【俺は女神さまを望まない】
「め、がみ……?」
本物?
混乱状態に拍車が掛かった俺は、目の前に立つ美しい女性をただ見上げることしかできなかった。
もしかしたらこれは夢なのかもしれない。というより、多分そうだろう。いや、そうであってほしかった。仕事こそしているとはいえ、ただえでさえ非社会的な生活を送っているのだ。これ以上ややこしい事態になるのは困る。ああ、でも何だかいい匂いがする……。
「あの……」
「…………」
「すみません……」
「…………」
「我が主……」
「…………」
「――失礼します」
「……うわあっ!?」
「きゃっ!」
何か温かいものが肩に触れ、心底驚いた俺はびくりと身体を震わせながら声を上げた。不可解な事態から目を逸らそうとするあまり注意が散漫になっていたようで、つい過剰な反応をしてしまった。
「す、すみません! 勝手に触れてしまって……」
そんな俺の反応に、同じく心底驚いたらしい彼女は深々と頭を下げた。その拍子に淡いピンクの髪が優雅に揺れ、先程感じたいい匂いがふわりと漂う。――ああ、彼女は本当に実在するのか。未だ混乱した頭が、けれど事実を認識する。
目の前に存在する彼女は、コインに描かれていた時よりもずっと柔和であり、華々しく、そして本当に美しかった。やや丸い輪郭には垂れ目気味ながらもぱっちりした目と鼻筋の通った小さめの鼻、そして形の良い唇が絶妙なバランスで収まっていて、整った美というものを体現している。両耳の上に着けられた花のヘアアクセサリーは俺が想像していたよりずっと繊細なデザインで、同じく繊細なデザインの服に――服に疎い俺の知識が正しければ『肩ひも付きオフショルダードレス』なるものに――よく似合っていた。そして、ウエストの辺りまで伸ばされた髪は、色白の肌によく似合う桜色だ。耳の辺りから掛かり始めた緩いウェーブは華奢な彼女の魅力を十二分に引き出している。
「い、いや、あのっ……」
まるで絵画から抜け出したかのような彼女を目の当たりにし、言葉を上手く発せられなくなった俺は酷く不明瞭に答えた。
「お、俺の方こそ、その、申し訳ないっていうか……すみません……」
「いえ! 我が主が謝ることなど、何も! 何もございません!」
「あ、あの……その『我が主』っていうのは……?」
何やら意気込んでこちらを見つめにくる琥珀色の目から視線を逸らしながら尋ねる。
女神降臨だか何だか知らないが、そもそも俺はこの『サービス』について全く知らない。ガチャガチャ本体にもカプセルの中にも説明などなかったし、第一、たった1500円で女神が人間のもとに降臨するなど馬鹿げているだろう。そんな安い金額で下界に降りて来るのでは神の名折れだ。――ビジネスで自宅に出張してくれるお姉さん方だってそんな値段では来ない。割に合わないから。
「えっと……事前に聞いておりませんか?」
「……すみません、全然分かってないです。三十一日? がどうのとかは、聞いたんですけど……」
困ったような、けれどその表情が凄く可愛らしい彼女に向かって軽く頭を下げる。彼女が本物の女神であるかどうかはともかく、俺のせいでここに来ることになったであろうことは確実なのだから。
「――かしこまりました。それでは改めてご説明させていただきますので、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「お願いします。えっと……ユリア……」
「ユリアフィールド・エレクシスでございます」
「……ユリアさん」
柔和に微笑む彼女をちらちらと盗み見しながら名前を覚える。――ユリア。ユリアフィールド・エレクシス。元々人の名前を覚えるのは苦手な部類だが、耳馴染みのない名前を覚えるのは殊更苦手でいけない。
「わたくしたち『女神降臨業務』の女神は、降臨期間である三十一日間の中でわたくしたちを購入してくださった方と交流することを主たる目的としております。そして三十一日間は購入してくださった方がわたくしたちの主なのです」
「ああ……そういうことか。……あ、いや、そういうことですか」
ついタメ口になってしまい、言い直す。
俺は神話やら神々やらについて全然詳しくないし、現代を生きる神というものがどういうふうに暮らしているのかなど知る由もない。日本にいるとされる八百万の神のことすら殆ど知らないのだから、西洋の神を知らなくても別に恥ずかしくはないだろう。ただ、彼女には――ユリアさんにはユリアさんなりの職務があり、その為に俺のところに来たのだとすれば納得がいく。――一か月間拘束された挙句1500円というのはやはり腑に落ちないが。
(神々の大いなる慈善事業的な……? もしくは消費者側の購入費用と給料は全く別とか……)
できれば後者であってほしいと、そう思う。女神であれ人間であれ、給料はちゃんと貰うべきだ。モチベーションのことも考えれば、ボーナスも貰っていてほしい。
「我が主、わたくしには敬語を使わないでくださいませ。それではわたくしの立場がありません」
「そう言われても……」
初対面の相手を呼びタメにするのは気が引ける。その相手が女神なら尚更だ。
「お願いいたします、我が主」
「…………。分かった。これで、いいかな?」
「はい!」
「でも、その代わり……その、我が主って呼び方はやめてほしいんだ。俺はユリアフィールドのことユリアさんって呼ぶから、ユリアさんは俺のこと有里さんって呼んで?」
「アリサトさま、でしょうか」
「うーん……まあいいか。じゃあ、それで」
説得を諦めた俺は早々に妥協した。何せこれから大事な話があるのだ。名前の呼び方くらいでぐずぐずしているわけにはいかない。
「えっと、ユリアさん」
「はい、アリサトさま」
「こっちが呼んだのに申し訳ないんだけど……帰ってもらっていいかな?」
「……え?」
俺の言葉の意味を理解するのに、数秒。その直後、琥珀色の目が大きく見開かれる。形の良い唇は薄く開いていた。
俺だって申し訳ないことをしていると思っている。知らなかったこととはいえ、わざわざ呼びつけておいて「帰って」なんて許されないことだ。もし俺が上司から同じことを言われたらぶん殴りたい気持ちに駆られるのは間違いない。
しかし、俺にはユリアさんに帰ってもらわないといけない事情がある。
(こんな美女と三十一日も一緒にいられるかよ……!)
――そう、俺は女性というものに耐性がないのだから。
勿論、女性は好きだ。最近はとんと縁がないけれど、高二の時は彼女だっていた。――「頼りない」と二週間も経たないうちに振られた経験を「彼女いる歴」にカウントすればだが、彼女がいたことに間違いはない。とにかく、俺が言いたいのは「女性に耐性がなさすぎてとんでもないことをしてしまうのが怖い」ということだ。
ぱっちりとした二重の目、血色の良い頬、柔らかそうな唇、オフショルダーから僅かに覗く白い肩口としなやかな腕、レース素材に隠された谷間ができる程度の胸、ウェディングドレスのような服の裾から覗くほっそりとした足……。こんな女性が三十一日も傍にいたら良からぬ勘違いをしてしまいそうで、怖かった。男というものは自分に優しくしてくれる女性を好きになってしまったり「もしかして俺に好意があるんじゃ?」と自分に都合良く受け取ってしまったりするクソみたいな生き物なのだから、女性に耐性のない俺はきっと盛大な勘違いをしてしまうだろう。――まあ、彼女の場合はあまりにも美しすぎて変な気持ちにはならないと思うが。というより、女神相手に何かして天界の怒りを買うようなことは絶対に避けたい。もしもそんなことになってしまったら、俺の生命はおろか、下手をすれば日本の存亡さえ危ぶまれる。
「俺、女神さまが降臨するなんて知らなかったんだ。だから呼ぼうと思って呼んだわけじゃないっていうか……その、1500円は返さなくていいから、クーリングオフしてもらえないかな」
「そんな!」
クーリングオフを申し出ると、ユリアさんが悲痛な声を上げた。変な気持ちになりたくないという俺の気持ちを知ってか知らずか、澄んだ琥珀色の目は潤んでいる。
「わたくしにご不満があるのでしょうか!?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「でしたらどうか三十一日間お傍に置いてくださいませ! 降臨したその日に返されるなど姉上方に顔向けできません……!」
ずい、と距離を詰めたユリアさんは両手で顔を覆うと嗚咽を漏らした。上がる声は悲しみに満ち溢れている。――なんだこの状況。俺が悪いみたいじゃないか。いや俺が悪いんだけどさ……!




