指南は
白蘭は、じっと緑翠に言われた通りに毎日一生懸命最高位の宮の皇女らしく、絶対に男に姿を見られないように、まかり間違っても視線など交わさないように過ごしていた。
やってみると案外に簡単で、宮の奥に居たらそもそもそんな機会はなくて、退屈なので次に緑翠が言って来そうな書と裁縫に勤しんでいたが、やってみると最初は乳母だが今は侍女長になった佐保にも、腕が上がる度にそれは褒められて、気分も良かった。
あれほどうるさいと思っていた侍女達なのだが、こうなってみると皆ニコニコと機嫌も良く、白蘭を大切に扱ってくれる。
これまでの数十年、損をしていたのではないかと思ったほどだった。
そして、思ってもみなかったのだが、男が居ない生活というのは、相手に媚びなくて良いのでそれは楽だった。
白蘭は、最初からこうしておけば良かった、と、男無しの生活を案外に楽しんでいた。
今日も部屋で佐保に言われたように、父が書いたそれは美しい文字を必死に真似ようと頑張っていると、佐保が入って来て、言った。
「白蘭様。お手習いの最中に申し訳ありませぬが、父君からのご伝言を。」
白蘭は、集中していたのだが、ハッと我に返って佐保を見た。
「お父様が何か?」
佐保は、頷いて心配そうに言った。
「あの、来月月の宮で月見の宴が開かれるとのことで。志夕様は残られるようですが、白蘭様には同行なさるようにとのことですわ。」
最近、白蘭が外へ出たがらないのを知っていたので、嫌がるのではないかと案じているようだ。
白蘭は、他神の目に晒される可能性が強い場に出なければならないのが、気を遣わねばならないので面倒だ、と思ったので、眉を寄せた。
「まあ…。でも、お父様がおっしゃるのに従わぬわけには行きませぬし。この前の宴で付けたベールは整えてある?あれで大丈夫かしら。」
佐保は、頷いて言った。
「はい、それは大丈夫ですけれど、よろしいのですか?面倒だとお思いでしたら、ご体調がとか申して当日にお断りなどしてもよろしいのですけれど。」
白蘭は、すっかり自分を気遣って、自分側に立ってものを考えてくれる佐保に、感謝した。そして、苦笑しながら首を振った。
「お父様は仮病だと簡単に気付かれてしまうわ。我もこれまでの行いでお父様にご心配をお掛けしたし、これ以上嫌われるようなことはしたくないの…。なので、参るわ。でも、気遣ってくれてありがとう、佐保。」
白蘭が嬉しげに微笑んで言うと、佐保は一瞬、息を飲んだ。王族は普通、気遣われるのに慣れているので当然だと思っていて、それで礼を言うことなどないのだ。それなのに白蘭は、それは美しく微笑んで佐保に感謝している。
佐保は心の底から感激して、言った。
「我は、白蘭様を誤解しておりましたわ。これほどに素直でお優しいかたでいらっしゃるのに。きっと、月の宮でお困りになることなどないように、我らお守り致しますから。ご安心くださいませ。」
白蘭は、佐保が何やら涙ぐんでそんなことを言うので驚いたが、佐保が助けてくれるなら心強い。
なので、美しく微笑んだまま頷いたのだった。
一方、鷹の宮でも箔翔は、悠子を月の宮へ連れて行く話のついでに、話していた。
「翠明の第一皇女の椿を、箔炎にと考えておってな。」悠子が驚くのに、箔翔は続けた。「椿は綾殿が教育しておるようで、それなりの皇女としての振る舞いにも長けておるようよ。立ち合いもするが弁えておって、龍王妃のようにきちんと場によって振る舞いを変えられるようだ。綾殿の様を見ておっても、これの助けになるだろうと考えたのだが、主はどう思う。」
同席させられていた箔炎は、驚いたような顔をしたが、父は母に聞いている。
なので、黙って悠子の答えを待った。
悠子は、最初驚いた顔をしたが、微笑んで頷いた。
「綾様がお育てになったのですから、間違いはないと思いまするし、それは良いご縁だと思いまするわ。翠明様の宮ならこちらから近い事ですし、いろいろ政の方でも良い事でしょう。ですが、まだお早いのでは?」
箔翔は、息をついた。
「それは向こうも同い年であるし同じであるから、成人して誰か娶ろうとなればということになるが、決まっておればお互い準備もできよう。それで、であるが」と箔炎を見た。「主も顔ぐらい見ておきたいと思うてな。翠明から、月見の宴に椿も連れて参ると申して来たので、ならば主も参ればどうかと思うたのだ。此度は共に参れ。」
箔炎は、まだそんなことは考えた事もなかったのだが、父が言うのに逆らうことはできない。
母も前向きであるし、断る事など出来そうになかった。
なので、仕方なく頷いて頭を下げた。
「は。ご同行致します。」
悠子は、嬉しそうに微笑んで言った。
「良かったこと。では、いつもの綾様への文とは別に、此度は椿殿にも文を付けてお送りします。お会いするのが楽しみですこと。」
箔翔は、さては椿の手を見ておこうと思っているな、と思ったが、綾の手を見ても皇女もそれなりのはずだ。
同じように微笑んで、返した。
「そうせよ。あちらも緊張しておるであろうし、主からそのように文が来ていたらいくらか落ち着いてその日を迎える事が出来ようしな。」
そうして、早速悠子の文は南西の宮へと送られたのだった。
次の日、箔翔が政務も一息ついていると、悠子が珍しく早足で居間へと入って来て頭を下げた。何事かと箔翔は驚いて悠子を見た。
「…なんぞ、何かあったか。」
悠子は、挨拶もそこそこに慌てた様子で懐から紙を引き出した。
「王、お返事が。綾様から参ったのですわ。」
箔翔は、それは昨日送ったのだから普通なら今日返って来るだろうと怪訝な顔をした。
「いつも次の日の朝には戻って参るものな。主、昨日出しておったではないか。」
すると、悠子は首を振って折りたたまれた紙を箔翔に差し出した。
「こちらですの。ご覧になってくださいませ。」
箔翔は、それを受け取って、二枚あることに気付いた。そして、もしかして字がまずかったのかと思いながら、悠子を横へと座らせて、その文を開いた。
そこには、いつもならがに見事な綾の手での、悠子への返信が書かれてあった。この世にこんなものがというほどに美しい文字で、初めて見た時には悠子も返事を書くのが恥ずかしいとなかなか文を出せなかったほどだ。悠子も箔翔から見てそれは美しい字を書いたのだが、それも霞むほどの字であったので、気持ちは分かった。
とはいえ、龍王妃の手もそれは見事だった。龍王は滅多に筆を取らないことで有名なのだが、その龍王が手ずから教えたのだと言うその文字は、綾でさえ絶賛するほどなのだ。悠子は龍王妃との文のやり取りでも、すっかり自信を無くしてしまったようで、未だに毎日、一生懸命字の練習をしているのを知っていた。
箔翔は、頷いた。
「綾殿は相変わらず良い文字であることよ。して?」
悠子は、箔翔の怪訝な顔にせっついた。
「綾様の方ではありませぬの、椿殿ですわ。次のお文です。」
言われて、箔翔はもう一枚の文の方を手に取った。そして、それを開いた。
その文字は、とても箔炎とは同い年とは思えないほど、それはそれは美しいものだった。
綾とは違い、筆致はしっかりして気の強そうな様は更に伝わって来る感じではあったが、大きく大振りな文字で、大らかな様子もうかがえる。
綾に教わったのだろうから、綾の文字に似たところもあるのに、また違った、まるで神として完成されているような、そんな文字だった。
「…これは…かなり優れた皇女のようではないか。誠に箔炎で良いのかと思うてしまうほどぞ。こんな皇女であったら、年頃まで待っておったら他に娶られておったところぞ。先に翠明と話せてこちらは幸運であったの。」
悠子が、何度も頷いて言った。
「はい!誠にそう思いましてございます。大らかなお人柄はこの文字から伝わって参りまするし、我よりも遥かに年上のような、そんな悟った様さえ感じる文字でありますわ。誠、このようなかたがいらしてくださるのなら、我が宮の格も確かなものになりましょうし、我も椿殿について手習いし直したいほど。誠に、驚きましてございますわ。実を申しますと、どれぐらいの皇女であられるのか、試して差し上げようと思うたのです…ですけれど、我の方が恥ずかしい心地になってしまいました。やはり、試すなどという気持ちでお文を送ってはなりませぬわね。」
悠子は、渋い顔をしながら、箔翔にそう打ち明けた。箔翔は、苦笑しながら悠子の手を握った。
「知っておった。だが、我とて先に知って居った方が良いと思うたし、なのであの時は流したのだ。とはいえ、こうして優れた皇女なのだと分かって良かったではないか。翠明が押して来るゆえ、もしかしてと思うておったが、このような皇女ならば早う押えておかねば他の宮に後れを取るところであった。龍の宮などから話が来たらまずいし、こちらは月の宮で対面させた後、正式に婚約に持って参るようにしようぞ。というわけで、すまぬが箔炎には、主が知る限りの礼儀などがしっかりできておるのか、確認しておいてくれぬか。あちらに嫌われては成るものも成らぬしな。」
悠子は、何度も頷いた。
「はい。では、決して恥ずかしくないように、細かいところまでお話しておきますわ。箔炎ならば、大丈夫だとは思いますけれど。」
そんなわけで、鷹の宮では翠明よりも前向きに箔炎と椿の婚姻を運ぼうとし始め、もう結納やらの手配などをし始めて、宮は一気に忙しくなったのだった。




