20話「自嘲自虐」
眩しい、と思ってあたしは目が覚めた。
最初に視界に入ってきたのは真っ白な天井だった。首を左右に動かすとこれまた真っ白な壁が目に入ってきた。
ここがどこなのかあたしにはわからなかった。ベッドの上で横になっているんだろうな、ということくらいはわかる。
そんなことよりも、あたしは死ねなかったようだ。ほっとするような、残念に思うような複雑な心境だ。
体を起こそうとしてみる。だけど、全身から痛みを感じて小さく呻き声を上げてしまう。あの時麻痺していた痛覚を取り戻してしまったようだ。
「美穂?」
聞き覚えのある声が聞こえてきた。その声の主であろう人物が足早にこちらに駆け寄ってくる。
そして、視界にあたしのお母さんの顔が入り込んでいた。今までずっと心配していた、という表情を浮かべている。
「よかった。目、覚ましたんだ。もう、目を覚まさないかと、思ってた」
少し涙で霞んだような声。とてもあたしのことを心配してくれていたんだってことが容易に想像できる。
だけど、あたしが罪を犯した、っていうことを、あたしの中には醜い性格があるっていうことを知ったらどうなるんだろうか。
あたしを産んだことを育てたことを後悔するんだろうか、あたしのことを捨ててしまうんだろうか。
そう思うと何故だか絶望ではなく笑みが浮かんできた。
試してみて結果を知りたい、と思った。あたしが本当のことを言ってあたしがどうなってしまうのか、お母さんがどんな反応を示すのか、ということを。例えそれが後戻りのできないことだとわかっていても。
無意識に手は胸の前へと動く。だけど、そこには何もなくあたしの手は宙をつかむだけだった。
「あたしは―――」
お母さんに真実を告げようとした。だけど、その直前にお母さんに抱きしめられた。突然のことにあたしは言葉を途切れさせてしまう。
お母さんの体は微かに震えていることに気がつく。
けど、抱きしめられて傷が痛かった。最初はそうしか思わなかった。
「美穂、それ以上は言わなくていいよ。辛いだろうから、苦しいだろうから……」
その言葉を聞いて突然現れた驚きが痛みを上回った。お母さんのその口調は襲われたことを口にしようとした人を止めるそれではなかった。
あたしの自虐的な言葉を止める、そのための口調のように思った。
お母さんは知らないはずなのに。この事件の元凶は鎌鼬であるということを、それをあたしが殺してしまったということを。
「全部、ネアラ、っていう子から聞いたよ」
その一言であたしは何となく悟った。お母さんはあたしが不思議なことに関わったこと、鎌鼬とのことを知っているんだと。
「大丈夫、あたしは美穂のことを責めたりしないから。美穂のことを支えてあげるから安心していいよ」
優しく言ってくれる。だけど、あたしの心の中では黒い色をした何かが渦巻いている。
お母さんはあたしが罪を犯したことを知っている。それでも、お母さんはあたしのことを受け入れる、と言っている。だけど、あたしの中に醜い性格があるっていうのは知らないはずだ。
ネアラがあたしの自殺を止めた後のことはあまり覚えていないけれどこのことについては話していなかったはずだからだ。たぶん、ネアラも知らない。
あたしの口の前にお母さんの耳があることを確認する。それから、あたしは囁きかけるような声音で自虐の念を込めて言った。
「あたしの中には醜い性格があるんだよ」
直後、お母さんの体が強張ったように感じた。あたしは尚も続ける。
「それは殺すことを躊躇わない、殺すことを楽しむような性格なんだよ。あの鎌鼬を殺すときその『あたし』は笑ってたんだ」
自分で自分を貶める。その行為に何か快楽のようなものを感じる。そして、あたしは薄い微笑みを浮かべる。
どうせあたしはこんな存在なんだ。それなら堕ちるところまで自分を落としてしまえばいい。そんな暗い感情が芽生えてくる。
更に自虐のための言葉を呟こうとした。
「美穂、そんなに自分を追い詰めるようなこと、言っちゃダメだよ」
これ以上あたしに喋らせないようにするようにお母さんはあたしのことを強く、抱き締めた。
そして、実際にあたしは痛みでそれ以上喋ることができなかった。小さく呻き声のようなものを上げる。
「あ、ご、ごめん、美穂。大丈夫だった?」
強く抱きしめたらあたしに痛みを与えるってことに気がついたお母さんはあたしから離れた。
別に離れなくてもよかったのに。むしろ、あたしの体の傷が開くくらい強く抱きしめてほしかった。そして、それで死ぬ事ができればもっとよかった。
ネアラには死んじゃ駄目だって言われた。そして、あの時のあたしはそれに反対していなかった。
だけど、今のあたしからはまた死にたい、という気持ちが溢れ始めている。
ふと、今までとは違う感情の込められている視線を感じてあたしはお母さんの方を向いてみる。
お母さんはとても悲しげな表情を浮かべてあたしのことを見ていた。
ねえ、お母さんそんな顔で見ないでよ。そんな顔で見られたらあたし、どうしていいのかわかんなくなっちゃうよ。
死にたいのに。こんな自分を壊してしまいたいのに。そんな表情を浮かべてあたしを見るような人がいたら死にたいのに死ねなくなっちゃうよ。
そんなことを思っていたら不意にお母さんは立ち上がった。
「美穂……。お母さん、ちょっと外に、出てくるね……」
顔を俯かせてそう言った。そして、すぐにあたしに背中を向けてしまう。
「あ、そう、だ。あの、子から、お守りを、預かったから、そこの机に、置いといたから、ね」
途切れ途切れの今にも泣き出しそうな声でお母さんは言って部屋から出て行った。
あたしはお母さんの言葉を確かめるように部屋を見回した。そのときになってようやくここが病院の一室であるということに気がついた。
それから、すぐにお母さんの言っていたお守り、というのを見つけた。
それはネアラから貰ったセラフィナイトのペンダントだった。お母さんの言ったあの子、というのもネアラなんだと思う。
あたしは半ば無意識にそのペンダントへと手を伸ばしていた。そして、そのペンダントが指先に触れたとたん死にたい、という気持ちが薄れた。
鎌鼬によって切られたはずの鎖は綺麗に繋がれていた。ネアラが直してくれたんだと思う。
さっきよりも少しは冷静になった頭でもう一度部屋の中を見回してみた。そして、あたしは気がついた。お母さんが座っていた椅子の周りの床が濡れているということに。
それが涙、だということに気がつくのにそれほど時間がかからなかった。
誰の涙か、というのを考えるのは愚問だ。お母さんの流した涙、としか考えられない。
「おかあ、さん……」
あたしは小さくお母さんを呼ぶ。当然お母さんはさっきこの部屋から出て行ったばかりだから返事が返ってくるはずがない。
それでも、あたしはもう一度、お母さん、と呟く。やっぱり返事は返ってこない。
部屋の中がとても静かになってしまったように感じる。そして、あたしは無性に悲しさを感じた。
ごめんなさい、ごめんなさい、と心の中で何度も謝る。
あたしがあんなことを言ったせいでお母さんは悲しい思いをしてしまったんだ。あたしはあのとき自分の傷に塩を塗るような真似をせずただ、お母さんに抱きつき返して泣いていればよかったんだ。
あたしがあたし自身を傷つけるようなことをしてお母さんが悲しまないはずが、傷つかないはずがない。そんなことになんであたしは気がつかなかったんだろう。
本当に自分がどうしようもない人間のように思えてくる。だけど、今は死のうなんてことは思わなかった。その行為がどれだけお母さんを悲しませ、傷つけるかわかったから。
こんな、娘でごめんなさい……。
心の中で小さく呟いた。
ごめんなさい、ごめんなさい……。
一度、謝ると止まらなくなった。何から謝ればいいのか、何を謝ればいいのか、どれだけ謝ればいいのかが全然わからない。
だから、何度も何度も謝る。例え、許してもらえなくとも何度でも謝る。
「ごめんなさい……」
そして、気がつくと口に出して謝っていた。
悲しい、苦しい。
胸が締め付けられていく。
痛い、痛い……。
全てを堪え切れなくて、全てに耐えられなくて、あたしは泣いた。でも、誰にも泣き声を聞かれたくないから何度もせき込みながら嗚咽をこぼし続けた。