七夕前日
月日はおっとりと進んでいた。
相変わらず龍の宮は忙しくしていたが、十六夜が突然に現れたり、碧黎が様子を見に来たり、月の宮との関係も相変わらずだった。
炎嘉も炎託も相変わらず忙しいので、炎嘉は維心との取り決めの、維月を年に二回あちらへ行かせるということも、何も言わなくなっていた。
確かに数年忘れるようなことはあったが、二十年ともなると結構な長さだ。
だが、維心は炎嘉にそれをどうするのかと問い合わせる事もなく、もうあちらも維月に対しては落ち着いて来たのだろうと、自分に良いように考えてほったらかしだった。
維月も、約束だからと求められたらあちらへ行っては居たが、それでも愛しているのは維心と十六夜なので、自分から進んで行こうということもなく、そう言った訳で何も言わずにいた。
そんなこんなで、明日は七夕の催しの日だった。
毎年行われるこの行事は、龍の宮には珍しくかなり下の序列の宮にも招待状が届くもので、前に炎嘉が開いた儀式ほどは開かれてはいないのだが、それの次ぐらいには大きな催しであることは確かだった。
元々滅多に入ることが許されない龍の宮なので、招待を受けた宮の王、侍女侍従達はそれを楽しみに集まって来た。
なので当日は龍の宮は、上を下への大騒ぎになるのだった。
維月も明日の段取りを兆加と鵬と共に確認を終えて、ホッとしながら居間へと戻って来た。
すると、そこには維心が居て、いつもの定位置の椅子に座っていた。しかし、維月が帰って来たのを見とめると、薄っすらと笑みを浮かべて座ったまま手を差し伸べた。
「帰ったか。」
維月は、差し出されて手を取ろうと足を進めて行きながら、微笑んで頷いた。
「はい。さすがに臣下達も段取りには慣れておりますので、そううるさく言わずともやってくれるので助かりますわ。今年は例年と変わらぬお客様の数ですし、お披露目の場も同じ、外宮の段回廊がある舞台状の大広間なので、特に変更の指示もなくて。今年の花は、百合と紫陽花に加えてキキョウや、サクラ蘭も指示しておきました。青灰色の床や壁に青や紫、白が映えて美しいのではないかと。」
維心は、頷いて維月を隣りへと座らせた。
「良い眺めであろうな。楽しみなことよ。」
維月は維心を見上げて頷いた。しかし、当日はその花々より美しい維心に皆が皆見とれて、あの段になっている回廊に、鈴なりになって身を乗り出すのは分かっていた。
舞台上で維心と共に並んで座っている維月から見たら、落ちて来るのではないかといつも、ハラハラして見ているのだ。
あの大広間は七夕当日、維心を狙って変な輩が来てはならないので、維心の気の結界が張られているので気弾などが使えない上、飛ぶこともできない。
つまり、落ちたら最後、床に叩きつけられることになるのだ。
もちろん、維心も保険をかけていて、床の上、三メートルほど上の位置に、気の網を張っていて、それは維心自身の気で張ってあるので、その部屋の中でも有効だった。
だが、落ちたらそれは大変な騒ぎになるので、そんなことが起こらないように、龍の臣下達は場内整理に駆け回ることになっていた。
ところで、この回廊のある大広間は、結婚式など皆の目の前で何かを公表する際に使う部屋だった。
舞台自体は、地下にある。背後の舞台裏へ抜ける回廊が登坂になっていて、内宮一階の方へと抜けるようになっている。
舞台側から見たら、三メートルぐらいの高さから丸く段々に手すりのある回廊があって、上までその段の数を数えると七段ある。
その段から段までには階段が設けられてあり、舞台から見て右端と左端にそれはあった。
舞台が地下なので、その段の下から三段目が地上と同じ高さになっているので、来客は全て、ここから中へと入り、上なり下なりの段へと移動することが出来た。
基本立ち止まらないように注意はするが、維心が座っているのが直に見えるそこで、立ち止まらない客などまずいなかった。
なので大変に混雑して、舞台から見ていてもハラハラしっぱなしだった。
そして、維心の親しい友人は、別の場所から維心の前に案内される仕組みになっていた。
段は三メートルの高さからと説明したが、その下には大きな両開きの扉がある。
来客は、地下回廊に案内されて、その扉から出て維心の前に出る。そうして、段になった回廊の上から、それはたくさんの客に見守られながら維心と話すことになった。
これは、前世から脈々と続けられて来た、七夕の催しなのだった。
維心は、息をついた。
「それにしても…毎年見世物にならねばならぬのには、前世より慣れぬわ。そもそもは、七夕ではなく夏の気を消耗する暑さの中、龍王が直接神世の皆が健やかなのか見るという儀式のひとつであったらしいが、それがいつの間にか変性し、七夕の開催となり、ついには七夕は龍王を見る日、というような様になってしもうたらしい。だが、歴代龍王がこの時期皆と顔を合わせて来たというのは事実。我の代でそれを終わらせるのもと思うて、こうして続けておるのだが。」
維月はフフと笑って言った。
「維心様には大変に不機嫌な様で居られたのだとか。前世洪が愚痴っておったのが思い出されますわ。私が龍王妃となってから、共に出るようになって落ち着かれたのだと聞きました。」
維心はそれにもため息を返した。
「主が居らぬでは一人で手持ちぶさたではないか。主が来てからは、美しい主を皆に見せたいと思うて出るのも億劫でなくなったのよ。なので、今生は不機嫌ではないぞ。」
維月は、口を袖で隠して微笑んだ。
「まあ維心様ったら…。私は維心様のお美しさは不機嫌でいらしても変わらぬと思うておりますが、明日も楽しみですこと。滅多に正装などなさらぬから、それが見られる最高の機会ですわ。フフフ。」
維心は、嬉しそうな維月に困ったように微笑んだ。
「主は変わらぬの…我の姿が良いと申すか。我にはよう分からぬが、主が良いと申すならあの仰々しい姿も我慢しようの。」
維心は自分の姿を鏡に映して見る事もない。見苦しくなければそれでいいという考え方なので、普段は維月の選ぶ着物を何のこだわりもなく着る。本気になればそれは趣味の良い神なので、維月の着物を合わせるのもそれは美しい色目で選んでくれるのだが、自分自身にはあまり興味がないらしい。
派手な物は好まずシンプルな物を好む維心なので、今回の正装も、派手ではないのにそれは良い織りの、染めの技術の冴え渡ったものを選んだのだが、維月はそれに維心が袖を通すのを楽しみにしていた。
「維心様の普段のお姿もお心もお慕い致しておりますけれど、たまにはあのように着飾っていらっしゃるお姿も見たいと思うておりますから、本当に楽しみですわ。」
いつもの七夕なので、準備はしっかり整っていた。
二人は、おっとりとそれからの午後を共に庭を眺めながら過ごしたのだった。
当日、夜明けに維心と共に起き出した維月は、先に侍女達に自分の髪を結い上げてもらい、襦袢の上の着物、下重ねを来た中途半端な状態で、維心を着付けた。
維心が、維月と結婚してこのかた、侍女に袖に触れられるのも嫌がるようになったので、維心のことは維月が着付けるか、維心が自分で着替えるかどっちかだった。なので、こんな形になってしまったのだ。
「また今日は凝った髪の形であるな、維月よ。」維心が、一生懸命自分を着付けている維月の頭を見て、言った。「これはまたどうなっておるのだ…ほう、こちらの髪がこっちに回ってこちらの髪はここからか…。」
維月はそれでなくても常より細かい着付けに必死で、維心が何を見ていても気にしている暇は無かった。
「このようにお美しい維心様と共に並ぶのですから、常とは違った型でなければと。ではこちらのお着物に御手をお通しくださませ。」
維月は、若干疲れて来ながら最後の着物を維心に示した。維心は、言われるままにそれを着て、再び維月が細い帯を回すのを見ていた。ちなみに、神世では帯は細い物が多く、基本結び目は前だ。
「この型にあの簪ならこことここに挿したら良いのでは。維月、簪の大きな物はこの結びとこの間に…」
維月は、必死に帯を締めながら、踏ん張っている状態だったので、とりあえず頷いた。
「はい。少しお待ちを、もう終わりますので。」
やっとのことで終わった着付けにホッとしていると、侍女が草履を持って来て足元に揃え、維心はそれに足を通してそれは凛々しいいで立ちになった。
「では、私も上の着物を着て参りますわ。すぐに戻りますので。」
維月が出て行こうとすると、維心はその手を握った。
「待たぬか。ここへ持って来させよ。簪は我が挿す。場所を決めたい。」
維月は、足を止めた。たまに維心はこんなことを言い出すので、侍女達は弁えていてサッサと着物や簪、頚連や額飾りを取りに、維月の部屋へと向かう。
維月は、いつもの事なのでフッと肩の力を抜くと、侍女が手早く準備した側のスツールに腰掛けた。
「維心様ったら…もうお客様も大広間でお待ちだと聞いておりますのに。後は上の着物と簪や頚連などだけですけれど、これ以上お待たせするのは気が咎めますわ。」
維心は、首を振った。
「待たせておけば良いのよ。簪を挿すだけであるのに、そう時は取らぬ。」
侍女達が急いで着物を着せかけて、帯を前に回して必死に結び目を作る。維心の帯より、維月の帯の方が両端が幅広で飾り結びが出来るようになっていて、その凝った結び目を必死に作っていた。
それを気にも留めずに、維心は背後で、塗りの箱の中に並べられた簪を一つ一つ手に取っては、維月の髪に挿して行く。
「額飾りはどういたしましょうか。」
維月が言うと、維心は額飾りが入った箱の方を見て、それを手に取った。
「我が。」そうして、後ろへと鎖を回すと、簪を器用に挿してそれを留めた。「良い感じよ。これを作らせて良かったの、やはり龍王の石は主が身に着けねば。広い世で主しか身に着けることが許されておらぬ石なのだからの。」
維心は満足そうだが、維月は急いでいた。なので頷いて、急いで頚連を自分で手に取った。
「では、これを着けて、私の準備は終わりですわ。」
維心は、それも制して自分でその頚連を手に取った。
「そのように…袖が重うて手が回らぬであろうが。我が。」
維心は、どこまでもマイペースだ。
維月はもう、客を待たせることには諦めて、そうして維心が満足するまで、簪だの飾りなどを調整して、やっと王の居間を出たのだった。