白虎の宮にて
志心は、居間で白蘭の乳母である、佐保の話を聞いていた。
最近、白蘭がおとなしい。部屋へ引き籠って、何やら物思いに沈んで手習いも、裁縫も、皇女の嗜みとして躾させているのだが、そういったものにも見向きもしないのだという。
志心にしてみたら、面倒を起こされた方が大変なので、別に手習いをしていなくても咎めるつもりもなかった。だが、志心から教育を任されている乳母からしたら死活問題のようで、志心からせめて書の手習いだけでもするようにと、進言して欲しいというのだ。
乳母の佐保は、幼い頃からついて居る乳母ではないので、若く白蘭とはほんの数年の歳の差の女だった。しっかり者でありながら控えめであり、侍女の中でも美しく嗜みも深い品の良い女であったので、乳母としての任を与えたのだが、佐保からしたら白蘭の様には最初から苦労しているようだった。
何しろ、佐保自身が身持ちが堅く嗜み深い女であったので、男性経験の多い皇女、という相手にどうしたらいいのか、倫理観から教えねばならないなんてと、大変に苦労しているのは、志心も知っていたのだ。だが、志心自身がそんな白蘭を持て余していたので、佐保に丸投げして見て見ぬふりをしていたのも確かだった。
志心は、ため息をついた。
「…あれには困ったものよ。主には苦労しておるのが分かっておるが、我とてどうしたらいいのか分からぬのだ。もう良い歳であるし、主には乳母という任を解いて、侍女にしても良いと思うておるのだ。とりあえずは、表向き何とか取り繕えるようにまで育てたではないか。主には感謝しておるのだ。」
それを聞いて、佐保は驚いたように扇で顔を隠したが、顔を赤くして頭を下げた。
「そのような…もったいないことでございます。ですが、まだ…。白蘭様の御手は、まだ誰かにお文を遣わせるほどには上達しておりませぬ。せめて白虎の王族として恥ずかしくないように、御手だけはそれなりにと思うておりまする。我も、乳母の任を王から賜ったからには、せめてそれだけはと思うておりまして…。」
志心は、息をついて頷いた。確かに字だけは何としても上達してくれぬことには、どこかへ嫁にやることも出来ない。行った先で字を書く機会は絶対にある。王達は、その字にも教養や性質を見るので、字が乱れていたら、白虎の皇女としてこちらの名折れになる。
「ならば、主はこれからあれの手の指南役としようぞ。いつまでもあれの世話を何から何までしておっては、主まで縁遠くなろうし。しばらくは、もしあれが出掛けるとなればあれについて参って、書を書く必要がある時にはしっかり付き添ってそれなりの字が書けるように。それから、あれには我から字ぐらいはまともに書けるようになれと申す。して…主は、なぜにあれが突然に塞いでおるのか理由は分かっておるか?」
佐保は、言いにくそうに扇の向こうで視線を落とした。だが、息をつくと、顔を上げてから頭を下げた。
「…はい。恐れながら、王におきましては先日の龍の宮での催しのことはお聞き及びになられておりますでしょうか。」
志心は、頷いた。
「志夕が申すには、あれは義心に懸想しておったとか何とか。だが、あれのことであるから、此度もさっさと他の軍神などに気を移しておるのではないのか?」
佐保は、真剣な顔で首を振った。
「それが、此度は違うのでございます。ずっと、あれよりあれほどお好きであられたお庭の散策をなさることも無く、他の軍神に出会う機会もありませぬ。お部屋からお出にならぬので、他の侍従にも出会うこともありませぬし…ただ、義心様とおっしゃる軍神のかたを、想うておられるようでありまして。」
志心は、片眉を上げた。まだ義心を?
「…知らなんだ。あれのことであるから、相手にされなんだ時点でさっさとまた、他の男に気を移してしまっておるのだろうと思うておったのに。此度は違うと申すか。」
佐保は、神妙な顔をして頷いた。
「はい。どうやら、これまではただ、相手に思われるということを重要視なさっておいでであるだけで、白蘭様自身がお相手を慕わしく思うておられるということは無かったようではありまするが、此度は違うようで…。このような気持ちは初めてだとおっしゃって、どうしたら義心様に嫁ぐことが出来ようかと、そのようなことばかりをお考えであるようでございます。王に、お願いなさろうかとまでお考えであるようで。」
志心は、顎に手を当てて考え込んだ。あの白蘭が…しかし、義心はあまりに無謀だ。あれは、維月をずっと想うていて、前世の維月が世を去った後、維心が最後に話していたとして皇女の緋月が降嫁したが、うまく行かずに緋月は死んだのだと聞いている。その後もずっと独身でいて、とてもじゃないが、こちらから打診しても首を縦には振らぬだろう。確かに軍神であるから、王の維心が命じたら、字がどうだろうと、過去がどうだろうと娶るだろうが、維心がそれを命じるとは思えない。
だが、志心が正式に打診したなら、維心も簡単には断れないこともまた事実だった。皇子の維明であればどうあっても断るだろうが、軍神の一人に皇女を降嫁させると言っているのに、無下には出来ないからだ。
「…どうしたものか。軍神とはいえ、あの龍の宮の筆頭軍神で、我とてあれと立ち合って勝てるかと言われたら難しいやもしれぬほどの手練れの男ぞ。しかも、あの維心が右腕として重用している優秀な軍神。こちらから打診して、簡単には首を縦には振るまい。それに、軍神が娶るとなると、維心の結界内に入る事になるし、維心はそれを許したくはないであろうしな。あれのことであるから、白蘭が厄介であると気取っておるであろうぞ。」
佐保は、困ったように志心を見上げて言った。
「では…どうしたものでしょうか。このまま、白蘭様がお諦めになるのを待つということに?」
志心は、顔をしかめた。
「面倒なことをせねば良いがの。とりあえず、主は手がこのままでは義心に文も出せないと申して、手習いをさせるように持って参れ。我も、少しあちらを偵察してみる。ここのところ我も引き籠っておって、会合の後の宴席にも出ずでおったが、此度の会合では出て参って維心と話して参る。我が、皇女として申し分ない様子にならねば嫁がせることも出来ぬと申しておったと言うて、あれを学ぶ方へと向かわせるのだ。しばらくは、それで何とかなろう。その間に、我が根回しを。ま、恐らく義心は無理であろうが、似たような誰かを宛がうことも出来ようし。それまでに、あれが皇女らしゅうなってこちらの恥にならねば良いのだから。」
佐保は、しっかりとひとつ、頷いて頭を下げた。
「はい、王よ。では、御前失礼致しまする。」
志心は、頷いて頭を下げる佐保に言った。
「頼んだぞ。」
そうして、佐保は志心の居間を出て行った。
志心は、脇の布の方へと言った。
「…聞いておったか?」
脇の布が揺れて、夕凪が甲冑姿で膝をついた。
「は。では、龍の宮の様子を調べて参るということに。」
志心は、うんざりしたように手を胸の前で振った。
「催しの時ならいざ知らず、義心が居るのにあちらに気取られずに調べるなど無理であろう。催しの時ですら、恐らくは気取られておろうぞ。我も微かにであるが、義心の気配を気取ったのだ。恐らくは主が来ておるのを見て、こちらが手薄だと思うて来たのだろうと思うた。探そうしたが、一瞬で消えたゆえ…あれは誠に気配を残さぬわ。」
夕凪は、隠密に動いていたつもりだったので、それには口惜しい気持ちになった。龍軍の義心には、どうあっても敵わない。それは、分かっていた事だったが、それでも悔しかった。
悔しそうに下を向いた夕凪に、志心は苦笑して言った。
「義心に敵わぬのはどこの軍神も同じ。我とてあれに本気で向かわれたら面倒なぐらいよ。主はまだ若いのだから精進すれば良いのだ。それより…」と、考え込む顔をした。「その義心を想うとはの。まあ、我とてさっさとあれがどこかへ縁付いてくれたら万々歳であるが、敷居の高いことよ。次の会合には、白蘭も連れて参る事にする。志夕と共にの。なに、その折は佐保も侍女達も一緒に連れて参るゆえ、面倒は起こらぬだろう。いろいろとそこから話題も広がろうし、維心の考えも自然に聞けようもの。そう思うて、主、準備してくれぬか。」
夕凪は、少し困惑したような顔をして志心を見上げた。
「連れて参られるのですか?…次の会合は、西で行われるとか。翠明様の宮で初めての会合とのことで、あちらも慣れぬ事に取り込んでおられるでしょうに…そこへお連れして大丈夫でしょうか。」
志心は、頷いた。
「分かっておる。だからこそ、主に今、申したのだ。問題ないように場を整えよ。あれが問題を起こす間を与えぬように、うまく翠明の宮へ到着してから控えの間までの道筋の事や、控えの間の警備の事など采配せよと申しておるのだ。分かったの。」
夕凪は、ハッとして頭を下げた。それを察して手配するのが、筆頭軍神である自分の仕事なのに。
「は。すぐに手配を。」
そうして、夕凪はそこを早足で出て行った。
志心は、過去のあやまちとはいえそれに振り回されることにほとほと疲れていたが、それでもそんなことを言っても仕方がないので、何とかしなければと前向きに、維心をどうやって説き伏せたものかと考えたのだった。




