4話「狐の愛?」
「美穂とネアラは何を話していらしたんですの?」
あたしとネアラが戻ってくると若藻が最初に言ったのはそれだった。
「あなたの妖力が暴走していたことについてもう少し詳しいことと美穂の魔力について話をしていた」
ネアラは簡単にそれだけ答えた。情報が少ないだけで嘘ではない。
「わたくしの妖力の暴走についての詳しいことってなんですの?ただ単にわたくしの意志とは関係なく美穂を魅了しただけではなかったんですの?それも、弱い力で」
「実は若藻は普通の人では抜け出せないくらいの妖力で美穂を魅了してた。それに、若藻は自分自身も魅了していた」
「わたくしが自分自身も魅了していたんですの?」
若藻が驚いたのはそっちのことの方だった。心の片隅であたしはあたしの魔力について驚いてほしかったな、と思っていたので少しだけがっかりしてる。
「先ほどから感じていた美穂に対するこの感情はそういうことだったのですわね」
「……え?」
若藻の言葉にあたしは驚いてしまう。そして、知らないうちにあたしの足が半歩下がっていることに気がついた。
若藻があたしに対してどういう感情を持っているのかってことはわからなかった。だけど、なんとなくこの場にいてはいけないような雰囲気を若藻は醸し出している。
あたしを見ている若藻の顔はうっとりとしているようなそんな感じだ。若藻に口づけをされたときのことがフラッシュバックした。
逃げよう、と思って体を反対側に向けようと思ったけれど、それよりも早く、
「み〜ほ〜」
「うわわっ!」
いきなり若藻に抱きつかれた。
「ふふっ、わたくしの美穂がこんなに近くにいますわ」
「ちょ、ちょっと、若藻、落ち着いて。そ、それにあたしは若藻のものじゃないよ」
「それならば、今から美穂がわたくしのものになればいいんですわ。もう、主従の関係なんてどうでもいいですわ。いえ、いっそのこと主従の関係を逆転させればいいんですわ」
そんなことを言って若藻がゆっくりと顔を近づけてくる。
「自分自身を魅了に巻き込んだ後遺症だと思う。あのとき目の前にいた美穂を好きになってしまったんだと思う。……ちなみに、好き、というのは恋愛感情としての方」
あたしたちの様子を見てネアラがそんな解説を入れる。
「ネアラは冷静に見てないで助けてよっ!」
あたしはそう叫んでた。
若藻はあたしよりも力があるみたいで逃げようにも逃げられない。だからといって、このままだといろいろと大変なことになってしまうと思う。
「大丈夫。美穂は九尾の妖力に耐えれるくらいの魔力があるから、どうにかすることができるはず」
ネアラはそんな助言をくれただけだった。
「そんなこと言わないで!」
「そんなにいうなら別に助けてあげないこともない。だけど、ここで私が助けたら美穂が若藻と二人っきりになったときにどうしようもないと思う。だから、これは、若藻から逃げるための練習だと思って」
確かにそうだ。若藻の飼い主となったあたしは若藻と二人っきりになる時間なんていくらでもあるはずだ。そんなときに若藻に襲われたらあたしはどうしようもないと思う。
本当に危なくなったら助けてくれるはず、そう思ってあたしは自分を落ち着ける。
そして、先ほど弓矢をイメージした時のように今度はあたしと若藻との間に壁をイメージする。でも、うまくいかなかった。
そうこうしているうちに若藻が顔をあたしの顔に近づけてくる。
そんな状況を確認したあたしは若藻を拒絶するようにあたしと若藻との間に壁を創り出した。いや、むしろそれがあるということを感じた。
「あ、あら?」
若藻の顔はあたしの目と鼻の先で止まっていた。どうやら、それ以上は近づけないようだ。そして、それと同時にあたしの体にも触れることができなくなっていたようでいつの間にか若藻はあたしを抱きしめてはいなかった。
あたしはほっとして胸をなで下ろす。これで失敗してたらどうしようかと思ってた。
それと、今のでどうやって魔法を使うのかってことがわかった気がした。ただ、漠然とイメージするだけだと足りない。
強く強く、何があっても崩れないようなイメージを作らないといけない。
……そういうふうに理解するのは簡単なんだけど実践するのは難しいんだよね。弓は上手じゃないとはいえ毎日触れているし、記憶の中の弓を構えたお母さんがイメージを助長してくれる。
さっきの壁なんかは追い詰められてそれしか考えられなくなっていた。
たぶん、弓以外はさっきみたいに本当に追い詰められた時じゃないと使えないような気がする。
「美穂は結構イメージするのが上手」
「こんなにギリギリでも?」
今なお、あたしに顔を寄せようとする若藻を指さしながら聞く。
「魔力が安定するほどのイメージを持つのはすごく難しい。壁なんていうのは特に意識しないものだからイメージしにくい。だから、私はなにも起きないものだと思って見ていた」
「もしかして、ネアラはあたしたちのことを見て楽しんでたの?」
あたしはネアラのことをジト目で見ながらそう聞く。
「さあ、どっちだと思う?でも、美穂に早く魔力の制御に慣れてほしいってのも本当」
「のも、ってやっぱりあたしたちのこと見て楽しんでたんじゃん」
「よく気がついた。そういう細かいところに気がつくのは大切なこと」
あたしは何かを言い返そうとしたけど、ネアラには何を言っても無駄なような気がしたので、はあ、と一度だけ大きなため息をつくだけにした。
「美穂、ため息をつくと、幸せが逃げてしまいますわよ」
やっとあたしに近づくことを諦めたらしい若藻がそう言う。少しだけ息が上がっている。
「それってよく聞く言葉だけど本当のことなの?」
九尾の狐である若藻が言うと本当のことっぽいけど、一応聞いてみたかった。
「普通の人からしてみれば単なる迷信」
若藻とネアラ、どちらに答えてもらってもよかったんだけど答えてくれたのはネアラだった。
「だけど、魔力が高い人だと無意識のうちに幸運、というものをはじく壁を作り出してしまう。幸運っていうのは存在が薄いものだから負の感情を受けた魔力に簡単にはじかれてしまう」
「ということは、あたしはため息をつくと本当に幸運が逃げちゃうってこと?」
「そう。それと、逃げる、っていう表現は正しくない。はじくとか飛ばす、とかの方が正しい」
そんな細かい表現の違いなんてどうでもいいんだけど。
とにかく、魔力が高いらしいあたしはため息をつくたびに幸運を逃がしてしまうらしい。これからはため息をつかないように気をつけないと。
「はあ」
そう思った途端にため息が出てきてしまった。ため息をつかないように意識するなんて気が折れるな、と思った結果だった。
下手をしたら悪循環が起きてしまいそうなので、これ以上このことについては考えないようにする。
「もし、幸運を集めたいときは楽しい気持ちになって笑えばいいですわよ。ため息一回で減る幸運の量よりは少ないですけれど幸運の量が増えることは増えますわよ」
ため息で幸せが逃げていくなら、逆に楽しい気持ちで笑えば幸運が寄ってくるっていうのは納得できる。
「好きな人が隣にいるのも効果的ですわよ」
若藻があたしの顔をじっと見ながら言う。なんとなく若藻の言いたいことがわかって顔をそらす。
若藻と一緒にいると笑う回数よりもため息をつく回数が圧倒的に多くなるような気がする。
そう思ったらまた、ため息をつきそうになった。今度は意地で出さないようにしてみせた。
もうこれ以上この話を続けたくなかったので別の話題を振る。
「そういえば、九尾の狐、って何を食べるの?」
「人間が食べるものでしたらなんでも食べますわよ」
「でも、外部から妖力を取り込めれば何も食べなくてもいい。たとえば、美穂の魔力を取り込むことでもいい。私のお店で売ってる魔力を込めた水を飲ませる方法もある」
若藻の言葉だけを聞けば普通の生き物とあんまり変わらないんだな、と思える。だけど、ネアラの言葉からだと普通の生き物とは違うんだな、とも思える。
「わたくしはあんなの嫌ですわよ。ここに来てから毎日毎日水だけで飽きてしまいましたわ。わたくしは味気のある美味しいものが好きなんですのよ」
うんざり、という表情を浮かべて若藻は言った。考えてみると嫌かも、お腹が減らないとはいえ毎日水しか飲めない生活なんて。
「それは心外。私は一か月に一度だけどちゃんと味気のするものをあげてた」
「一か月に一度だなんてないに等しいですわよ!」
「言ってくれないからわからなかった」
「わたくしは妖力を封じられていたせいで言葉を発することができませんでしたのよ。その状態でどうやってあなたにわたくしの意志を伝えろとおっしゃるのかしら?」
少し怒りの混じった声だった。
「あなたが頑張って私に意思を伝える方法を手に入れればよかった。例えば文字を書くとか」
対してネアラの口調は至極、冷静なものだった。どんな強風も気にしない巨木、といった感じだ。
「はあ……。なにを言っても無駄そうですわね。それに、これからは美穂に食べさせてもらえるでしょうから昔のことは気にしませんわ」
何を言っても動じないネアラとは口論をしても無駄だと思ったようで若藻はネアラに対して何かを言うのを諦めてしまう。傍から聞いていた感じ若藻が伝えたいのは自らの不満だけでそれ以外に伝えたいものはなかったようだ。それなら、諦めるのがベストな選択だと思う。
「というわけで、美穂はわたくしに何か食べさせてくれるかしら?」
若藻は期待で輝いている瞳をこちらに向ける。
今の若藻からは大人っぽいという雰囲気は消えていて逆に子どもっぽさがにじみ出てきている。
なんだか断りにくい雰囲気だ。まあ、もともと、断る理由もないあたしは、
「うん、いいよ。それなら今から何か食べに行こうか」
と、答えた。同時にどこに行こうかな、と考える。
「なんだか、どっちが上の立場なのかよくわからない」
ネアラがぽつり、とそんなことを言った。
「そんなこと言われても、あたし自身、上下関係っていうのがよくわかんないんだよ。だから、そんな関係は作れないんだと思う」
あたしの所属している弓道部は部員が少なく各学年の生徒が二人いるかいないかだ。そんなふうに少人数だからなのか上下関係、っていうのは作られてなくってみんなほぼ対等の立場となってしまっている。
そして、中学校の頃はどこの部にも入っていなかった。だから、あたしは上下関係、というのを実際に感じたことがなかった。
「そうですわよね。わたくしたちは対等な立場ですわよねっ」
若藻がいきなり抱きついてこようとした。あたしはとっさにあたしと若藻の間を隔てる壁を強くイメージした。
そして、無色透明な壁が出現し若藻は見事それにぶつかった。
「ひどいですわよ、美穂。それとも、照れてるのかしら?」
どうやら、魔力によって出現した壁に物理的な硬さはないようで若藻は全然痛そうにしていなかった。
若藻の言葉を無視したのは故意だ。あんまり意識しすぎて反応を返すと若藻の行動が激化してしまうかもしれない。
「それじゃあ、ネアラ。あたし、そろそろ帰るね」
若藻に反応しない代わりにそう言った。
「わかった。……あ、そうだ。魔力の水はどうする?美穂が魔力を使いすぎた時に必要になるかもしれない」
「……?それって、どういうこと?」
「魔力を使いすぎると、体力を使いきった時みたいに体に力が入らなくなる。そんな状態になると、下手をすると死ぬ事があるかもしれない」
「え……?」
ネアラの口から何の気なしに出た死ぬ、という言葉にあたしは思考が一瞬だけ停止してしまう。
「死ぬ、って、ほんとに?」
「嘘を言っても仕方がない」
やっぱり、ネアラの口調は平然としたものだった。でも、あたしにとっては脅し文句のようにしか聞こえない。
しかし、魔力うんぬんに関してはネアラの言ったことを鵜呑みするしかあたしには方法がない。だから、
「そ、そうだね。買っておくよ。どれくらいするの?」
制服のポケットの中から財布を取り出しながら強張った声であたしは聞く。
「五百ミリリットルで三百五十円。一リットルので六百円。どっちにする?」
思ったよりも高かった。水に魔力を入れるのが難しいからだろうか。それとも、別のところで扱ってないから希少価値がついちゃってるからだろうか。
まあ、どちらにしろ、ネアラに脅されて、それにあたしが怯えている以上、買う以外の選択肢はない。
「じゃあ、一リットルの方で」
「わかった」
ネアラは近くの商品棚の方へと行く。その間にあたしは五百円玉と百円玉を出しておく。
そうしていると、ネアラが手に大きなペットボトルを抱えて戻ってきた。
「これが、魔力の水」
ペットボトルの中には綺麗な青色の水が入っていた。ペットボトルに入っていることによって何かのジュースのようにしか見えない。
あたしはネアラにお金を渡すとペットボトルを受け取る。そして、あたしは驚いた。ペットボトルいっぱいに水が入っているのに全然重くなかった。
「全然、重くないんだね」
「そう。魔力は実際にはほかの物質に混ぜられるようなものじゃない。だから、無理やり混ぜた場合は周囲の物質の重さを奪って魔力自身が重さを持とうとする。だけど、魔力の重さが現実化するってことはないから結果的に重さが軽くなる」
なんだか化学の話みたいだった。
「まあ、ここまで詳しく知ってても意味がないからとりあえず魔力が込められた物質は軽くなる、ってことだけ知ってて」
ネアラの言ったことは大体は理解できたんだけど、確かに覚える必要はなさそうだ。
「美穂、もしあなたが倒れたりしたらわたくしが優しく、口移しで飲ませて差し上げますわよ」
陶酔しきったような表情でこちらを見ながらそんなことを言う。ありがたさなんて全くなく、むしろ身の危険しか感じることができない。
「絶対やめてね……」
力ない声で、それでも強い拒絶を表した。というか、これが精一杯だった。すでに、何を言っても無駄なんだろうな、というオーラが若藻から出てきてるし。
「ふふ、恥ずかしがる必要なんてありませんわよ」
恥ずかしがってるわけじゃないんだけどなあ。一人勝手な妄想で暴走してる若藻にはそんなことを言っても無駄だろう。
「……じゃあ、今度こそ、あたしは帰るね」
「わざわざ引き止めてごめん。帰るときは気をつけて。特にあなたの隣の狐には」
「……うん」
ネアラの言葉にあたしは疲れたように頷いて若藻とともにお店から出た。