対面
炎月は、炎耀と共に龍の宮へ降り立った。
今日は本戦の前の事前試合の日なので、かなりの数の神がここへやって来ている。
皆一様に緊張した様で、炎月も俄に気持ちが張り詰めるのを感じた…やはり、これは特別な催しなのだ。
案内された客間で固まっていると、侍女がやって来て頭を下げた。かなり品のいい侍女で、龍の宮にはそんな侍女ばかりなのか、とまた緊張していると、相手は言った。
「炎月様。王妃様から、王に許されたので奥の居間へお越しくださいませとの事でございます。お迎えに上がりました。」
母の侍女!
炎月は、一気に気分が高揚するのを感じた。これは龍の宮の王妃の侍女なのだ。だから格別に品が良かったのだろう。母に会える…何十年ぶりだろう。
炎月は、なるべく落ち着いて見えるように立ち上がると、頷いた。
「では、参る。」
侍女は、また頭を下げて炎月を先導して歩き出す。
炎月は、足取りも軽く回廊を侍女について歩いて行った。
さすがに神世最大と言われる宮だけあって、かなりの距離を歩かされてやっと奥の大扉の前へとたどり着いた。
それが開かれると、また回廊がある。
その回廊の脇には大きな窓があり、そこから南の庭の美しい様が見えた。正面突き当たりに扉があって、それが奥宮の居間へ開く扉なのだと察して、炎月は顔を引き締めた。王に許された、ということは龍王も共に居るはず。
父の炎嘉のためにも、自分が子供のようではならない、と、炎月はまた緊張してそこまでの長い廊下を歩いた。
手前まで来ると、侍女は脇へ寄って頭を下げた。
「炎月様をお連れ致しました。」
扉が、開く。
正面の天蓋付きの椅子には、思った通り龍王と、その隣りには母の維月が、座ってこちらを見ていた。
龍王が、言った。
「入るが良い。」
炎月は、頭を下げて中へと足を進めた。
背後で扉が閉じられ、炎月は言った。
「お呼びにより参上致しました。お久しぶりでございます。」
維心は、頭を下げる炎月に頷いた。
「表を上げよ。」
そうして顔を上げた炎月は、間近に見る龍王に息を飲んだ。
その気の大きさもだが、これほどに美しかったであろうか。
父王も華やかで美しいと常思っていたが、こうして見るとその美しさは際立っていた。本人は全く気にしていないようだったが、炎月は絶句した。
維心はそれに気付かず、続けた。
「よう来たの。それにしても大きゅうなったもの。やはり月が混じると我が子達のように育ちが早いな。こうして見ると、炎嘉の若い頃そのものであるわ。何やら懐かしい。」
維月が、袖で口元を押さえて微笑んだ。
「本当に。逞しくおなりだこと。此度は事前試合の肩慣らしに参加なさるとか。王が特別にお許しくださったのですよ。炎耀殿から蒼に願い出があったのだと聞いておりまする。腕を上げられたのですね。」
母は相変わらず美しい。
炎月はそう思いながら、愛らしい様で微笑み返した。
「まだまだ未熟で試合にすら候補に上がらぬ次第でございますが、今の神達がどこまでの手練れであるのか図れる良い機会でありまして、特別なお計らいに感謝しておりまする。」
受け答えも申し分ない。
維心は、思って見ていた。まだ少し子供っぽいところがあるが、そこがまた愛嬌があって不敬には感じられなかった。維心の子達は幼い頃からこうではなかったが、普通はこんな風に回りに敬われるより可愛がられて育つのだ。
炎月は、回りに可愛がられているのだろう。
炎耀が蒼に願い出たということからも、それが透けて見えた。
「何にしろ神世を広く見るのは良い事よ。主には我が子達ともうまくやってもろうて、次の代をお互いに協力し合って治めてもらいたいと願っておる。」
炎月は、頭を下げた。
「はい。この機会にお会いしてお話出来ればと思うております。」
維心は、それには少し、苦笑した。
「そうよな、此度話すとなると試合があるゆえ、終わってからということになろう。主は滞在を長引かせて良いのか?父に聞いてからにするが良いぞ。」
そうだった、この宮の催し、しかも皇子が主催なのだから試合の間はいろいろ采配するのに忙しいだろう。それにすぐに思い当たらなかった自分を恥じて、炎月は少し下を向いて顔を赤くした。
「は…。お忙しい中、気付かず申し訳ありませぬ。」
別に咎めた訳では無かったので、維心が困ったように維月を見ると、見るからに意気消沈している炎月に、維月が言った。
「良いのよ、王は咎められた訳ではありませぬ。仲良うしてくれるのは我らとて嬉しい事ですから。それに、滞在を伸ばせれば維明が手合わせするやもしれませぬし。あの子は大変に精進して試合には出ないほどの腕前になっておるので、良い師になるかと思うわ。」
途端に炎月は、顔を上げてパアッと表情を明るくした。
「誠でありますか?」
維心が、頷く。
「維明も維斗も試合が終われば時が空こうからの。それも合わせて炎嘉に聞いてみるが良い。」
炎月は、もうさっきの事は忘れたように明るく頭を下げた。
「はい!感謝し申す。」
なんと、まだ子供であることよ。
維心は思ったが、何も言わずにただ頷いた。維月が微笑ましくそれを見ているのを見て、維心は言った。
「では、主は維月と話したいのではないか?もうそろそろ肩慣らしも始まるやもしれぬが、一時こちらで話して参るが良い。我は、先にあちらの様子を見て参るゆえ。」
炎月は、驚いた。他の宮の皇子で、維月を母だとは誰にも言ってはいないのに、そんなことをしてもいいのだろうか。
しかし、維心が気を利かせてくれているのは分かった。それでも、炎月は、もう喉まで出かかった言葉を飲み込み、首を振った。
「龍王様には大変にお気遣いを頂き、我は感謝しておりまする。しかしながら、誰も知らぬ事であるのに、ご迷惑をお掛けするようなことにならないとも限りませぬ。こうして我がここに居るだけでも、どれ程に譲歩してくださっているのか、我にはもう分かっております。幼い頃には父だと思うておったほど、母の気を読んで母の気持ちも分かっておりまする。なので、こうして龍王様がいらっしゃる場で母上とお話出来れば、我は満足でありまする。」
維心は、驚いた顔をした。子供だと思ったのに、炎月は分かっているのだ。自分の存在がどれ程に不自然で、出生の事を回りに知られる事で維心が少なからず迷惑を被るということを。
それでもそれを許した維心の心のことも。
維月は少し涙ぐんだ。炎月がそんなことを気遣うということが、出来るようになっているのを知ったからだ。
維心は、満足そうに頷いた。
「…主がそう申すなら、我はそうしよう。では、あとしばらく。」と、維月を見た。「何か聞きたい事があったのではないか?」
維月は、涙を抑えて頷いた。
「はい。炎月、月の力はどう?私の命をいくらか継いでおるので、いろいろ難儀するかと思うのです。陽の月と違い、陰の月は扱いがとても難しいわ。お祖父様が何度かあなたを見舞っておると聞いておりますが、いかがかしら。」
それは、維心も気にかかる事だった。あれから10年、落ち着いているとはいえ、実際はどうなのか分からない。まだ、婚姻など毛ほども感じない年だろうが、油断はしていられないのだ。
炎月は、答えた。
「はい。今のところ使う機会もなく、追い詰められてもそれだけは使うなというお祖父様の言葉に従い、一切使っておりませぬ。元々全く知らぬ力で、あの折は友も殺されようとしておって訳が分からず使ってしもうた力。それを使うリスクのことは、父からもお祖父様からも嫌というほど聞かされ申した。なので、これからも使う事はありませぬ。」
だったらいいのだが。
維心は思ったが、口にはしなかった。維月が、頷いて言った。
「陰の月の力は、私でも抑えきれずで十六夜や父に助けてもろうておる力なの。あなたに私の力を分けておるような状態なので、あなたが使うと私も引きずられてしまって、大変なことになってしまうの…何しろ、私の方が大きな力を使えるので、地上が大変で、十六夜が必死に抑えても無理なほど。10年前のことは、あなたも聞いておるでしょう。」
炎月は、頷いた。それは、本当にあの後しばらく毎日祖父の碧黎と炎嘉が代わる代わる、陰の月が暴走して龍の宮が大変なことになって、あのまま抑えきれなければ地上が取り返しのつかない事になったとキツく諫められたのだ。
なので、分かっていることだった。とはいえ、母が案じるのも分かった。同じ母の子である、維明と維斗、瑠維の三人はそんな騒動など起こしては居ない。炎月だけが起こしたので、それで炎月は、信用されていないのだという事は、炎月にでもわかった。
「母上、あの時のことは、大変に申し訳ないと思うておりまする。自分の扱い切れぬ力は、使うものではないと、父にも強く言われておりますので。」
維月は頷いたが、維心が釘を刺すように言った。
「扱い切れぬというのは、この前のような事だけではないのだぞ。ほんの小さな事でも、これぐらいならいいか、というのは無い。分かるの?維月にはそれが気取れるし、そうして感情に引きずられる。そうなると、本当に我でもどうしようもないことが起こるのだ…本当ならこんなことは言いたくはなかったが、主が次に使う事があったなら、我は主を消さねばならぬかもしれぬ。そんなことはあってほしくないゆえに、皆強く申すのだ。まだ幼いゆえ、事の重大さが分からぬやもしれぬが、しかしこれは重要なこと。しかと肝に銘じて決して使わぬようにな。主が生まれ出ることを認めた我を、失望させるでないぞ。」
炎月は、龍王の強い言葉に驚いた。まさか、そこまでとは思っていなかったからだ。
母は、そんな大げさな、と言うかと顔を見たが、しかし母も悲し気に炎月を見るだけで、否定しなかった。つまり、自分が僅かばかりでも力を使う事で、龍王は自分を殺しに来るかもしれないということなのだ。
では、次に自分では勝てないような敵にさらわれた時は、どうしたらいいのだろう。月の力を使わずに、死ねという事なのだろうか。
「…そこまでとは、思ってもいなかったので。意識して使った力ではないので、次にもし何かあったら、我も制御できるかどうかわかりませぬ。それでも、でしょうか。」
維心は、間髪入れずに頷いた。
「それでもぞ。」炎月が、驚いた顔をすると、維心は途端に険しい顔になった。「認識が甘いようだの。もう分かる歳であろうから申す。主が立ち合いなどに精を出しておるのは良いことだと思うておる。普通なら神は、月の力など持たぬからそういうものを磨いてそれで己の身を守るもの。難しいことを言うておるのではない、もしもの時のために、精進するのだ。主が立ち合いを良くしておるのはなぜ故か。ただの自己顕示欲ではあるまいの。皆、己や家族、王を守るために技術を磨くのだ。もしもの時のためぞ。月の力に頼るつもりでおったら、主は間違いなく非常事態には月の力に頼る。そんなことではこちらは安心しておれぬぞ。維明と維斗を見よ。あれらはどんなに追い詰められても月の力など使ったことも無い。あれらは我の子で、それなりに危機を察する能力がある。絶対にやってはならぬこと、手を出すべきでないことを幼い頃から判断できるのだ。しっかりとした考えと判断力、精神力がある。主はどうか?今の答えでは、それが無いと我に申しているように思えたがな。」
維心の、問い質すような言い方に、炎月は身を固くした。維月が、慌てて横から言った。
「維心様、維明と維斗は維心様のお子で龍王の血を引いておって特別なのだと父も申しておりました。龍という血はそもそもが優秀で、その最たるものである龍王の血族であるのだから、これまで何も起こらなかったのだと此度のことで分かったと。炎月には、初めて龍ではない血と月の子であるのですから。こうして話して行けば、分かってくれると思うのですわ。」
自分を庇っているのは分かっていたが、それにも炎月はショックを受けた。母ですら、自分は龍でないから、龍王の子ではないから面倒を起こしたのだと思うておるのか。
しかし、考えが甘かったことは、今目の前で図らずも炎月自身が露呈させてしまっていた。皆がうるさく言うのも、ただ炎月がまだ若く、それを扱えないから言っている、程度に思っていたのだ。ある程度の歳になれば、そう成人でもしたのなら、少しぐらい隠れて使っても差し支えは無いだろうとは、確かに心のどこかで思っていた。
それを、維心に指摘されてしまったのだ。
「では…生まれ持ってはいても、二度と使わぬ方が良いということですね。」
炎月が言うと、維心は頷いて答えた。
「使わぬ方が良いのではなく使ってはならぬのだ。しっかりせよ、炎嘉の息子であろうが。あれは確かに学ぶのが嫌いであったが、愚かではなかったぞ。主が生まれたのが間違いだったと我に思わせるでない。そもそもが主の命が生じた事自体が、陰の月が関わっておるのだ…主は己が関わって、これ以上母が望まぬ男の、子を生む事態に陥るのは本意ではあるまい。」
維月が、慌てて言った。
「維心様、そのような…炎月は、どれ程に難儀なのか理解しておらなんだだけでありまするから。これからは大丈夫ですわ。」
炎月は、呆然とそれを聞いていた。陰の月…そうか、陰の月は厄介だ。そのせいでもしかして母上と父上はそういう仲になり、母が元に戻った時には自分が宿っていたということなのでは。それでも、龍王は友である父の願いを受け入れて、今があるということなのでは…。
自分がちょっとでも月の力を使う事で、また母が陰の月に飲まれるのを、龍王は懸念しているのだ。
もう二度とそんなことがないように、もしもの時は炎月を殺してでも阻止しようとしている…。
炎月は、それを悟った。自分が思っていたより、ずっと複雑で大層な力を持ってしまっているのだ。それを、使ってしまってはいけないのだ。絶対に…。
「…はい。我の認識が甘かったのは、分かり申した。これ以上ご迷惑をおかけするようなことは、絶対に無いように致します。」
炎月の顔は、ここへ入って来た時のように、明るく浮ついた感じではなくなっていた。
その険しい顔に、維月は子供相手に手厳しいことを、とは思ったが、それでも維心には迷惑を掛け続けていることなので、何も言えずにいた。
炎月は、黙って頷く維心に頭を下げて、そうしてそこを出て訓練場へと歩いて行ったのだった。




