【予行練習】
「アリサトさま、ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
小さなテーブルの向かい側、うどん入り鍋を完食したユリアさんが日本式に手を合わせる。
その仕草を眩しく思いながら眺めた俺はお決まりの挨拶をした。
このアパートで一人暮らしを初めて早三年。一人で食事をする機会がめっきり多くなって、食前食後に手を合わせることなんて殆どなくなっていた。
だというのに、この国では暮らしていないであろう女神さまのユリアさんはきちんと手を合わせて感謝の気持ちを表明している。女神降臨サービスが真っ黒であることは夕飯前のやり取りで既に分かっているが、日本に降臨させる女神にはマナー講習でも受けさせているのだろうか。もしそうだとすれば、行き届いているのかいないのかさっぱり分からない機構だ。
『女神降臨サービス』とは結局何なのだろう。そんなことを考えていると、不意にユリアさんの顔が曇った。
「どうしたの?」
「おいしい寄せ鍋をご馳走していただいたにもかかわらず何も手伝えず申し訳ありません……」
「ああ……」
またこの話題か。
相槌を打った俺は苦笑を浮かべた。
女神降臨業務中の女神さま――ユリアさんは、食事を必要としない。システムはよく分からないが、食べなくても大丈夫なのだそうだ。
しかし、俺の方から「一緒に食べよう」と提案して、ユリアさんも三食取ることになった。
俺が料理をして、ユリアさんに食べてもらう。俺がそう提案したのだから、当然俺に異存はない。――ただ、ユリアさんはそうは思わなかったらしい。主に、自分が料理をしないという点で。
(そうは言ってもなあ……)
ユリアさんには手伝わせられない。
ユリアさんが女神さまだからではなくて――料理を作ったことがないから。
うどん鍋を作るにあたり、ユリアさんは「自分も何か手伝いたい」と言っていたのだが、結局手伝ってもらうことはなかった。一切料理をしたことがない相手に手伝ってもらうべきことが何もなかったからだ。
天界の仕組みであるとかエレクシス家がどのような家柄であるかとかは、正直分かっていない。まだ訊いていないから知りようがない。ただ、ユリアさんが割とお嬢様育ちであることだけは何となく察した。この年齢で――俺はユリアさんの歳もまだ知らないけれど――一度も料理をしたことがない人は、多分そう多くないだろう。今時男だって一人暮らしだ何だで簡単な料理くらいはするものだ。
「せめてお皿洗いだけでも……」
「いいよ、気を遣わなくて。別にそういうつもりで一緒に食べてるわけじゃないし、それにユリアさんの仕事は明日からだし……」
「ですが……」
「……じゃあ、明日から手伝ってくれる? 先生になれるほど大したものは作ってないけど、一応自炊はできるから」
「ぜひお願いいたします!」
酷く申し訳なさそうなユリアさんに提案すると、食い気味の返事が返ってきた。さすがユリアさん、今回の女神降臨業務が初めてだけあってやる気がケタ違いだ。
「他にも何かお手伝いできることがあればおっしゃってくださいませ。微力ではありますけれど、アリサトさまのお力になりたく思います」
――ああ、眩しい!
ただでさえ眩しいユリアさんが後光を纏っているように感じた俺は意味もなく小鍋の中を見つめた。明日から一か月間はこれが毎日続くのだと思うと嬉しいんだか苦しいんだか分からなくなる。
「うーん……じゃあ、お風呂のお湯を入れてきてくれる? さっき教えた通りにすれば大丈夫だから」
「はいっ!」
俺が頼むと、ユリアさんは喜々として浴室に向かった。言い方は悪いが、ボールを投げられた犬のような喜び方だ。もっと適切な言い方をするとすれば――大人に褒められたくて一生懸命頑張っている小さな子供のような喜び方だろうか。
やれやれ。微笑ましい気持ちになった俺は食後の茶を淹れるべく立ち上がった。一人だとつい億劫になってしまうことも誰かがいると左程苦にならなくなるから不思議だ。
「アリサトさま、お湯を入れてまいりました」
「ありがとう。はい、お茶」
輝かんばかりの笑みを浮かべて戻ってきたユリアさんに、先程と同じ湯呑を手渡す。中身は勿論、玄米茶だ。
「さっきも言ったけど、あとでお風呂入ってね。ユリアさん専用のシャンプーとかボディソープとか用意するから」
「申し訳ありません。アリサトさまのお力になるべく降臨したわたくしがお手数を掛けてしまい……」
「気にしないで。……有意義な1500円プラスアルファの使い道だと思うし」
そう答えると、ユリアさんは不思議そうな顔をした。どうやら1500円で降臨したことは知らないらしい。――これで『降臨した女神さまの給料が1500円説』は消えたわけだ。
「ところで、ユリアさんって替えの服持ってる?」
「はい。業務にあたってこれと同じ服を支給されております」
「そういうのじゃなくて、普通の服。人間の女の人が普段着てるような……」
「普通の服、でしょうか?」
疑問に思ったことを尋ねると、ユリアさんは小さく首を傾げた。
「いえ、持っておりません。この服があれば事足りますので……」
「そっか……。じゃあ、明日一緒に買いにいく?」
「え?」
俺の提案に、ユリアさんが目を瞬かせる。何故そんなことを提案されているのか分からないといった表情だ。
「その、良かったら別の服に着替えてもらえないかなと思って。なんていうか、もうちょっと……うん……」
――もうちょっと、露出の少ない服を着てほしい。
女性への耐性がない俺には目の毒だから――。
本当はそう言いたかった。
でも、言えなかった。
自覚はあるといえども、自分がクソみたいな生き物であるということを口にするのはやはり憚られる。第一、情けなさで爆発しそうだ。
「――そう、朝晩は冷えるかもしれないし、長袖の方がいいと思うんだ。女の子は身体を冷やしちゃいけないんだって俺の妹も言ってたよ」
「まあ……!」
何とかもっともらしい理由を引っ張り出すと、ユリアさんは感嘆の声を上げた。琥珀色の綺麗な目は「アリサトさまはなんてお優しいのでしょう」と考えていることを告げている。――本当は俺の不純な動機が原因だというのに、聖人君子みたいになってしまって非常に居心地が悪い。
「お気遣いありがとうございます、アリサトさま。重ね重ね申し訳ありませんが、明日はよろしくお願いいたします」
「うん、任せて。――って言ってもどういうお店がいいのかあんまりよく分かってないけど、ショッピングモールまで行けば何でもあるだろうから。ショッピングモールは知ってる?」
「はい。見たことはあるのですが、行ったことは……」
「だったら丁度良かった。女の人にとってはかなり楽しい場所らしいよ、あそこ。俺は一時間くらいで映画館か本屋かゲーセンに逃げちゃうけどね」
はは、と笑いながら昔を思い出す。
正月に帰省した時、ショッピングモールへ行くことになった。母親と妹は勿論のこと、俺も丁度買いたいものがあったから同席したのだが――開始一時間で買い物が終わり、残りの二時間、大変暇を持て余すことになった。
(女の人ってなんであんなに買い物が好きなんだろうな)
男の俺にはさっぱり分からない。でも、ユリアさんと一緒なら三時間滞在しても楽しめそうな気がする。
(――って、何考えてんだ)
俺はユリアさんの友達であって恋人ではない。だというのに、何を彼氏面しているのだろう。思い上がりもいいところだ。
「アリサトさま?」
「ごめん、何でもない。……お風呂のお湯が溜まるまで時間あるし、今のうちにドラッグストア行こうかな。ユリアさんも一緒に行く?」
「はい!」
想像の中で彼氏面をしてしまった自分に情けなさを覚えた俺は、伸びをしながら立ち上がった。その様子を見たユリアさんも弾むような返事をしながら立ち上がる。――何となく誘ってしまったが、こんな格好でドラッグストアに行って浮かないだろうか。
(――絶対に浮くな)
ドラッグストアはおろか、ショッピングモールですら浮くだろう。単なる『肩ひも付きオフショルダー』ならともかく、『肩ひも付きオフショルダードレス』は絶対に浮く。ユリアさんは並外れて美しいから尚更だ。
「……ドラッグストア行くついでに服も買おうか」
「ショッピングモールには行かないのですか?」
「行くよ。行くけど、ショッピングモールに行く為の服が要るからね」
「はあ……」
何の為の服を買うか説明すると、ユリアさんはよく分からないと言いたげに目を瞬かせた。でも、この際ユリアさんの理解は必要ない。今日のところは適当な服を買って、明日ショッピングモールでユリアさん好みの服に着替えてもらえばそれで良いのだから。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
依然不思議そうな表情のユリアさんを引き連れた俺は、スマートフォンを片手にまっすぐ玄関へと向かった。
明日に控えた『友達としての買い物付き添い』の予行練習も兼ねて。




