帰還
志夕は、白蘭と共に白虎の宮へと帰還した。
軍神達数人に伴われての帰還だったが、白蘭は輿の中でもただ、じっと黙って口を開くことは無かった。
今朝、着替えが終わったと聞いた時には、普通に機嫌よくしていたのだ。それが、龍の宮の侍女に両脇を挟まれた状態で出発口に立っているのを見た時には、もうこんな風に、考え込むような顔をして、暗く落ち込んでいるようだった。
それでも、帰ったのだから父王に挨拶に向かわねばならない。
二人は、そのまま出迎えた筆頭軍神の夕凪に連れられて、父王が待つ場へと歩いて行くと、父の居間ではなく、謁見の間だった。
二人が入って行くと、正面の数段高い玉座の上には、父の志心が座って二人を待っていた。
志夕と白蘭がその前へと進み出て頭を下げると、志心は言った。
「よう戻った。龍の宮はどうであったか?志夕。」
志夕は、顔を上げた。父王が、白蘭が何某か起こしているのではと知っているのではとは思ったが、とりあえずは自分のことだと答えた。
「はい。あのように大きな訓練場で、しかもあのように手練ればかりに囲まれるのは初めてでありましたので、不甲斐なくも体が硬くなってしまい申しました。次はあのようなことが無いように、もっと精進したいと思うておりまする。」
志心は、頷いた。
「良い経験ぞ。上には上が居る事実を知らねば、井の中の蛙になろうしな。龍は強かろう?戦国にはあれと戦っておったのであるぞ?主もそれぐらいの気概を持たねばならぬゆえな。白虎を守って参らねばならぬのだ。これよりはその考えのもとに精進するが良い。」
志夕は、下を向いた。あの龍達を…。
「…はい。父上は、龍王とも対峙されたと聞く手練れであられるし、我も精進致しまする。」
志心は、苦笑した。
「手こずらせることは出来たが、我でもまだ龍王には勝ったことがないの。あれは化け物ぞ。まずは手近な軍神などを目指して精進すると良い。そうであるな…あの宮には優秀な軍神が居ったであろう。主は誰の立ち合いが良いと思うた?」
志夕は、素直に頷いて答えた。
「我は、義心が。手練れの皇子達が揃っておったのに、たった一人でそう動きもせずにどんどんとなぎ倒して参りました。あのような動きが出来たらと思いましてございます。」
隣りの、白蘭がピクリと動いた。志夕は、白蘭にしては珍しく、一人の男の事を引きずっているのか、とその動きで思った。なぜなら、今まで相手にされないような事があったら、さっさと忘れて他へと気を移してしまうので、相手の名前すら忘れていることが多かったのだ。それが、今は義心の名が出たことを反応した。
父王は、そんなことには気づいていないのか、クックと笑った。
「義心とは、また敷居の高いことよ。あれは維心の右腕。どの王も、義心を臣下に持つことをうらやんでおるほど。だが、龍に勝とうと思うたら、あれを越えて行かねばなるまいな。せいぜい精進するが良い。それなりになれば、我もまた立ち合いを見てやろうほどに。」
志夕は、父がまた以前のように自分の相手をしてくれるのかと、一気に明るい気持ちになり、顔を上げた。
「誠ですか?ありがとうございます、父上!」
志心は、そんな志夕の様子に微笑んで頷くと、隣りで頭を下げている、白蘭を見た。
「して、主はどうか、白蘭よ。侍女や乳母が居らぬとも、しっかりと嗜み深く行動できたのであろうな?申しておったよの…礼儀に厳しい宮であるから、おかしなことをしたら途端に恥をかくことになると。次に維心に会った時、我はあれに文句を言われはしまいな?」
白蘭は、ビクッと肩を震わせたが、深々と頭を下げたまま、答えた。
「そのような…お言いつけは守りましてございます。貸し出しの侍女がしばらく足りなかったので、その間は炎月様にお傍に居て頂きましたが、それ以降は侍女が傍に。問題はありませぬ。」
志夕は、それをじっと聞いていた。ここで口出しするのもまた、面倒なことになりそうだ。義心に相手にされず、問題は起きなかったのだし、ここは黙っておくのが一番いいと思った。
しかし父王は、怪訝な顔をした。
「…ならば良いが。そういう噂は、後々回り回って耳に入るもの。主らもおかしなことにならぬよう、何かあったなら先に我に申しておくのだぞ。我とて恥をかきとうないからな。」
白蘭は、ただ扇で顔を隠して頭を下げた。そうやってしおらしくしていれば、女は話さずに済むのだから羨ましい限りだと志夕が思っていると、志心は玉座から立ち上がった。
「では、白蘭は部屋へ帰るが良い。志夕には立ち合いのことなど詳しく聞きたい。我の代わりに参ったようなものであるし、今誰がどのような立ち合いをするのか興味があるのだ。主は居間へ参れ。」
脇に控えていた侍女達や乳母が、急いで頭を下げている白蘭に寄ってきて取り囲み、そうして部屋へと連れて行く。
志夕は、父王について、謁見の間を出て王の居間へと向かった。
長く、居間へ呼ばれる事などなかった。
志夕が緊張しながら父が座るのを待って、その前の椅子へと腰かけると、志心は言った。
「…この度はご苦労であったな。宮が変わると勝手が違うゆえ戸惑ったであろう?」
寛いだ様子に、志夕はホッとして頷いた。
「はい。他の皇子達、特に箔炎や炎耀にいろいろと教えてもらい、外での振る舞いを少し、学んで参りました。特に妹のことなど…考えたこともありませなんだゆえ。」
志心は、フッと笑うと、言った。
「主にはその辺りを学ばせておかねばと思うたのよ。まず、最上位の宮の皇女となると、狙う輩が多いので父も兄も警戒して案じるもの。ましてあのように男ばかりの催しとなると、普通は侍女を大挙して連れて行かせて姿も見せぬ勢いのはずなのだ。だが、主はあれの素行を幼い頃から見ておるから、そのような事は一切ないであろう?ゆえ、身をもって知るためにああして行かせたのだ。白蘭も、侍女や乳母が居ればおとなしいが、己で恥ずかしいと思うて改めねば内は変わらぬと思い、わざと恥をかかせようと行かせた。あれはどこぞの皇子に蔑まれてはおらなんだか?あからさまにすり寄ったのではないのか。」
志夕は、目を丸くした。父は、やはり分かっていて白蘭を一人で龍の宮へやったのだ。しかし…。
「…どうでありましょうか。炎月が側におったのもあって、他の皇子と接する機会はあまりありませなんだ。その炎月には、あまり興味もないようで…確かに炎月は美しい容姿でありましたが、まだ幼い雰囲気。他にいくらでも成熟した、しかも強い神が多く居りましたので。目移りしたのか…面倒を起こす事もなく。」
志心は、意外だったのか片眉を上げた。
「ほう?維明など大変に維心に似て美しく、立ち合いも優れておろうに。あれにすり寄る様子はなかったのか?」
志夕は、それには笑って答えた。
「維明殿など…あまりにご立派過ぎて、敷居が高いと我でも思うた次第。すり寄る隙などありませぬ。白蘭はあれで、己にいくらか興味を持ってもらえそうな男を選ぶのです。」
志心も合わせて笑った。
「そうか、主はあれをよう知っておるものな。して、誰にすり寄ろうとしておったのだ?」
志夕は、珍しく気軽な様子で笑いながら話す父につられて、つい、言った。
「義心に興味を持ったようでありました。宴の席で同じ後ろの席に居ったので、話し掛けておりましたが、軽くあしらわれており申した。」
志心は、目を細めた。
「ほう、義心に?宴の席で、己からか?」
志夕は、ハッとした。しまった…黙っていようと思っていたのに。
なので、慌てて言った。
「はい、あの、しかしながら、誰もそれを咎めたりはせぬで。上位の宮の皇子以外には、気取られておりませぬ。」
志心は、口元に笑みを浮かべたまま、頷いた。
「主が悪いのではない。が、しかし、恥ずかしいことよ。公の場でそのような。とはいえ、それきりであろうな。我は維心に苦情など受けぬでおれるだろうの?」
志夕は、何度も頷いた。
「はい。それ以上は…」しかし、言っておかねば後から知れたら父は怒るかもしれない。志夕は続けた。「実は、今朝帰る前に一度、白蘭が居らぬようになって。炎耀と箔炎に言うて共に探しておりましたら、義心が来て、白蘭が迷っていたので侍女に出発口へ送らせたと。言われた通り、白蘭は侍女に挟まれて出発口で待っており、問題はありませなんだ。」
志心は、口元の笑みをスッと消した。しかし、次の瞬間にはまた微笑んで、頷いた。
「…そうか。ならば良い。まあ、あれなら軍神であるしもしやと思うたのやもしれぬの。だが、龍は誰も皆謹厳で簡単にはなびかぬ。あれもそれを学んだであろうて。」と、手を振った。「主も疲れたであろう。本日はもう良い。部屋へ帰るが良い。」
志夕は、驚いた。まだ、立ち合いのことを話していないのに。
「ですが、立ち合いの様子は…?父上はお聞きになりたかったのでは?」
志心は、首を振った。
「また訓練場ででも聞くゆえ良い。疲れておっては明日からの鍛錬にも差し支えようぞ。戻って良い。」
今朝目覚めて帰って来たばかりで、あまり疲れてなどなかったが、それでも父にそう言われては長居も出来ない。
なので、志夕は立ち上がると、志心に頭を下げて、そうして、名残惜し気にそこを出て行った。
それを見送る志心の顔は、何かを考えるようにじっと険しくなっていたのだった。




