恋2
炎月は、そんなことになっているとは思いもせずに、ただ月を見上げていた。月には何の気配もない。つまりは十六夜も母の維月も地上に降りているということだ。
陰の月の力…。それを使えば、恐らくは白蘭は自分が想うように、こちらを想ってくれるだろう。だが、それは決してしてはならぬこと。あの謹厳な龍王すら惑わせた母のように、思いのままなのが分かっていて、その力を持っているのにそれが出来ないのは、炎月にはつらかった。生まれて初めて、女というものを意識した。父が母を想う気持ちは、恐らくこれなのだ。それなのに手に出来ない、父の気持ちは今、理解出来た。
どうしたら、白蘭の側に行き、話す事が出来るのだろう。
炎月は、悩んだ。まだ半人前の自分では、申し入れても白蘭は戸惑うばかりだろう。宴の席で義心を見ていた白蘭の目が忘れられない。あれほどの軍神なら、志心が白蘭を許してもおかしくはないのだ。もし白蘭が望みでもして志心が許したら、自分にはどうしようもないだろう。
父に頼んでみようか。
炎月は思ったが、しかしそれでは親の力を借りた頼りない神と思われるかもしれない。何より白蘭の方が何十年か年上だ。反対されるやもしれぬ…。
炎月がため息をついていると、炎耀が寝る支度を整えて居間へ入って来た。そして、炎月の様子を見て言った。
「主、先ほどからどうしたのだ。何やら心ここに在らずであるな。やはり、肩慣らしに出たかったのではないのか。なのに箔炎殿や志夕殿の手前、ああ言うよりなかったのでは。」
炎耀がそう思うのも無理も無いことだ。
炎月は思って、苦笑して首を振った。
「いいや。あの時は本心を申しておったのよ。我は…白蘭殿を一人にしておきとうなかった。それに…話せればと、思うたゆえ。」
炎耀は、驚いた顔をする。もしかしてそれは…。
「…主、白蘭殿が気になっておるのか?」
確かに美しい皇女だった。炎耀も、その美しさには癒されるような心地がした。
だが、あいにく炎耀は育った環境が環境だったので、簡単には女に惑う事はなかった。物心ついた時から回りは敵だらけで、気を抜けば命を取られるような場所に居た。女であっても危ない。その後ろに、男の影があることがあるからだ。
なので、幼い頃から警戒することを覚えている炎耀は、確かに美しいとは思ったが、それでも簡単に懸想するようなことは今のところなかった。
炎月は、少しためらっていたようだったが、炎耀に隠してもと思ったのか、頷いた。
「…まだ子供なのにと言われるかと思うが、それでも白蘭が気になって仕方がないのだ。どうしたら良い…白蘭の事ばかり考えてしまうのだ。」
炎耀は、炎月に歩み寄ってその肩に手を置いた。
「手順を踏まねばなるまい。主の地位なら志心殿に王から申し入れれば、正式に宮へ迎えることが出来ようぞ。数十年などそう歳の差でもないしの。とはいえ…炎月。これは我の経験上から申す忠告であるが、そんなにあっさりと妃を決めるべきではない。まだ出会ってから接したのは数時間ではないのか。それで相手の性質まで分かるとは思えぬ。政略の婚姻ならいざ知らず、己で選ぶのならもっとよう相手を見てからの方が良いぞ。」
炎月は、眉を寄せてムキになったように炎耀を見た。
「本日は侍女が居ったし志夕殿があれほど面倒を見ておったゆえ、接してはおらぬが昨日は主らが立ち合いの肩慣らしに出ておる間も、ずっと一緒に観戦して話しておったのだ。明るくてよう話す、気立ての良さそうな女神であった。主は我が間違っておると申すか。」
炎耀は、息をついて首を振った。
「白蘭殿が悪いと申しておるのではないのだ。もっとよう見てからの方が良いと申しておる。主は今、盲目になっておる。白蘭殿に懸想して良い所しか見えぬようになっておるはずだ。我も本日宴で様子を見ておったが、義心に話しかけておったよな?」
炎月は、炎耀も見ていたのか、と黙り込んだ。確かにあれで、自分は白蘭が義心に想いを寄せたりしていたらどうしようかと焦ってイライラとした。しかし、本来皇女は、軍神に、いや皇子にすら自分から話しかけたりはしないものだ。それなのに、白蘭は義心に話しかけていた…。
「…あれは、長く宮で育っておらぬから。黙っておるのが良うないと思うたのやもしれぬし。義心は大変に手練れであったし、あれも感心して見ておったのだ。なので、単に興味があったのやもしれぬ。」
炎耀は、息をついて首を振った。
「それでもぞ。炎月、奥ゆかしい性質の女であれば、あのような場でいくら興味があっても声をかけるなど出来ぬもの。相手から声を掛けられるのを、視線を送って待つぐらいはするかもしれぬが、声をかけるなど嗜みのないことなのだから普通ならせぬのだ。育ち云々ではないぞ。二十年は学ぶ時があったのだから、知っておったのに声を掛けずにはおけなかったということぞ。」
炎月は、それでも白蘭を庇った。
「義心は身分柄公の場で最高位の宮の皇女には声をかける事が出来ぬのを知っておったからではないのか。あれほどの軍神なのだから、話を聞きたいと思うのもおかしくはなかろうが。」
炎耀は、何を言っても白蘭を庇う炎月に、眉を寄せて睨むように見た。
「そら、主は何も見えぬようになっておるわ。」炎耀は、突き放すように言った。「あんな僅かな間の接触で、いったい何が分かったと申す。我は宴の席の様子だけで、あの皇女はまだよく見ておかねば面倒を掛けられそうだと思うたものよ。冷静に考えよ。主は温室育ちであるゆえ、女に夢を見ておるのではないのか。我は長くはぐれの神の中で育ったゆえ、そのようなものに惑わされる事など無いぞ。まして地位が高い者ほど、気を付けねばならぬのに…主は、鳥を治めて皆を守る覚悟が本当にあるのか。女に惑う者は王には向かぬぞ。」
炎月は、むきになって炎耀の胸を突いた。
「そのような!惑っておるのではないわ!ただ我は…白蘭が慕わしいと思うただけで!」
炎耀は、炎月を睨みつけて言った。
「それが惑うておると申すのだ!我の話など耳に入っておらぬではないか!妃を娶るのが悪いと申しておるのではない、ただよう考えよと申しておる!世を二分するほど高位の鳥の宮を継ぐ皇子なのだぞ?妃はしっかり選ばねば宮の恥になるのだ!簡単に誰かを慕わしいなどと…しっかり見定めてから考えぬでどうする!」
炎月は、炎耀に背を向けた。
「うるさいわ!主に話したのが間違いであった!己で何とかするわ!」
炎耀は、自分の寝室へと入って行こうとする炎月の背に叫んだ。
「王にお話しする!主はあまりに浅はかであるぞ、あのように軽い女に惑うなど!せめてもう少し皇女らしく育ってからと考えぬか!」
しかし、炎月は振り返りもせずに扉を閉めた。
炎耀は、困ったことになったと思っていた。炎月が誰かに懸想したりしないように、しっかり見ておれと炎嘉に言われていたのだ。それでなくても、良識が育つまでは色恋など考えぬようにと、炎月の回りには侍女は居らず侍従ばかりになっていた。そんな考え方の炎嘉に、自分が勧めて連れて来たこの龍の宮で、こんなことになっていったい何と申し開けば良いものか。
炎耀は、困って月を見上げた。このことを、王にお知らせした方がいい。炎月は月をその命に持っていて、感情的になるのはいろいろ面倒なのだと、あの定佳の宮の一件の時に炎嘉から重々言われていたのだ。
そして、すぐに知らせるには、月に頼むのが一番だった。
「…十六夜?すまぬが、頼みがあるのだ。」
月に気配は無かったが、月から声が返って来た。
《なんだ?炎耀。ちょうど良かった、オレもお前に話があったんでぇ。ちょっと維心の居間に来てくれねぇか。オレはそこに居るからよ。》
龍王の居間…?
炎耀は、こんな夜も更けてからと気が退けたが、十六夜が言うのだ。
仕方なく部屋へと戻って着物をまた着替えると、炎耀は暗く灯りが落ちた龍の宮の中を、奥宮へと向けて急いだのだった。