恋
やっぱり維心の機嫌は極限に悪い。
維明は、訓練場から父を見上げて思った。喧嘩したにしても、何やら怒りの矛先が違う方向へ向いているようなのが気にかかる。
今日は炎嘉が来ていないので、隣りの維月の席の向こう側にある鳥の席には炎月が座っている。その隣りには炎耀が居て、その二人も維心の不機嫌な気をまともに受けて体を硬くしているのが見て取れた。
何やら怒りの方向が、貴賓席の神の方へ向いているような気が…。
維明がそう思っていると、義心もじっと何やら思うところがあるように貴賓席の方を見上げていた。
維心の開式の言葉が終わって、着席すると、全員が立ち上がって義心の指示に従い、一戦目の出場者以外はサッと控えの場所へと下がった。
こんな維心の不機嫌マックスな状態でも、動じることなく場をてきぱきと動かして行く義心は、大したものだと維明は感心していた。何しろ他の軍神達は、萎縮してしまって硬い動きでギクシャクしているのだ。
義心は、維心の前世から仕えている軍神だと聞いている。かなり優秀で、維心も義心以外を筆頭には就かせない。維月を密かに思っていて、前世からいろいろ維心とのいざこざもあったのだと聞く。それでもこうやって筆頭に座り、命を奪われることなく居るということは、それなりの能力と、胆力を持っているということだ。
維明は、自分の前世の記憶も動員して、義心を値踏みするように見ていた。本当に、今龍軍は、この義心が居なくなったら誰を筆頭にしたらいいと言うのだろう。
維明は、そう思って見ていた。
維心の不機嫌さは変わらなかったが、試合は滞りなく進んでいた。
維心は、まあまあ見ごたえのある試合をじっと見ているふりをしながら、脇の炎月を窺った。炎月も炎耀も、維心の不機嫌な気を感じ取って硬い表情だ。少なくとも今は、恐らく命の危機レベルで緊張しているだろうから、恋愛どころではないだろう。
…これでは、相手が誰なのか見ることも出来ぬ。
そもそもは自分の不機嫌さのせいなのに、維心はそれで更にイライラした。
とはいえ立ち合いは、それなりに見せてはくれた。箔炎の立ち合いの時には、さすがに維心も興味を持って真剣に見ていたのだが、前世、維心が知っていた箔炎とそっくりな動きをする。
やはり、箔炎か。
維心は、それに少なからず懐かしさを感じて、いくらか気持ちも和らいだ。
しかし驚いたのは、鷲の烙だった。
烙は、王である焔の兄、燐と、十六夜と維月の間の娘、維織との間の息子で、半分が月の鷲だった。
烙は、箔炎との立ち合いで勝利し、参加者全ての中で頂点に立った。
その後の維明との立ち合いには一瞬で負けたものの、かなり筋がいい。焔が常、跡目は烙だと言っていた、その意味が分かる気がした。
「王、全ての試合が終了致しました。」
義心が、進み出て膝をつき、頭を下げて報告する。維心は立ち上がって、言った。
「…皆、よう修練しておることと思う。しかしながらまだまだ努める事が出来よう。皆、己の王に仕えるため、また臣下民を守るため、更なる修練を望む。烙には我が龍が打った刀を与えよう。」
その言葉に、進み出た軍神が捧げ持つ塗りの箱を義心が受け取り、そしてそれを維明が受け取って、烙へと手渡した。
烙は、それを顔を紅潮させて受け取る。
それを見届けてから、維心はそこを退出して行った。
一気に緊張感が抜けて、ざわざわと場がざわめく中、義心が声を上げた。
「外宮中央大広間へ!畏れ多くも王よりねぎらいの宴が振る舞われる!」
皆が立ち上り、端から順に退出し始めた。
炎耀が、息をついて炎月を見た。
「…終わったの。あまりに維心殿のご機嫌がお悪いので立ち合いが頭に入ってこなんだわ。何もしておらぬのに斬られるのではないかと肝を冷やしたものよ。」
炎月も同感だった。
来るはずの母が来ず、龍王の機嫌が悪かった事から何かあったのだろうとは思えたが、そのイライラの矛先が自分に向いているように思えたのはなぜだろう。月の力は使ってはいないし、何か自分のことで母と言い争いでもしたのだろうか。
炎月は首を傾げた。志夕が、立ち上がって言った。
「どちらにしろ宴には出なければ。余計に龍王の機嫌が悪うなったら大変ぞ。最後には落ち着いておったようだし、宴の席では大丈夫であろうよ。参ろう。」
とはいえ宴の席には行かねば。
炎月は急いで白蘭の手を取ろうと思ったが、距離がある。志夕はここのところのいろいろで、妹をしっかり見なければという意識が芽生えたようで、炎月がもたついている間に、白蘭の手を取った。
その後ろに龍の宮から貸し出されている侍女達が並び、それで炎月はもう、白蘭には近付けなかった。
戸惑ったような視線を送って来た白蘭だったが、実はこれが普通の状態だった。
炎月はどうすることも出来ずに、そのまま宴の席へと向かったのだった。
それを月から、十六夜と維月はじっと見ていた。
宴には、龍王も王妃も顔を出さず、ただ皆でなごやかに語らい、成人しているもの達は、酒を酌み交わしていた。
龍王の代わりに維明と維斗が出ていて、上位の宮の皇子達と交流していた。
中央に維明が座り、その隣に維斗、そして後は序列順に左右に分かれて座る。
炎月は維斗の隣り、箔炎は維明の隣りに居て、炎月の反対側の隣りには烙、箔炎の反対側の隣りには志夕、その斜め後ろに白蘭といった感じだった。
維明は、龍王にそっくりな外見だったが、中身は穏やかで、話しやすい物静かな風情の神だった。立ち合いの筋を見ても怒らせたらかなり激しい気性かと思われたが、基本辛抱強く、寛大な雰囲気だった。
その維明の後ろには、今夜は義心が控えていた。
立ち合い後の宴なので、労いの意味もあり、軍神達もこの宴には同席することを許されている。
もうそこそこの歳のはずだったが、義心は気の大きな他の神同様、老いる様子もなく若々しい姿でそこに居た。その落ち着きは、そこらの王より余程王らしい風情だった。
この軍神が仕える龍は、どれ程に力を持っているのかと、他を牽制するのに存在するだけで充分な様子だった。
維明と箔炎が話しているので、炎月はちらりと斜め後ろの白蘭を見た。
白蘭は、更に後ろに借り受けた侍女を座らせて、少し離れた横になる義心を、上げた扇の上から目だけでちらちらと見ていた。義心は、昨日の肩慣らしの時、たった一人で何十人もの相手を軽々とやってのけ、顔色一つ変えなかったたった一人の軍神だ。
白蘭も大層それに感嘆して見惚れていて、炎月もその時は同じように称賛の言葉を並べていたものだった。
とても敵わないと思ったからこそ、対抗意識さえ芽生えなかったのだ。
しかし、白蘭の様子は気にかかった。
恐らくは、一言でも義心を言葉を交わしたいと思っているのではないだろうか。普通、皇女は自分から声をかける事など無いが、しかし炎月も知っての通り白蘭はそういう生まれではないので、意識も違う。もしかして、と思うと、こうして前で座っているしかない自分が不甲斐なかった。
義心は、じっと維明や他の皇子達の背を見つめてその様子を見ていた。
宴の前に、維心に居間へと呼ばれて命じられた時の事を思い出していたのだ。
維心は、奥へ戻ってすぐに義心を呼び、義心は訓練場から飛んで行った。そこで、維心はイライラしながら正面の椅子に一人で座り、義心に言った。
「…主、どこまで知っておる。」
維心はいきなり言ったが、義心は何を問われているのか瞬時に察し、膝をついたまま頭を下げた。
「は。炎月様と維月様のことでありましょうか。…陰の月絡みの。」
維心は、ぐっと眉を寄せると、頷いた。
「やはり知っておるの。十六夜は何でも言うゆえ、もしかしてと思うておったが、やはり陰の月と炎月と維月のことも言うておったか。」
義心は、維心に嘘は言えない。なので、頷いた。
「は。炎月様が鳥であるゆえ、龍とは違い、陰の月に影響を与えてしまうのだと聞いておりまする。」
維心は、少し落ち着いて来たのか、息をついて義心を視線を合わせずに言った。
「…我とて面倒を抱えたと思うておったのだ。しかし、本日は皇子だけであるし、皇女が来るにしても父王が侍女で囲ませて守るだろうと、面倒など無かろうと思うたのだ。なのに…あやつ、誰かに懸想しおったようで。維月がそれで陰の月から波動を感じ、昨日は落ち着かなかった。本日もまだ側に居るのか何やら落ち着かぬで、仕方なく月へ戻っておるのだ。とはいえ、維月が言うに、側に寄れずで本日はイライラしておるようだとか聞いた。もしかして、序列も下位の宮の皇女か侍女かもしれぬが、主、宴の席で探って参れ。相手を特定し、未然に防げぬか検討するつもりなのだ。こちらはこちらで陰の月のことは考えるゆえ、原因だけでも知っておかねばならぬ。宴には維明に行かせるつもりであるが、しかしあやつには何も言うておらぬから、探らせるわけにも行かぬのよ。あちこち皇女や侍女に取り入るのも、主なら簡単であろう。調べて参るのだ。分かったの。」
義心は、頭を下げた。
「は!」
そうして、甲冑を脱いで着物に身を包み、宴の席へと来たのだ。
…見た所、やはり傍には居らぬのか。
義心は、そう思って目の前に並ぶ背を見つめていたが、炎月がふと、こちらを見たような気がした。
…?
義心は、気が付いたが知らぬふりをした。こちらを見ている…?いやしかし、イライラしているようだ。自分を見てイライラしている…?
ふと、炎月が男に興味があるのかとドキリとした義心だったが、しかし横へ視線をやって、そこに白い髪の美しい若い女神が座っているのに気が付いて、ハッとした。これは…志夕様の双子の妹君、確か名は、白蘭様…?
義心は、もしかして、と思った。後ろには、龍の宮から貸し出された龍の宮の侍女。
白蘭は、白虎の宮の第一皇女だ。最高位の宮の皇女が、侍女も乳母も付かぬまま貸し出しの侍女に世話されているとは…?
義心は、何かある、と、白蘭の視線に今気づいたかのような顔をして、そちらを向いた。




