王子様と婚約者
エイミーは平民として生まれ、祖父母に育てられた。しかし、ある日突然、父親を名乗る人物が現れた。エイミーは伯爵令嬢になり、貴族の子女が通う王立学園に通うことになってしまった。
平民の幼馴染たちはエイミーを囲んで騒いだ。
「王立学園には王子様も通っているのでしょう」
「王子様が元平民を相手にしてくれるはずがないじゃない」
「でも、エイミーはこんなに可愛いんだもの、王子様だって恋に落ちてしまうかも」
「王子様には婚約者がいるはずよ。下手に近づいたらきっと虐められるわ」
「そこを王子様が助けてくれて、愛が深まるのよ」
「なら、エイミーは将来は王族ね」
幼馴染たちが「きゃあ」と声を上げてはしゃぐ姿を見ながら、エイミーは笑った。
「そんなこと起こるはずないじゃない。貴族様たちの世界に馴染めるようせいぜい頑張るわ」
そうして幼馴染たちに見送られ、エイミーは迎えの馬車に乗り込んだ。
学園生活は想像以上に大変だった。同級生と仲良くなりたいが、貴族令嬢としてのマナーを知らないエイミーを周囲は白い目で見た。
その中でも特にマナーについてエイミーにきつく言うのは、公爵令嬢のソフィアだった。
「何と汚い言葉を使っていらっしゃるの」
「もっと静かに歩けないの」
「礼をするときの指先が揃ってなくてよ」
ソフィアは成績は学年首位。整い過ぎて冷たく見える顔は、めったに表情を変えなかった。常に落ち着いた声も冷淡に聞こえた。
ソフィアは昼休みには学食でエイミーの隣の席に座り、今度は食事作法を細かく注意した。
ある日、エイミーのナイフの使い方に目を光らせていたソフィアの向かいの席に、ひとりの男子生徒が腰を下ろした。
「やあ、君がエイミーだね。初めまして、僕はギルバートだ。近頃、僕の婚約者が仲良くしてもらっているみたいだね」
彼の美しい顔に浮かんだ煌めくような笑みに、エイミーは息を呑んだ。
ソフィアの婚約者のことは、エイミーもすでにあちこちで耳にしていた。一学年上のギルバートこそエイミーの幼馴染たちが噂していた「王子様」、この国の第二王子だった。
「は、初めまして、殿下。ソフィア様には大変お世話になっております」
「そう? 迷惑ならそう言って構わないんだよ」
「とんでもありません」
エイミーが慌てて首を振ると、すかさずソフィアが口を開いた。
「首を振るにしてももっと小さく、ゆっくりと」
「はい、申し訳ありません」
ふたりの様子を見つめるギルバートの目が細くなり、笑みが深くなった。
この日から、ギルバートがエイミーの前にしばしば姿を現すようになった。
何となく、物事が良くない方向に進んでいるのではないかと、エイミーは危惧した。
ある時、エイミーは同級生たちに囲まれた。彼女たちは口々に言った。
「エイミー様、ギルバート殿下に近づくのはおやめなさい」
「あの方はソフィア様の婚約者ですのよ。後で泣くことになりますわ」
「私も分かっております。ですが、ギルバート殿下の方が私に近づいて来るのですわ」
エイミーが咄嗟に反論すると、同級生たちの言葉はさらに強まった。
エイミーへの嫌がらせが始まったのは、それからすぐのことだった。
持ち物を隠されたり、教科書やノートに落書きをされたり、いつの間にか制服が汚されていたり。
そのたびに、ギルバートがエイミーを励ますような優しい言葉をかけてくれた。さらに、少し離れた場所からソフィアが冷たい視線を向けていることにもエイミーは気づいた。
エイミーは悩んだ。犯人は明白だ。ただ証拠がない。相手の持つ権力を考えると、下手に動けば何をされるか分からない。
そうして、とうとうエイミーは階段から突き落とされた。近くにいたギルバートが急いでエイミーを助け起こしてくれた。幸い、数段しかなかったのでエイミーは擦り傷だけで済んだ。
エイミーは覚悟を決めた。これ以上黙っていては今度こそ大きな怪我をするかもしれない。
ちょうど良いことに、ソフィアから呼び出された。約束の放課後、学食に行くと、ソフィアと一緒にギルバートの姿もあった。
ソフィアが口を開いた。
「わざわざ来ていただいてありがとう。怪我はもう大丈夫かしら?」
「はい、もともと大した怪我ではありませんでしたから」
「それなら良かったわ。ところでギルバート殿下、これ以上エイミー様に近づくのはやめていただけるかしら? エイミー様がまた怪我をしたら困りますから」
ソフィアが落ち着いた声で言った。
「なぜだい、ソフィア? 最初に彼女と仲良くなったのは君だろうに。君が親しくする相手とは、僕も親しくしたい」
「親しく? 本当にただ親しくなさるだけだと仰るのですか?」
「もちろん、そうだよ」
ギルバートの煌めく笑みを見て、エイミーは思い切って言った。
「もう私に嫌がらせをするのはやめてください」
途端にギルバートの視線が尖った。
「僕の婚約者が君に嫌がらせをしていると言うのか?」
「いいえ。エイミー様はあなたに言ったのですわ、ギルバート殿下」
ソフィアの声が一段と冷たくなった。エイミーは頷いた。
「ソフィア様の仰るとおりですわ」
ギルバートの美しい顔が歪んだ。
「僕がやったという証拠があるのか?」
「それは……」
エイミーは言い淀んだが、ソフィアがきっぱり言った。
「もちろんですわ。エイミー様の教科書の落書きと、あなたにいただいたお手紙の文字、癖がそっくりでしてよ」
ソフィアはエイミーの教科書と、ぎっしり文章の綴られた便箋を両手に持って、ギルバートに向けてかざした。エイミーにもその文字がよく似ていることが見て取れた。
だが同時に、ギルバートの手紙を見てしまっていいのかとも思った。一瞬だけでも、「愛しいソフィア」「早く僕のものにしたい」「君の瞳に他の人間が映ることが許せない」などという言葉が並んでいるのが読めてしまった。
「それに、エイミー様が制服を汚された時も、階段から落とされた時も、近くにいたのはあなただけでした」
ソフィアが言うと、ギルバートの体がブルブルと震え出した。
「ソフィアが、ソフィアが悪いんじゃないか! 僕には君だけなんだから、君だって僕だけであるべきだ」
「あなたは王族なのですから、皆さまと仲良くするべきだといつも申していますでしょう」
「ソフィアは誰とでも仲良くしすぎだ」
そう、ソフィアは見た目とは違って優しく温かい人だった。ソフィアのおかげでエイミーは少しずつ貴族らしい振る舞いができるようになり、同級生たちに受け入れられていった。
同級生たちはエイミーに親切な忠告をしてくれた。ソフィアの婚約者には気をつけなさい。あの方はソフィアのことしか考えていない。下手に近づくと虐められる、と。
それはエイミーにもすぐに分かった。ギルバートはソフィアのことを愛しさいっぱいの瞳で見つめる一方、エイミーには笑みを見せながらもその目には嫉妬がありありと浮かんでいた。
「そのうえ、そんな平民出身の女にうつつを抜かして僕を蔑ろにするなんて」
「せっかくこんな可愛らしい方が同級生になったのに、仲良くして何が悪いんですの?」
そう言いながら、ソフィアがエイミーをこれ見よがしに抱きしめた。ギルバートが目を剥いた。
「僕が抱きしめようとした時には、結婚するまでは駄目だと言ったくせに」
「それも常識ですわ。ギルバート殿下、これ以上エイミー様と私の仲を邪魔するおつもりでしたら、婚約はなかったことにさせていただきますわよ?」
「そんなの嫌だ!」
「でしたら、私はエイミー様とずっと仲良くしていきますから、そのおつもりで」
ソフィアの腕の中で彼女の楽しそうな声を聞きながら、エイミーは密かに溜息を吐いた。
親切な同級生たちはこうも言っていた。ああ見えてソフィアもギルバートを愛している。彼にだけは意地悪してしまうくらいに、と。
ソフィアと仲良くなれたことはエイミーにとっても嬉しいことだった。しかし、彼女の婚約者にはこれからも迷惑をかけられるに違いない。