上辺
維心の懸念は懸念のまま水底の澱のようには残っていたが、それでも上辺だけは平穏に、何事も無く日々は過ぎて行った。
志心の宮ばかり見させておくわけにはいかない義心なので、そこは帝羽に引き継がせて義心は通常の業務に戻っていた。
志心は、維心が知っているのかどうか探る事も無く、特に表面上変わりなく会合にも普通に出ていた。
ただ、会合が終わった後の宴には出て来る事は無くなって、会合が終わればすぐに帰るようにはなっていたが、それも致し方ないことだと維心は思っていた。
蒼は、件の不能云々のことは、全く知らないようだった。十六夜も維月も、月として出来ることを勝手にしていただけで、蒼には何も知らされていないようだ。
相変わらず、維心には不能になってしまった神達が、治してほしいと嘆願に来るが、維心自身が何か出来るわけではなく、しかもそんな嘆願を聞くのはハッキリ言って嫌だったので、自分はそんなことには能力を持っていない、とわざわざ告示した。
治ったという神が居ると反論はあったが、それはたまたまその時が治る時だっただけで、現に治らなかった者もいるだろうと言って、突っぱねた。
それよりも、自分のそれまでの行いを悔い改めて月にでも祈った方が効果があるのではないか、とさり気なく言うことはした。
月に祈るというのは、神の間でも運を天に任せる、というような意味あいで使われる言葉なので、言葉通りに取る神は居ないが、言葉通りにしたら何とかなるかもしれないぞ、という維心の言外の忠告であった。
そうやって過ごしていて、気が付くとそこまでまた、10年ほど経っていた。
神にとっての10年は、人の1年ほどの長さでしかない。
維心は常に100年単位でものを考えているので、この10年も、見た感じは思い通りに平穏に回っているようだった。
維月も陰の月を抑え込むことに慣れて、十六夜の頚連は怖くて手放せないものの、それなりに普通の生活が出来ていた。
時に碧黎が命を繋ぎ、そうして陰の月を抑える助けをしてくれていたので、それも功を奏しているようだ。
それぞれの宮の皇子達も、幼い姿から、青年の姿へと変わりつつあった。
それなりにまだ幼さは残る顔をしてはいたが、それでも10年前よりは数段にたくましく育っている。
炎月などは20年を越えたぐらいだったが、月の命のせいで育ちが早く、同い年の箔真がまだ人で言うところの中学生ぐらいの見た目であるのに、炎月は高校生ぐらいに見える。ちなみに50年に近くなった明蓮と、50を越えた公明は、もう成人しているような見た目に育っていた。
皆、月の命を僅かでも持っている者たちだった。
紫翠と緑翠は、40を超えた辺りで、見た目は炎月と同じぐらいの歳に見えた。
若い神達は、皆立派に育ちつつあった。
炎月が、今日も鳥の宮で炎嘉の政務について学び、その後訓練場で汗を流して、部屋へと引き上げようとしていると、炎耀が追い付いて来た。炎耀とは、炎月が攫われた折から、腹を割って話すようになっていた。炎耀は、よく話してみると裏表が無く話しやすい男だった。しかも、それなりに頭が良く、話が分かる。気が付くと、今ではまるで兄弟のように、炎耀ばかりと話していることが多かった。
「炎月。本日はもう終わりか。」
炎月は、振り返って頷いた。
「昨日もそれなりに立ち合ったからの。最近は皆、あまり変わり映えが無く手ごたえが無いわ。父上がお相手をしてくださる時ぐらいよ。」
炎耀は、苦笑した。
「主は毎日やり過ぎなのだ。だが、主の様子を見てそうではないかと思うての。腕試しをしたい頃ではないかと。龍の宮の軍神の立ち合いの試合を知っておるか。」
炎月は、両方を眉を跳ね上げた。あの、名高い将が出ると有名な?
「知らいでか。あちこちの宮の手練れしか出ることが出来ぬという試合で、しかも更に龍の宮の事前試合でふるいにかけて、本戦に出られるのは僅かに20名だと聞いておる。伝統的に、龍の宮の皇子は必ず出て来るらしいが、維明殿には誰も勝てぬということで、最近は出て来ぬのだとか。龍軍筆頭の義心も出ぬのだと。」
まさか、それに出られるのでは。
炎月は、胸が高鳴って来るのを感じた。だが、炎耀はキラキラと輝く炎月の瞳に察したようで、苦笑して首を振った。
「いや、さすがに出場は無理であるが、観覧が出来ることになったのよ。なかなかに席がもらえぬのだが、王にお頼みして龍王に席を頂いたのだ。見るだけでも良い学習になろう?」
炎月は、がっかりしたような顔をしたが、それでも見られるのだからと、頷いた。
「もちろん、良い学びになる。」
炎耀は、そんな炎月を見てニッと笑うと、わざと小さな声で言った。
「…とか言うて、本当は一試合だけでもやりたいと思うておるのではないのか?」
炎月は、戸惑いながら困ったように言った。
「それは…己のレベルがどの辺りなのか、目標も欲しいと思うし…。」
炎耀は、腰に手を当てると、満足げに頷いた。
「だろうと思うて、我は蒼様と話しが出来るゆえな。頼んでみたのだ。そうしたら蒼様が十六夜に、十六夜が維月殿に言うて、それが龍王に伝わり、前日の事前試合は午後からで、午前に皆が肩慣らしをするのだが、それに参加させてもらえることになった。我と、主の二人ぞ。」
炎月は、ぱあああっと明るい顔をした。そんなところがまだ子供だな、と思いながらも炎耀は満足だった。炎月が喜ぶだろうな、と思って努めた事だったからだ。
炎月は、そんな風に思われているとは思わずに、素直に大喜びした。
「なんと!では手練れ達と腕試しが出来るということか!知らなんだ、手柄であるぞ、炎耀!」と、慌てて今歩いて来た道を、また戻る方へと足を向けた。「ならばこんなことをしてはおれぬわ。あの試合は来月であろう?それまでにある程度力をつけておかねば!無様な様子を見せられぬであろう?主も参ろうぞ。」
炎耀は、明らかに浮足立っている炎月に苦笑しながら、同じように訓練場の方向へと足を向けた。
「良いが、無理をして体を壊すでないぞ。主はもう。」
炎月は、まるで弾むような足取りで、嬉々として訓練場へと向かったのだった。
箔炎は、隣の宮になる白虎の皇子、志夕と仲が良かった。
志夕は既に100近い年齢であるが、母を亡くして、父王にその存在を知られることになり、宮へと入った志心の第一皇子だった。
宮の臣下達はもろ手を挙げて喜び、志夕をそれは大切にしてくれるらしいが、それまで普通に下々の神として生きていた志夕にとって、宮での生活は違和感がありなかなかに慣れないものだった。
そんな折に、箔翔に連れられて来た箔炎と、志夕は知り合ったのだ。
見た目は少し、箔炎の方が若かったが、志夕は箔炎の、こだわりのない性格に話しやすいと思った。しかし、年下であるのになぜか重々しい威厳を感じる時もあり、これが血の力かと感心もした。自分は、父王とは馴染めずで本当に王になるのかと思うこともある。箔炎ならば、そんな心持も理解してくれ、そしてほしい情報をくれるのではと思ったが、果たして本当に箔炎は、大変に博識で期待以上の答えをくれる友だったのだ。
志夕が鷹の宮へと来ていたのも、そんな理由からだった。
箔炎は、二つの鎌のような形の腕に沿うような刀を使う志夕との、変わった立ち合いが好きで、今日も存分に立ち合った後だった。
「主はほんに素早いのう。」箔炎は、自分の部屋へと引き上げながら、志夕に笑いかけた。「我が父上も、主との立ち合いは苦手だと申しておったわ。確かに父王は大変な手練れだと聞いておるし、主もその技を受け継いでおるということか。」
しかし、志夕は父王と言われて、息をつくと首を振った。
「いや…父上は、あまり立ち合われぬから。前は時々に出て来られて立ち合っておられて、我もお手合わせをして頂いたものだったが、今は全くなのだ。いつなり険しいお顔をなさっておって…政務を見ておるのだが、それにしてもあまり気が入っておらぬと申すか。後で我に説明をするのはいつも臣下達よ。臣下達は、我を育てねばと焦っておるようであった。思えば10年ほど前に頻繁に治癒の者たちが父上の部屋へと入って行っておったが…もしかして、ご病気なのやもしれぬな。」
箔炎は、それには神妙な顔をした。
「まあ、志心殿は長く生きて来られたゆえ。そろそろお体を壊してもおかしゅうないしな。しかし、主が居るのだから安心であろう。なに、政務など適当にしておっても回るもの。案じることは無いわ。」
志夕は、苦笑した。
「主と話しておったら、悩んでおるのが馬鹿らしゅうなって来るわ。」
箔炎は、驚いたように志夕を見た。
「何ぞ?主、気に病んでおるのか。」
志夕は、肩をすくめた。
「父上が何をお考えか分からぬ。我を宮へ迎えてくださった折は、もっと友好的なかたであられた。それなのに、どうしたことかしばらく経ったある日、険しいお顔をなさっておると思うたら、口数も少なくなられて。治癒の者がよう出入りするようになった、あの頃ぞ。臣下に尋ねても首を振るばかりで詳しいことは何も言わぬし、我は臣下達により一層大切にされるようになって…我も病ならしようがないと覚悟をしておったが、あれから特にご体調が悪い様子も無いのに、暗い雰囲気で。だからといって、我に政務を積極的にお教えになるわけでもなく、代替わりが近いという感じでもない。我は、どうしたらよいのか分からぬのだ。誰も何も教えてくれぬしな。」
箔炎は、自分の部屋の扉の前へと到着し、そこへと入って行きながら、顔をしかめた。
「そうよなあ…父王に直接尋ねるわけにも行かぬのだな?」
志夕は、箔炎の後をついて箔炎の居間へと入って行きながら、首を振った。
「そんなに気安い仲では無いのだ。少し慣れて来た頃に、いきなりあのようにおなりであるので。」
箔炎は、甲冑を解きながらドカリと椅子へと座り、首を傾げた。
「どうであるかなあ…確か、炎嘉殿と親しいとか聞いたような。そら、弟の箔真があちらの皇子の炎月と同い年で仲がようてな。炎月がここへ来た時に、確か志心殿が頻繁に来るのだと言うておったような気がする。もしかして炎月に聞いたら、何か知っておるのではないか?」
志夕は一瞬、期待に満ちた顔をしたが、すぐに顔をしかめた。
「…いや、炎嘉殿とは確かに親しいと聞いておったが、それも10年ほど前から全く行かぬようになっておった。言われてみれば、その辺りからあのような様になられたような気がするの。」
箔炎は、腕の甲冑をほどき終えて胸の辺りに取り掛かりながら、真剣な顔で考えた。
「そうよなあ…ということは、もしかして炎嘉殿と何か諍いでもあったのであろうか。というて白虎と鳥が政務上で何か重要な行き違いがあったかと言われたら、10年前から今まで無い。我は、父上についてずっと政務を見ておるが、ここのところは平穏でな。白虎の軍神の一人が炎月を攫って騒いだこともあったが、その時はさっさと謝罪に行っておるし、炎嘉殿もそれをすんなり受け入れて大ごとにはならなんだ。」
志夕は、その時の様子を思い浮かべた。自分が宮へ入って数年の時で、父が烈火のごとく怒ってその軍神を探しに出て行ったのを覚えていた。
「…そうであるな。確か、渚とかいう軍神だったと聞いておる。臣下の噂話を立ち聞いたところによると、父上が相手をしてくれぬようになったから恨んでおったのだとか…しかし、恨むとて…。」
箔炎は、それを聞いて眉を寄せた。もしかして。
「…主の父王は、もしかして両刀使いか?相手とは、そういう相手ということではないのか。」
志夕は、ハッとした。両刀?
「…すまぬ。その、我はそういうことが分からぬのだ。一般の神に混じって生きておったと言うたであろう。下々の者たちは、子を増やして労働力を増やすことを考えるゆえ、その、あまり…男を相手するということが、一般的ではなくてな。上位の神の間では当然なのかもしれないが、すまぬが理解できぬ。」
箔炎は、苦笑した。それはそうだろう。これは、生活に余裕のある神の、心の余裕から遊びでその趣向も良いとしていることでもあり、真実心の底から男が良いと言う神は、多い訳ではない。居るには居るが、一般的ではない。ただ、例えそうでも特別視されることは無いだけだ。
箔炎は、なので言った。
「そうよな。我もそうなのだ。この歳だからまだよくわからぬのかもしれぬが、女が対象で男はそういう興味では見ては居らぬしな。だが、もし誰かがそういう趣味を持っておっても、別に気にはならぬ。そういうことを批判したりごちゃごちゃ言うのは無粋で下賤な者がすることだと思われておるからの。主は幼い頃に育った環境が違うから戸惑うやもしれぬが、そこは分かっておいた方が良いぞ。なに、顔に出させねば良いのよ。そうして、己はそういう趣味は無いと言うておいたら向こうは無理には押して来ぬしな。」
志夕は、真顔でそれを聞いていた。そんなことは誰も教えてくれないし、父王とは最近本当に距離が遠くてそんな突っ込んだ話など出来ようはずも無いのだ。
「分かった。では、我はそういう趣味はないと公言しておくことにする。もちろん、そんな話になった時に、さりげなくという風で。基本、他の神の趣味の事に口出しはせぬことにする。」
箔炎は、頷いて甲冑を外し終え、ハアと息をついた。
「して、先ほどの話に戻るのだが、主の父王はもしかしたらそっちもいける神なのかもしれぬ。それで、渚という軍神が王に相手をされぬようになって、恨んでの犯行としたら…攫ったのが炎月ということから考えて、普通なら炎月がそういう対象になっておったからと思うところであるが、あれはまだ子供であって幼すぎていくら何でもないであろう。とすると、頻繁に出かけておったことから考えても…炎嘉殿が新しい相手で、それを妬んだとしたら合点がいかぬか?」
志夕は、じっと眉を寄せていたが、渋々頷いた。
「…そうなるのかの。我はほんによう分からぬのだ。それはつまり、その、炎嘉殿もそういう、男も女もどっちでも良いという事であるか?」
箔炎は、それには顔をしかめてうーんと考え込むような顔をした。どうしたことか、炎嘉はそうではない、という気持ちが沸き上がって来るのだ。知っているのか…何なのか分からないが、しかし、炎嘉はそうではないはず。そうだ、確か父上がそんなことを言っていたような。
「いや…炎嘉殿はそうでは無かったはずなのだ。遊びで龍王に口づけたりしたのを見たと父上が申しておったが、炎嘉殿はそうではないはずだと。そう聞いていると…では、違うのかの。主の父がもし、炎嘉殿に懸想したとしても、炎嘉殿の方が無理であろうから断ろうしな。」
志夕は、必死に男女の時ならどうなのかと考えて、箔炎の話を理解しようとしていた。しかし、確かに父王は男でも女でもいいようなことは、聞いたような聞かなかったような…。
「…分からぬ。だが、もしそれが原因だとしたら、確かに説明はつくのだがの。父上が、炎嘉殿に断られてそれで意気消沈してしもうたとしたら、そうなのだろうし。とはいえ、もう10年もあのままとあっては、長過ぎようしなあ…。別のことかの。」
箔炎は、お手上げだと両手を上げた。
「分からぬわ。すまぬが主の父王の事は、臣下も必死に何とかしようとしておるのだろうし、それでも駄目なのだから我らがどうにか出来るものではないのよ。分からぬことがあったら、我に聞け。我にも分からぬことがあったら、我が父上に聞いておくゆえ。の?共に学んで行けば良いではないか。主の父王のことは、臣下に任せておけ。」
志夕はそう言われて、仕方なく頷いた。確かにそうなのだ。自分たちがどうにかしようとしても、どうせ無理なのだから、ここは自分のことは自分でやって、回復を待つよりないだろう。
何が起こっているのか分からないが、自分には箔炎が居る。
志夕は、そう思って慣れない王族の中、自分の気持ちを奮い立たせていた。