変化
その日の夕方には、客は全て龍の宮から居なくなり、後は炎嘉と炎月、炎耀だけだった。
炎耀には、炎嘉と炎月が不具合を改善しようとして体調を崩したと説明し、炎月の中の陰の月を殺した事実は伏せた。
炎嘉は、まだ意識が戻らない。とはいえ、治癒の者たちが言うには、命に別状はないようで、精神にかなり深い位置での衝撃を与えることになったため、回復に時間が掛かっているようだとのことだった。
言われてみれば炎月の顔色の方は、運び込まれた時より幾分良くなって来ている。
維心は、これ以上自分が居ても何も変わらないと判断し、訪ねた炎嘉の客間から出て、一度自分の居間へと戻った。
居間へと戻ると、義心が膝をついて頭を下げて、その扉の前で待っていた。維心は、扉を気で開いて、その前を通り過ぎながら言った。
「何ぞ。報告か。」
義心は、頭を下げた。
「は。此度の立ち合いに招いた神達は皆、宮を飛び立ちました。それから、白虎の様子を、急ぎ探って参りましたのでご報告しなければと。」
維心は、チラと義心を見た。相変わらず、手回しの良い奴よ。
「聞こう。」と、そのまま歩いて正面の椅子へと座った。「何か分かったか。」
義心は、そのまま歩いて来て維心の前にまた膝をつき、そして答えた。
「あちらの筆頭の夕凪が、こちらを嗅ぎまわっておるのを見つけましてございます。ということは、あちらには筆頭が居らぬということだと思い、帝羽に夕凪の動向監視を任せて急ぎ白虎の宮へ飛んで、出入りの業者から王族の侍女に取り次いでもらい、香木を扱う商人のふりをして話を聞いて参りました。」
維心は、頷いた。
「主が他の宮を調べに参るのにわざわざ我の許可は要らぬと申してあるゆえ、それは構わぬ。して、どうであったのだ。」
義心は、顔を上げた。
「は。あちらでは、やはり月と鳥の事情を掴んだ様子。此度の件も、白蘭様の性質を知っておってのことらしゅうございまするな。志心様としても、困っておいでのようで、どこかに縁付いてくれたら、ぐらいの気持ちで、侍女も付けずにこちらへ寄越したようでございます。」
維心は、肘をついて手の上に顎を乗せると、不貞腐れたように言った。
「わざわざ我が宮へやりおって。とはいえ、その程度か。しかし志心はこちらを恨んでおるのではないのか。」
義心は、考え込むような顔をした。
「いや、それが…。侍女だけでは分からぬので、侍従や出入りの業者にも聞いてみたのですが、志心様は特に誰かを恨んでいらっしゃる様子はないようで。退屈であるから暇つぶしなのか、それとも癪なのでちょっと困らせてやろうかとか、その程度の感覚であられるような。どうあっても月や鳥を相手どって事を起こそうなどという、そのような意思は感じませんでした。炎月様の事も、白蘭様に懸想でもしたらおもしろい、ぐらいの、軽い感じを受けました。」
維心は、ふうむと考え込んだ。義心の勘は大概当たる。いろいろな状況を見て調べて来た義心なので、そういった空気感というか、状況判断が的確なのだ。
「…ならば、そう危機感を持っておらずでも良いということか。だがしかし、こちらを調べておるのは確かであるな。」
義心は、頷いた。
「は。軍神や皇子達が帰って行く波に紛れてウロウロとしておったので、気取りましてございます。ですがそのように殺伐とした気を発してもおらず、あれは敵対しての探りではないなと直感的に感じました。こちらの様子をただ、報告したいと探っておるようで。」
維心は、義心を見た。
「まあ、催しの時にはそんな輩が多いゆえの。志心に限った事ではないわ。それにしても…志心は、維月を恨んでおらぬか。不能にされたのだぞ?…別にそれほどにこだわりもないということであろうか。」
義心は、それには下を向いた。
「どうでございましょうか。…その辺りはかなり近しい者でなければ知ることは出来ぬかと。」
維心はため息をついて、手を振った。
「分かった。では主は通常業務へ戻るが良い。引き続き白虎には特に注意して見ておれ。」
義心は、頭を深く下げた。
「は!」
そうして、そこを出て行った。
志心は、愚かではない。
維心は、じっと目を細めて遠くを見て、考え込んだ。そう、愚かではないのだ。つまりは世を乱してまた戦国に戻そうなどとは考えぬはず。しかし、一度炎嘉が自分たちが決めたことに同意してついて来るのが当然のような態度で居たら、志心はそれに腹を立てて自分たちは対等だと暗に釘を刺したと聞く。
つまりは、表面上は同意して足並みをそろえてくれているが、自分の意に沿わないことはしないとこちらに意識表示したということだ。
龍が神世を押さえつけて動かしているこの世が、志心も望んだ形で動いているのなら良いが、違ったなら気に食わないのだから何某か嫌がらせぐらいはして来るかもしれない。
維心は、ため息をついた。嫌がらせとはいえ、そんなものが付け入る隙を作らなければいいだけなのだ。もう、炎月の中には陰の月は無い。あちらがどう足掻いても、こちらには痛くも痒くもない。
そう思いたいが、しかし本当にこれで問題が無いのか、維心も不安に思う気持ちがあった。なので何度も深くため息をついては、早く平穏な日常が戻って来ることを願ったのだった。
十六夜と維月が、龍の宮の中にある十六夜の部屋で、碧黎を見つめてその回復を待っていると、碧黎は、何の前触れもなく突然、パチッと目を開いた。
驚いた維月が慌てて顔を覗き込んだ。
「お父様!お加減は…お体は大丈夫ですか?!」
碧黎は、維月の声にそちらを見て、今気付いたように微笑んだ。
「おお維月。いや、体は何もない。本体は安定しておるし、このエネルギー体も健やかぞ。」と、十六夜を見た。「十六夜。主はもう…。本来一瞬で済むものを、炎月の必死に抗う姿に惑うたな。玉になる前に一気に消しておれば、ここまでダメージは受けぬでおれたものを。堪らず口を出したわ。あのままでは我らの精神がもたぬと思うたからよ。あれではいたぶるだけであるぞ?」
十六夜は、心から反省しているようで、うなだれて答えた。
「分かってるよ。親父に言われて気付いた。まだ幼い姿の炎月の陰の月が、必死に言うからよ…力が鈍っちまって。」
維月が、十六夜を庇った。
「分かるわ。子供を殺すような気がして私でもためらったと思うもの。でも、確かに…体をじわじわと弱火で焼かれて行くような、そんな感じだったわ。私は痛みは無かったけど、じわじわ殺される感覚はとても怖かった…。」
碧黎が、体を寝台から起こして、神妙な顔をして頷いた。
「我もそのように。我はこれほど長きに渡り生きてきて、まだ死を身近に感じた事など無かった。一度己で消滅しようとしていた時は、ただ眠りにつくような穏やかな心地であったしな。あのように、殺されるという感覚を疑似体験して、弱き者達の心地が分かった気がしたものよ。生を望んでおるのに消される直前の絶望と恐怖と痛みは、忘れる事は出来ぬ。やはり…消さねばならぬなら、覚悟をもって一気に意識する間もなく送るのが、思いやりであるなと思うたわ。あれも、炎月であった。生じた命を簡単に消そうと思うたこと、今は後悔しておる。」
十六夜は、驚いたように碧黎を見た。
「親父は、あれが別物だったって言うのか?陰の月は陰の月だろ?」
碧黎は、苦笑して首を振った。
「我もそのように思うておった。しかしあれは、命を分けた別物であった。陰の月であるから月から力を使うのは当然のことで、同じ場所から力を使う命全般に影響を及ぼすのだ。特に本体である維月には顕著であっただけ。つまりは、他の陰の月も、恐らくは影響を少なからず受けておったはずよ。身の内に抱える大きさが違うので、しかも普段から眠らせて使わぬようにしておるからこそ大きな影響が無かっただけで、維月の子達は軒並み何か感じておったのではないか。」
つまりは前世の子達である将維、明維、晃維、亮維も、今生の子達である維明、維斗、瑠維、維織も、そして嘉韻との子である嘉翔も、皆、影響を受けていたと言うのだ。
ただ、維織は十六夜との子であって陽の月の力が強いのでこの限りではないが、他は皆、龍との間の子達で幼い頃からしっかり律し、己で封じていて大事には至らなかったということなのだ。
「…こりゃ一応みんなに聞いとかなきゃならねぇな。炎月を消した衝撃だって伝わってたかもだろう。あいつら大丈夫だったのか。」
維月は、困惑した顔をした。
「さっき廊下で維明とすれ違ったじゃない。なんだか疲れてるから、どうしたの?って聞いたら、少し気を張っていたせいか胃が痛むようで薬湯をもらったとか何とか…。もしかして、あれじゃない?」
碧黎は、頷いた。
「それよ。胃ではなくて精神的に衝撃を受けたのだが、知らぬのだからそう思うだろうの。つまりは、皆その程度だということだ。あやつらは陰の月の力など意識もしておらぬからな。そんなもの無くともやっていけるわけであるし。」
十六夜は、顔をしかめた。
「胃が痛いってさぁ。確かに人だって精神的に来ることあると胃に来るけどよ。」
維月は、ホッとしたような顔をした。
「でも良かったこと。急にみんなバタバタ倒れたら大変だったもの。龍と鳥ではそんなに違うのね…。」
碧黎は、真面目な顔で頷いた。
「龍は大変に優れた種族ぞ。特に維心の直系は神として最高に優れていて、己を厳しく抑えて管理することが出来る。主が維心と子を成しても、ゆえに問題ないし、これ以上にないほど良い所へ嫁いだのだ。あれ以外なら、もっと早うに問題が出ておったろうな。誠、起こることに偶然などないと思わせるものよ。」
維月は、袖で口元を押えた。維心と出会うのは必然だった。それは、お互いだけの考えではなく十六夜とも話して出した結論だった。
だが、まさかそれ以外の神ではこんな問題が起こるなんて。
碧黎は、掛け布団を避けて床へと足を下ろした。
「さて、我はもう回復した。炎月の様子を見て参らねばなるまい。炎嘉も気を失ったのではないのか。かなりキツい体験であったしな。」
十六夜は、頷いて立ち上がった。
「ああ。客間に居る。オレも一緒に行くよ。」と、維月を見た。「お前は維心の所へ帰った方がいい。後はオレ達に任せろ。もう、炎月はお前の子である証も消えた…だが、これ以上面倒が起こったら維心も大変だからな。」
維月は、炎月が気になったが、仕方なく頷いた。自分はこの、龍の宮の王の正妃なのだ。面倒が起こるようなことを、これ以上してはいけない…。
「よろしくね。私は、維心様の御許に帰るわ。」
頷く十六夜に同じように頷きかけて、維月は碧黎を見た。碧黎は、維月の頭を撫でた。
「我のことを気にしてここに居ったのだろう。案じる必要は無いのだ。当然の事をしたまでよ。炎月のことは、我に任せよ。」
維月は頭から自分の頬へと降りて来た手を握ると、その手にそっと頬を摺り寄せてから、放して、去って行った。
十六夜は、それを見送っている碧黎の愛情深げな顔に、不機嫌に言った。
「…あのさあ。親父って維月が大事なのは分かるんだけど…時々自分の命を身代わりにしても維月を守ろうとするだろ?オレや維心なら分かるんだよ、でも親父は今たった一人の地だ。陰の月のために死んじまったら地上の生き物はどうするんでぇ。」
碧黎は、横目で十六夜を見た。
「我が居らぬでも地は生きて、ただ皆をはぐくむのだ。ただ、成すがまま、生き物が選んだ通りの道を進むので、生き物が生息出来ぬような状態にしてしまうことも、平和な楽園にすることも、全ては生き物自身が決めて進むだけのこと。今までは我が、破滅の道へと進むのを留めておったに過ぎない。人も神も、随分に賢しくなったではないか。我が居らぬでも、恐らくは地を不毛なものにはせぬだろうて。」
十六夜は、怪訝な顔をした。
「だからって…放って置いたら異常気象やら何やらで、地上は生物が生きられる場所が少なくなるんじゃないのか?見守るのも地の役目なんだろう?」
碧黎は、フッと頬を緩めて、十六夜に向き直った。
「我が維月のために命を懸けるのは嫌か。」
十六夜は、急いで首を振った。
「そうじゃねぇ!ただ、親父の命ってのはそんな軽いもんじゃねぇのに、簡単にそんなことしたらヤバイんじゃねぇかって言ってるだけだ。」
碧黎は、同じように首を振った。
「そうではないな。主は維月が我をどんどんと深く愛していくのが怖いのだ。だが我は、維月のためなら命など惜しゅうないわ。維心の心持と同じ。これまで世を守って来てやったのに、一つぐらい己の好きにしても良いだろうが、とな。」
十六夜は、そう言われると何も言えなかった。維心と碧黎は似ている…本人たちが言うのだから、外から見ているよりずっと近い考え方なのだろう。
十六夜が黙った隙に、碧黎は足を扉の外へと向けた。
「参るぞ。炎月は命を削られたのだ。その後の手当ては、龍でも出来ようが、我がやった方が早かろう。」
そうして、碧黎は出て行った。
十六夜も、複雑な気持ちのままその背を追った。




