2話「九尾の狐」
「美穂、落ち着いて」
ネアラのこの場にそぐわしくない、とても落ち着いた声を聞いてあたしはなんとか若藻を落とさずにすんだ。
「そのまま抱いててあげて」
「うん……」
あたしは静かにそう答えた。その声は自分でも驚くほどに落ち着いていた。
ゆっくりと光が収まっていく。あれほど強い光が店内を照らしたというのに動物たちは一匹も騒いでいない。むしろ、先ほどよりも静かになっている。
「え……?」
あまりにも目の前の光景が信じられなくてあたしは間抜けな声を漏らしていた。
だって、若藻の尻尾が九本に増えてたんだから。これで目の前の光景が信じられるっていうほうがあたしには信じられない。
「それで、契約は完了。美穂は無事にその子の飼い主になった」
驚いて声が出せないあたしは意味のわからないことを言ったネアラにこれ、なに?、と視線で問いかける。
「その子は九尾の狐。狐の妖怪の中では最上位の力を持ってる」
当たり前のことのように答えるネアラ。あたしは、慌てたように言う。
「ちょ、ちょっと待って、きゅ、九尾の狐ってあれだよね。こんな感じに九本の尻尾がある狐。それで、なんかふわふわしてて、あったかくって」
そうじゃない、あたしが言いたいのはそんなことじゃない。というか、後半の方は九尾の狐と関係ない。だけど、ありえないものを見せられて混乱の極みにいるあたしは自分の言いたいことを言うことができない。
「美穂、落ち着いた方がいい。私はあなたがなにを言いたいのかよくわからない」
とっても冷静なネアラの声が聞こえてくる。ネアラはどんな状況でも冷静でいられるんだろうな、と少しこの場に関係ないことを考え始めて――――
「これが、わたくしの御主人様ですの?どうせなら、かっこいい男性の方が良かったですわ」
傲慢そうな声があたしの腕の中から聞こえてきた。ネアラの声ではなかった。でも、だったら、誰の声なんだろう。
若藻がしゃべった、ってことはないよね。そう思いながらあたしは腕に抱いている尻尾が九本に増えた若藻を見る。
「はじめまして、ですわ。わたくしの御主人様であるあなたの名前はなんて言うんですの?」
うん、今、完璧に若藻がしゃべってた。口の動きと声のタイミングがぴったりだったから。
「って、え?え?えええっ?」
もう、驚きの限界量を超えてあたしはそうやって叫んでしまっていた。
「しゃ、しゃべったっ?わ、若藻がしゃべったっ!」
さらにもう一度。
「うるさいですわね。わたくしの御主人様は落ち着く、ということができないのかしら?」
「私のお店に来た人は大体、美穂みたいにすごく取り乱すか、呆然とする」
「わたくしの御主人様の名前は美穂、というのかしら?」
「そう。彼女の名前は美穂、っていう」
半分くらいあたしのことを無視して話をしているネアラと若藻。あたしはその光景を見て今度は呆然とする。
「美穂、しっかりする」
ネアラに声をかけられてあたしはやっと我を取り戻した。だけど、今だに状況を理解することができていなくて軽く混乱している。
「ネアラ、これは、どういうこと?」
とりあえず、ネアラならこの状況を説明してくれそうだ、と思ってあたしはネアラに説明を求めた。
「私のお店では妖怪とか魔物とか呼ばれる普通ではない動物を扱ってる。お店に並べてる時は本当の姿に一番近い動物の姿にしてある」
ネアラの言っていることがあまりにも非現実的すぎて簡単には受け入れることができない。
「御主人様は何を言われているのかわかっていないようですわよ」
「言われなくてもわかってる。でも、大丈夫。じきに理解していくはず」
また、ネアラと若藻が当たり前のように会話をしている。それを聞いていると、これは現実なんだ、という実感がわいてくる。
「……ほんとに若藻はしゃべってるんだよね」
「ええ、そういうことになりますわね」
あたしは腕に抱いている若藻と顔を見合わせる。
「美穂、見たままを、聞いたままを、感じたままを信じればいい。ここはそういう場所だから」
ネアラが言ったことの本当の意味はわからなかった。だけど、ネアラの言う通りなんだと思う。
目の前で若藻の尻尾が九本に増えたことも、若藻が口を開いてしゃべったことも、何故か若藻の名前があたしの中に思い浮かんできたことも、全て本当のことなんだ。
「…………これは、現実で起こってることなんだね」
小さくつぶやくようにあたしは言った。あたしに抱かれている若藻にさえ聞こえていなかったようだ。
でも、それでいい。今はこれが現実なんだ、って呟いたことでこれらのことが本当のことなんだと完全に実感することができた。
そして、少しずつ、心が浮かれてくる。退屈な毎日から抜け出せると、新しいことがあるんだ、と。
「あの、ご主人様、一人で笑っていると怖いですわよ」
そう言われてあたしは初めて自分が笑っていることに気がついた。
「あ、ご、ごめん。今からすっごく楽しいことが起こるんだろうなって思うと気持ちが高ぶっちゃって」
これはあたしにとっての何かの始まりなんだ。何が始まるかなんてのはわからない。だけど、何が始まるのかわからなくても、これから始まるそれが楽しいことなんだろう、くらいは思えた。
「?なんにしろ、わたくしのことを受け入れてくれた、ということですわよね?」
若藻はあたしの顔を見て不思議そうに顔を傾げた後にそう聞いてきた。
「うん。もう、大丈夫。……はじめまして、若藻。あたしの名前は美穂って言うんだ」
そう言ってあたしは若藻に笑いかけた。
「御主人様のお名前はネアラに聞かせてもらっていますわ」
「あれ?そうだったんだ。……というか、ご主人様、なんて呼び方、やめてくれないかな。あたしにそんな呼び方、似合わないよ」
「だったら、なんとお呼びすればいいかしら?」
「普通に美穂、でいいよ」
「わかりましたわ、美穂。これからはそう呼ばせてもらいますわ」
少し落ち着いたあたしはじっくり見ることの出来なかった若藻の姿を確認する。
ネアラは捕まえてきた、と言っていたけれどそう思えないほど若藻の毛は綺麗だ。もしかしたら、ネアラがちゃんと体を洗ってあげているのかもしれない。そして、更によくよく見てみれば若藻の瞳の色が赤色だということに気がつく。
「美穂、くすぐったいですわよ」
「あ、ごめん」
若藻の毛が綺麗に見えたから無意識のうちに若藻を撫でていてしまったようだ。
「若藻の毛がとっても綺麗だったからつい、ね」
「それは、嬉しい限りですわ。わたくしにとってこの毛は命の次くらいに大切なものですのよ」
「人間で言う髪の毛、みたいなものなの?あたしはそんなに気にしてないけど」
「それはいけませんわ。女と言うもの、髪の毛に気を使った方がいいと思いますわよ」
「う、うるさいなあ」
「あら、でも、美穂の髪は元がよさそうですわ。ですから、ちゃんとすればどんな男性も振り返らせることが出来るはずですわ」
「そんなこと言われても、あたし男の子には興味ないからなあ」
今まで恋愛とかは全然意識したことがない。意識するほど異性と関わったことがないからだと思う。
「も、もしかして、美穂には同性の方に気が……!」
あたしの腕の中にいる若藻が驚いたようにそう言った。
「そ、そんなんじゃないって。なんで、男の子に興味がないっていうだけでそういうことになるのっ!」
変な誤解をされたくなくてあたしは力強く若藻の言葉を否定する。
「そんなに強く否定すると肯定しているように聞こえる」
あたしたちの会話を聞いているだけだったネアラがそんなことをぼそり、と呟くように言った。
「ネアラは何をぼそっと言ってるの!」
「私はただ、思ったことを言っただけ」
無表情のままネアラは言った。無表情だから何を考えているのか、ということがわからない。
「美穂、わたくしを降ろしてくださいません?」
いきなり若藻が話しかけてきた。あたしは反射的に頷いて若藻をゆっくりと床に降ろす。
「なにをするつもりなの?」
若藻を床に降ろしてからあたしはそう聞いた。
「美穂が本当に男性の方に興味がないのか確かめるのですわ」
?、とあたしは首を傾げた。確かめるって、いったいどうやってだろうか。
「もしかして、九尾の力を使うつもり?」
どうやら、ネアラは何をするのかわかっているようだ。
「ええ、それ以外に何があるっていうのかしら?」
九尾の力ってなんだろうか。とりあえず、今から若藻がそれを使うのだから見ていればわかると思う。だから、あたしは若藻のほうを見ている。
若藻がゆっくりと眼を瞑る。そうすると、周りの何かが変わった。
何がどう変わったのかって聞かれても答えようがない。けど、何かが変わった。それだけは絶対だ。
そして、あたしが若藻の名前を呟いた時と同様に若藻の体が光そのものになる。しかし、今度は眩しくはなかった。
光が少しずつ大きくなり人間の形をかたどっていく。そして、
「美穂、わたくしのことちゃんとわかりますわよね?」
という声とともに光は写真集とかのモデルとして使われそうなほど整った顔立ちをした少年になった。
「え?わ、若藻?」
自信がなくて疑問形になってしまう。でもさっきまであの光は若藻であったわけだから若藻以外になっていることはないはずだ。
「そうですわよ」
少年――もとい、若藻が整った顔に微笑みを浮かべる。あたしは、その表情に見惚れてしまう。
「わたくしは自らの姿を好きなように変えることができるんですのよ」
そうなんだ、と感心していると不意に若藻があたしを抱きしめてきた。
「うわっ、い、いきなり、な、なにするの?」
あたしを抱きしめてるのは若藻だってわかっていても男の人に抱きしめられている、と思ってしまいとても恥ずかしい。
「本当に美穂が男の方に興味がないのかどうか調べるのですのよ」
美少年に姿をかえた若藻があたしの顔にゆっくりと顔を近づけてくる。
「ちょ、ちょっと、ま、待ってよ、若藻」
若藻が何をするのかわかったあたしは慌てて若藻を止めようとする。だけど、若藻は止まらなかったし思ったよりも力が強くて逃げ出せない。
少しずつ、少しずつ若藻の顔が迫ってくる。もう、どうしようもない、と思ったあたしは目を瞑った。
「やっぱり、男性の方に興味がありますわね」
思っていたよりも遠くの位置から声が聞こえてきた。そして、若藻があたしのことを放したことがわかった。
「そ、そんなことされたら、だ、誰だって取り乱すよ」
いつの間にか早鐘を打つように鳴っている心臓を落ち着けるように若藻に背を向けて何回か深呼吸をする。
「それも、そうですわね」
楽しむような若藻の声。
「じゃあ、次はこういうのとかはいかがかしら?」
さっきまで男の人の声だった若藻の声が今度は女の人の声に変わる。さっきまで口調と声の違いに違和感があったんだけどそれがなくなる。
「女性の方に対してはどのような反応をしてくれるんですの?」
ふわり、という擬態語が似合うように誰かが優しくあたしを後ろから抱き締めた。
「やはり、こちらの方がやりやすいですわね」
女の人、たぶん、若藻があたしの耳元で呟くようにそう言う。綺麗な髪特有のいい香りがあたしの鼻をくすぐる。
あたしはゆっくりと体の向きを変えさせられる。
そうして、今まであたしの後ろにいた若藻の姿を確認することができた。
まず、目に入ったのは奇麗な純粋な黒だけの髪。その髪はこの距離からはわからないけど結構長くのばされてるみたいだ。そして、あたしをじっと見つめる赤色の瞳とすごく白く綺麗な肌。そして、整った綺麗な顔立ち。
幻想的な姿だった。あたしは見惚れてしまっている。若藻のその姿に。
若藻がゆっくりと目を閉じる。そして、少しずつ、ゆっくりと顔を近づけてくる。
あたしは若藻を止めようとしたんだけど口が開かない。動こうと思っても思うように体が動いてくれない。若藻の醸し出す独特の雰囲気に飲み込まれてしまっている。
若藻の顔が近付いてきたからあたしは目をつむる。さっきみたいにどうしようもない、と思ったんじゃなくてそうしないといけないって思ったからだ。
静かになる。聞こえてくるのはあたしの心臓が脈打つ音だけ。
そして、あたしの唇になにかが触れた。その感触に驚いてあたしは目を見開いてしまう。
「――――っ!」
あたしはあまりにも予想外なことが起きて声なき声を上げる。
ほとんど密着するほど距離に若藻の顔がある。そして、唇には何か柔らかいものが触れている感触。
そこから、あたしに何が起きているのか簡単に想像することができる。
こ、これ、あ、あたしの初めてのキスだよっ!
そんなことを思っていると、口の中に何かが入ってこようとする感じがした。
「むーっ!むむーっ!」
口がふさがれて声が出ない。だけど、これ以上はだめ、という意識をこめて頑張る。
そうして、やっと若藻があたしの唇から唇を離してくれた。そして、あたしの体を放して自由にしてくれる。
「すみませんでしたわね。あまりにも抵抗がないものでしたらやりすぎてしまいましたわ」
妖艶な笑みを浮かべた若藻がそう言う。だけど、さっきのでどうしようもないほど気持ちが落ち着かなくなっているあたしはそんな言葉、耳に入ってこない。
若藻が少年の姿で迫って来た時よりも激しく胸が高鳴っている。
あたしは若藻に背を向けてお店のガラスを見てみる。そこに微かに映っているあたしの顔は赤くなっていた。
そんなものを見ていて自分の心が落ち着くはずもないのでガラスから顔をそらした。
「美穂は同性の方にも気があるんですわね」
あたしの姿を見てか若藻が楽しそうな声でそう言う。
「そんなことないと思う」
今まで若藻を止めもせずに見ているだけだったネアラが若藻の言ったことを否定した。
「あなた、さっき九尾の妖力で美穂を魅了していた。だから、ある意味でさっきの美穂は本当の姿ではなかった」
妖力なんて言葉が普通に出てくるなんてやっぱりネアラは普通の人なんじゃないんだな、とあたしは現実逃避がしたくてそんなことを思う。
「あら?わたくしはそんなつもり、ありませんでしたわよ」
「たぶん、久しぶりに力を使ったから力が少しだけ暴走したんだと思う。あなたは結構長い間、ここにいたから」
「……確かにそうかもしれませんわね。ネアラに捕まえられて二年くらいになるのかしら?」
「捕まえられた、とは人聞きが悪い。私は倒れていたあなたを助けてあげただけ」
「だったら、なんで二年間もケースの中に入れられて力も封印されないといけなかったのかしら?」
若藻のその言葉に若藻は本当はあたしに飼い主になってほしくないんだろうか、と思った。
「それは美穂を主人にしたくなかったってこと?」
「別にそういうわけじゃないですわよ」
あたしに飼われたくないとかそういうことじゃなかったようだ。
「じゃあ、もう気にしなくてもいい。結果がいいのに過程を気にしたらいけない。……でも、一応、答えておくとそれが私の趣味」
「……はあ、もういいですわ。確かにネアラの言う通り結果が良かったからもうこれ以上は気にしませんわ」
ため息をつきながら若藻はそう言った。
そして、不意に背後に気配を感じた。あたしは後ろに振り返ろうとしたけど、
「み・ほ」
と、いきなり耳元に息を吹きかけるように名前を呼ばれた。
「ひゃうっ!」
耳元のくすぐったさに驚いてそんな悲鳴をあげてしまう。そして、耳元でささやかれたことでさっきのことを思い出してしまい、わたわたと落ち着きがなくなってしまう。
「やっぱり美穂は面白いですわね」
くすくす、と大人っぽい笑みを浮かべている。若藻の姿はとても綺麗だからその笑い方はとても似合っていた。
「美穂」
いつの間にかあたしの隣に立っていたネアラがあたしのことを呼んだ。
「な、なに?」
これ以上若藻に何かされないだろうか、と落ち着いてはいないけどネアラの言葉に反応しておく。
「美穂の家系って何か特別ないわれとかあったりする?」
「え?いわれ?」
「そう。魔力が特別高いとか、幽霊と関われるとか、不思議な力が使えるとかそういうこと」
普段の会話の中でそんな言葉が出てきたらあんまり関わりたくない種類の人だな、と思うだろうけどここではそんな言葉も真実味を帯びる。実際に九尾の狐がいて目の前で姿を変えたわけだし。
だから、あたしはネアラの言葉をまともに受け取り、
「特にそういうのはないけど。……どうかしたの?」
まともに答えはしたけれどなぜネアラがそんなことを訪ねてくるのかがわからない。
「少し、気になることがあった」
「え?なに?」
「ちょっとこっちに来て。二人だけで話したい」
そう言うと、ネアラはあたしの腕をつかんで引っ張っていく。
「あら?お二人ともどちらに行かれるのかしら?」
「お店の奥。美穂と二人で話したいことがあるから若藻はそこで待っていて」
「なんの話か気になりますけれど。……まあ、いいですわ。ここで待っていますわ」
「ごめん」
ネアラは一言そう謝ると、再度あたしをお店の奥へと引っ張っていった。