喪失
炎月は、目を覚ました。
天井が高い…この建物の石の色は、龍の宮だ。
「…気分はどうよ?」
目の前に、青い髪に青い瞳の、見覚えのある神の顔が出て来た。
「…お祖父様…?」
碧黎は、微笑んで頷いた。
「おお、頭はハッキリして来たようだな。主の中の陰の月は、十六夜によって消された。だが、鳥の命がしっかりしておるゆえ、命に別状は無いようよ。衝撃で傷ついた心の修復もしたゆえ、段々に全てが元通りになろうぞ。」
炎月は、頷いて体を起こした。そういえば、あまりの痛みに気が狂いそうになり、体が勝手に動いて大変なことになっていたような気がする…。
「…我は、あまりの痛みに我を忘れてしもうて。もしかして、周りにかなりの迷惑を掛けてしもうたのではないでしょうか。」
碧黎は、苦笑した。
「まあ、維心の居間が惨状になっておったようだが、龍が直しておるから問題ない。それにの、あの痛みにしても、主の父が半分、肩代わりしてくれておったから、あの程度で済んだのだぞ?しっかり礼を申さねばな。」
見ると、脇の寝台には炎嘉が横になっていた。まだ目を閉じている…もしかして、かなりの負担がかかったんじゃないだろうか。
「父上!」
炎月は、思わず寝台を飛び出した。とはいえ、まだ回復したばかりだったので、途端に膝から崩れ落ちる。
それを、碧黎が慌てて支えた。
「こら、まだ急に動いてはならぬというに。」と、炎嘉の方を見た。「炎嘉は案じずとも、今は眠っておるだけぞ。あの痛みが結構な時間続いたゆえ、さすがの炎嘉も気を失うことも叶わずで、かなり心に損傷を受けておった。我が修復したゆえ、もう目を開くだろう。それよりも主は、命を削られたのであるから。まだ無理してはならぬぞ。しばらくは鳥単独でしっかりとバランスを取って、それに慣れて参ったら普通に過ごして良いから。なに、少なからず陰の月が担っておった場所があると思うのだが、そこを鳥が補う時間を与えるということぞ。主はまだ若い命であるから、すぐに馴染んで参ろう。これで、思い通りに生きても誰も文句は言わぬからの。」
炎月は、碧黎に支えられながら、言った。
「お祖父様…父上の横へ、座らせてくださいませ。こんな我のために、このような目に合わせてしまって…我は、誠に浅い考えであったのだと、恥ずかしく思います。」
碧黎は、そんな炎月の頭を、ぽんと撫でた。
「分かったのなら良いのだ。主は炎耀とは違い、温室育ちぞ。危険に晒されたというてこの間の定佳の宮の一件ぐらい、生活の上で不自由もしたことは無いし、女の事となると赤子のようよ。もっと気を付けておくがよい。知らぬ事では、他の助言も耳に入れての。我から白蘭の事については詳しくは言わぬが…父や炎耀の判断の方が正しいとだけ言うておこうの。今少し、よう観察してから決めるが良いわ。」
炎月は、言われて下を向いた。きっと、何かいろいろ分かった裏があったのだろう。確かにあんな短い間一緒に居ただけで、娶ろうなどと何を考えていたのか…頭に血が上っていたとしか考えられない。
そんな自分が、今はただただ恥ずかしかった。
そこへ、十六夜が入って来た。
「親父、維明と維斗の様子を見て来たぞ。」と、炎月が炎嘉の横に座って居るのを見て、パッと嬉しそうな顔をした。「炎月。もう起きられるのか。」
炎月は、反射的に身を硬くした。十六夜が近寄って来ると、何やら身の危険を感じる…。
そんな様子に、十六夜は気付いて、足を止めた。
「…そうだな、他はどうあれ、お前の一部はオレに殺されたんだ。そりゃ怖いわな。すまねぇ。」
炎月は、下を向いた。十六夜が嫌いなのではないのに、どうしても体が動かないのだ。口を開こうとしても、声が出なかった。
碧黎が、言った。
「まだ回復したばかりであるから、恐怖心の方が先に立っておろうの。しばらくすれば、収まる。で、皇子達はどうであったのだ。」
十六夜は、その位置から近付かずに碧黎に答えた。
「ああ、胃が痛いらしいがどうだって聞いたら、薬湯を飲んだら治ったとか言ってた。今はなんともないってさ。恐らく、薬湯で治ったんじゃなくて事が済んだから痛みが消えただけだろうって思ったよ。とりあえず、みんな元気だ。」
碧黎は、頷いた。
「良かった。では、炎嘉ももう目覚めようし、我は戻る。主はどうする?」
十六夜は、炎月の方を見ないようにしながら、頷いた。
「オレも帰る。念のため蒼にも将維にも具合を聞いときたいしな。」
「では参ろう。」と、炎月を振り返った。「ではな炎月。何か問題があったら我を呼ぶが良い。」
そうして、碧黎と十六夜は、その場からスーッと消えて行った。
炎月はそれを見送ってから、自分の中の何かが欠けたような喪失感を感じ、しばらくぼーっと虚空を見つめて、炎嘉が目覚めるのをただ、待っていた。
維月が、維心の待つ居間へと戻ると、維心はほっとしたように維月に手を差し出した。
「維月。早かったの、碧黎は気が付いたか。」
維月は、その手を取るために急いで維心の座る正面の椅子へと向かいながら、答えた。
「はい、維心様。お父様には、もうすっかりご快復されたご様子…。今は、十六夜と共に炎月と、炎嘉様の様子を見るために、客間へ参っておりまする。」
維心は、維月の手を握ると、自分の横へと座らせて、肩を抱いた。
「とにかくは無事に済んで良かったことよ。命に別状は無いと碧黎が何度も申しておったが、案じておった。苦痛が精神を蝕んで、炎嘉と炎月は気を失ってしもうておるが、碧黎が参ったなら案じる事もあるまいな。」
維月は、頷いて維心を見上げた。
「維心様…」と、頭を下げた。「この度は、陰の月の人格の浅はかさからこのような事態を招いてしまい申して、誠に申し訳ございませんでした。父も、意味があって維心様に縁付いておるのだと、此度のことで申しておりました。偶然など無いのだと…私にとって最良の場所へ嫁いだのだと。だからこそ、今まで問題が無かったのだろうとのことですわ。」
維心は、それを聞いて苦笑した。
「龍であったことをこれほどに感謝する時が来ようとはな。我が鳥や他の種族であったら、このように転生してまで主を娶ることも叶わなんだであろう。それにしても…これからは、もうこのようなことはあるまいの。主を望む神は多い。主らはとかく同情して簡単に癒そうとするゆえ、案じておる。」
維月は、ハアとため息をついた。これまでの自分と十六夜の、考えが甘かったし間違っていたと思っているからだ。
「維心様…実は、十六夜と決めておることがあるのです。」
維心は、思っても無かったようで、維月を少し、戸惑った目で見た。いつも、十六夜と決めたと言うと維心の考えと合わないことが多かったからだ。何しろ、育った環境も持っている命の種類も違う。考え方の違いは、一度二人を離縁させたほど結構深刻なものだった。
維月は、そんな維心に気付いているのか居ないのか、続けた。
「実は…いろいろと今生では、経験しておりまする。最近、私自身の心境も変わって参りまして…嘉韻とも将維とも、あちらの年齢が上がっておるのもあるのですが、体の交流は無いのですわ。心の交流を持つことで、お互いに穏やかに過ごしておると申しますか。ですので、陰の月という性質が無い私は、そういった事を他でしたくはなく、維心様だけを受け入れて、たまに十六夜とといった感じで過ごしたい、と十六夜に申しましたの。十六夜も、誰も彼もを受け入れることが思いやりだとは思わなくなったと言っておって、私に同意してくれました。なので、炎嘉様とのことも、炎月のことをきっかけに、仮に維心様がお命じになっても、もうお断りしようと思うておりました。もう二度と、炎嘉様とは…。維心様にされたらご友人とのお約束でありましょうけれど、どうにか炎月を産んだことで破棄して頂いて、次にあちらが要求された時には、参らずでおこうと決めておりますの…。無理に来いとの事なら、月へ帰ろうとまで話しておりました。こういうお話をあまりしては、維心様もお気になさるかと思いまして、今まで申さずでおりました。」
維心は、思ってもいなかったことに、驚いた顔をした。何しろ、維心にしたら願ってもない事だったからだ。
「そのような…先に申しておいてくれたらよかったのに。我だって、主をあちこちへやりとうないと思うておった。だが、約した事であったし、断る口実も無かった…炎嘉は我の、唯一の長きに渡る友であったしな。しかし、炎月も生まれた。我は相当の努力をして約したことを成した。ならば、それでもう、断っても良いかと思うておる。そう言おうと思うておったが、主や十六夜は考えが違うと思うておったし、約したのにとか申して責められるのもなんだしと言えずでおって…。」
維月は、維心を見上げて手を握り締めた。
「私も、前世今生と、いろいろな殿方から求められて疲れましてございますわ。本来私は、維心様と十六夜が愛してくださっておったら、それで幸福であるのです。もう他の殿方には乱されずに穏やかに過ごしたいですわ。」
維心は、頷いて維月の手を握り返した。
「ならば、これよりは断ろうぞ。我が断固として断るゆえ、主は安心しておればよい。だが…一点だけ、聞いて良いか?」
維月は、首を傾げた。
「はい。なんでございましょうか。」
維心は、不思議そうに自分を見上げる維月に、少しためらった。言って、維月が気を悪くするのではないか。
しかし、今聞いておかねばまた心の中に残ったまま、懸念として積み重なる事になってしまう。なんでも話し合うと、一度離縁した後決めたのだ。
なので、思い切って言った。
「今、主は我と、たまに十六夜とだけ、肌を合わせると申した。だがの、陰の月としての主は、碧黎も…その、どうしてそういう仲になっておらぬのか不思議だと、申しておったのだ。主は覚えておるか分からぬが。」
維月は、それを覚えていた。心の奥底で、確かにそう思っていた。陰の月の性質が、それをあっさり皆に明かしてしまったのだ。
ただ、維月にとって碧黎は、父として見なければならない存在だと思っていたし、夫はあくまでも維心、夫のような兄と言った位置が十六夜だと思っていた。
陰の月とは違って、社会倫理というものを尊重して生きているので、それでもいいからと簡単にそんな仲になったりはしなかった。
なので、正直に答えた。
「…この私は、社会倫理を守っておりまする。心の底にそれでも良いという気持ちがあったとしても、それを行動に移すことはありませぬ。まして、お父様も大変に律儀で、約したことは違えないかた。そのようなことになることはありませぬ。私の夫は、あくまでも維心様であり、十六夜であるのですわ。十六夜だって、最近では夫というより兄といった感じで接して参りますし、私もそのように。ですので、父のことに関しては、ご案じなさいますな。もし、本当にそうしようと決めた事がありましたなら、必ず維心様にご相談致しますから。ですが…これまで何も無かったものを。これからもありませぬわ。」
維心は、維月が本気でそう言っているのは分かったが、しかし心の底で碧黎を想っている事実は消せないのだ。
胸は騒いだが、しかし維月は自分が一番に大切な夫だという姿勢で居る。何より、十六夜自身も最近ではあまり夫のような接し方をしていないのは知っていた。前世は恋人といった感じでいつでもべったりと維心としては妬ましい限りだったのだが、今生、双子で共に育った記憶も手伝って、お互いにかなり近しい、近過ぎる間柄になってしまい、兄と妹という感じが抜けないのだ。ただ、お互いを一番の理解者と思い、信頼しているのは変わりなく、その間には割り込めそうにないのは分かっていた。
それでも、維心は夫として維月に深く愛されているのなら、それで良かった。
「ならば…主を信じよう。」維心は、維月の手を両手で握った。「これまでも共に来た。我だって主を我だけの妃としたいとずっと思うて来たのだ。主と十六夜が他を相手にせぬと申すなら、我が主を他の男から遠ざけようぞ。良いな?」
維月は、真剣な表情の維心に、頷いた。
「はい、維心様。」
維心は、やっと維月をまともな正妃として自分の思うように守ることが出来る、と、前世今生と合わせて数百年掛かった事に、感無量だった。




