎は、思わず自分も小声になりながら、真剣な顔をした。
「何ぞ?何かあるか。」
綾は、ゆっくりとひとつ、頷いて、そうして、思い切ったように口を開いた。
「あの…母は、女神の中では気が強いと言われる部類であり申して。我もそれに似申したのか、いつの間にか同じような性質なのだと悟り申しておりまする。立ち合いなど、皇女はしないと言われながらも、我は向いておるような気がして、じっとしておるのも嫌いであるので、つい励んでしもうて。ですが、もちろん母は妃としての責務はきっちりとこなしておりまするし、我とてそれは厳しく躾けられ申しましたので、分かっておるつもりでありまする。表向き、あのように完璧に振る舞っておっても、宮ではそれなりに父にいろいろと許されながら、我らは生活しておるのですわ。」
箔炎は、あまりに正直にはっきりというので、思わず感心してしまった。これほどにハッキリと物を言ってくれたら、分かりやすいのでこちらも対応を迷うことも無いし、椿なら自分が間違っていると思ったら、恐らく物怖じせずに意見を言ってくれるだろう。従順な妃など、箔炎は退屈なだけだと思っていたのだ。
話し終わって心配そうにこちらを見ている椿に気付いた箔炎は、ハッと我に返って慌てて言った。
「その…もちろん、我は誰にも言わぬぞ。だが、我はそれが悪いとは思うておらぬ。主ならば、きっと我が間違っておったらハッキリそう言ってくれるだろう。気に食わぬことがあっても、蔭から恨めし気に見ておるだけの妃など我は面倒だと思うておったのだ。父や母が勝手に決めてと思うておったが、確かに主は我の助けになりそうな。」
そう、この大きさを感じる気。決して強い気ではないのに、大らかさと包容力を感じさせる、本当に身を委ねたくなるような、珍しい気…。
椿は、扇を上げるのも忘れて、微笑んだ。
「嬉しいですわ。箔炎様がそのように思うてくださっておると思うたら、我もこれからどのように振る舞えば良いのか分かろうと言うもの。我は、己を偽りたくありませぬ。もちろん、公の場では母のように完璧な妃として振る舞いまするが、それでも夫であるかたの前で、偽物の己を見せることは出来ぬと思うておりました。こうしてお話出来て、誠にホッとしましたこと。」
箔炎は、扇が降りて初めて見て、その整った顔に驚いた。美しいのは綾と翠明があのようなので当然だと思っていたが、しかしどこか龍王妃を思わせるような顔立ちで、確かに気は強そうだった。
そしてそれがまた、箔炎には懐かしく慕わしく感じた。
「…主は、美しいの。」
言われて、椿はハッとして慌てて扇を上げた。礼儀を弁えておかねばと思っていたのに、話に夢中になってつい扇を下ろしてしまった。
「も、申し訳ありませぬ。我としたことが、このように不躾な。」
箔炎は、首を振った。
「良い。我は、ここへ来て主に会うまで不満に思っていた。勝手に妃を決められて、娶らねばならぬのかと思うておったし、しかしそれが責務であるのも知っておった。だが、主に会ってこれは運命であったように思うた。我ら、恐らくこうなる運命なのだ。同じ年に生まれ、こうして出会った。龍王と龍王妃のように、転生して参った夫婦などと夢見たことを言うつもりは無いが、しかしそうであっても驚かぬよ。今は我は、主を娶りたいと思う。これから、共にお互いを知り合い、婚姻の日を待とうぞ。」
椿は、それを聞いて何やら胸の奥から熱いものが沸き上がって来て、涙ぐんだ。なぜなのか分からない。だが、箔炎がそう思ってくれているのを知って、嬉しいと思う気持ちが、魂の奥から突き上げて来るようで、体が震えて収まらなかった。
「はい…。」椿は、震える声で答えて、頷いた。「はい、箔炎様。我は、今の言葉をなぜかずっと待っておったような心地がしましたわ。お会いしたばかりであるのに、誠におかしなことでありますけれど。ですが、我は箔炎様の御為に、良い妃になるようその日まで努めて参ります。」
まだ、閨の巻物という、神が成人したら読む、その家に伝わる性教育の巻物すら読んではいない歳であるので、ただ手と手を取り合って、二人でじっと見つめ合いながら、月の宮の滝の前で生涯を誓ったのだった。




