18話「博識なモノ」
気がつくとあたしの体はベッドの上に全身が乗るように横にされていて布団が掛けられていた。
いつの間にかあたしは寝てしまっていたみたいだ。今は何時だろう、と思って時計を見てみた。
あたしの部屋に置いてある時計はデジタル時計だ。それの液晶版に浮かんでいる数字は今が午前六時であることを告げている。
どうやらあたしはあのあと一晩眠ってしまったようだ。そのことに少し驚くと同時に納得もしていた。昨日はあんなことがあって疲れてたから当然かな、と。
コンコン、と突然何かの音が聞こえてきた。なんの音だろう、と耳を傾けてみる。扉をたたく音とは少し違う。だけど、それならなんの音なんだろうか。そう思うと再度コンコン、という音が聞こえてきた。
それで、その音がなんの音なのかがわかった。あたしは寝起きで少しぼーっとする頭のままで窓の方へと近づいていきカーテンを開いた。
窓の向こう側には九尾の狐、本来の姿をしている若藻がいた。先ほどの音は若藻が窓を叩いた音だったのだ。
あたしは、そこまで確認してから窓の鍵を開けて窓を開けた。
その瞬間に若藻が入り込んできた。若藻の九本の尻尾のうちの一、二本くらいがあたしの体に当たった。
でも、そんなことあたしは気にしない。若藻自身もそんなことは気にしないんだろうと思う。
そう思いながらあたしは若藻の方を振り返った。
あたしの視界に入ってきた若藻の姿はとっくにいつもの見慣れた人間の姿となっていた。それを確認すると同時にあたしの全身が勝手に警戒態勢を取る。
「久しぶりですわね。美穂」
「い、いや、久しぶりっていうほど離れてたと思わないんだけど……」
まだ完全に頭が起きていないから尻すぼみをする口調となってしまう。
「そんなことないですわ。わたくしにとって美穂のいない夜なんて永遠に感じましたわ」
若藻は寂しさを感じさせるような表情を浮かべる。そんな、大袈裟な、と思ったけど言葉にはしない。言ったところで今の若藻に届くとは到底思えないからだ。
「寂しかったんですのよ」
あたしの方に一歩、踏み出してくる。
「そ、そうなんだ……」
逆にあたしは若藻から逃げるように一歩後ろに下がる。
「そうなんですのよ。昨日は美穂のことばかり考えていて眠れなかったんですのよ」
また、一歩踏み出してきた。
「じゃ、じゃあ、早く寝たら、どうかな?」
一歩下がる。こうして話している間に頭は完全に起きた。
「そういうわけにはいかないんですのよ。わたくしの全てが美穂のことを求めているんですのよ」
二歩も進み出てきた。というか、その言葉はいろいろと危ない。
「あ、あたしはそんなことないんだけど」
あたしも二歩下がる。
「そんなことない筈ですわ。きっと、美穂の心の底に眠っているだけの筈ですわ」
また二歩も進み出てきた。
絶対にそんなことない、と思ったけど声にはせずにあたしはまず若藻が進み出たのと同じ数だけ後ろに下がろうとした。
だけど、無情にも後ろには壁がありあたしはこれ以上後ろに下がることが出来なかった。
「もう、逃げられませんわよ」
勝ち誇ったような、獲物を追い詰めたもののような表情を浮かべる。
うわ、もう逃げれないよ、と絶体絶命の危機を感じたあたしはいつものように魔力の壁を創り出そうとした。
「ひゃうっ!」
だけど、壁をイメージするよりも早く若藻はあたしとの距離を詰めて首筋に指で触れた。それに驚いたあたしはそんな声を上げながらその場に座り込みそうになった。けど、その直前に若藻に抱きしめられたのでそうなることはなかった。
ちなみに、魔力の壁は声を上げたときにイメージが霧散してしまったので創り出すことが出来なかった。
「やっぱり美穂はここが弱いんですわね」
言いながら若藻はあたしの首筋に指を這わせ続ける。そのせいであたしは体に力を入れることができない。それと同時にイメージを固めることもできない。
だけど、それでも、早く逃げないと、と思い少しずつイメージを固める。
そして、魔力が形を保っていることができるほどのイメージが固まった。それは泡のイメージだった。たぶん、昨日ネアラが使ったのが強く記憶の中に残っていたんだと思う。
魔力の大きな泡に包まれた若藻があたしから離れていく。体から力が抜けてしまっていたあたしは若藻という支えがいなくなった今、床にへたり込んでしまう。
「あともうちょっとだと思いましたのに……。駄目でしたわね」
がっくりしたようにため息をつきながらそんなことを言った。疲れ切ってしまっているあたしにとってそんなことはどうでもよかった。
力がある程度、戻ってきたところであたしは立ち上がる。それから、扉の方へと向かっていく。
「美穂、わたくしをここから出してくださいませんか?」
「このまま出したら若藻、また襲ってきそうな気がするからあたしが朝ごはんを食べた後でね」
「えっ?美穂、ちょっと待ってくださるかしら?わたくし、今日は朝ごはん抜きですのっ?」
若藻の言葉は無視してあたしは扉を開けて自分の部屋から出た。
だけど、あたしがリビングについたとき若藻は狐の姿でやってきた。たぶん、あたしがあの場所から離れてしまったから若藻を捕まえてた魔力の泡が消えてしまったんだと思う。
まあ、本気でずっとあのままにしておこう、って思ってたわけじゃないから別にいいけど。そう思いながらあたしは朝ごはんを食べ始めた。
その間にお母さんになんで、あのまま寝たのか、って聞かれたから、疲れたから知らない間に寝てた、って答えておいた。
嘘ではないはずなのに、何故だか嘘をついているような罪悪感を感じた。それは、黙っていることがあるからなのかもしれない。
「美穂、わたくしがいるんですからそこまで警戒しなくても大丈夫ですわよ」
あたしが身に纏う緊張感を感じ取ったのか、朝ごはんのときからずっと狐の姿のままの若藻がそんなことを言った。
「それはわかってるけど……やっぱり、怖いよ。いつ、襲われるかわかんないから」
周りを見回したりしているわけではないけどあたしは周囲を警戒し続けている。
「その気持ち、わからないでもないですけれど、ずっとそんな状態だと疲れてしまいますわよ。もう少し体から力を抜くべきですわ」
「う、うん、わかった」
そう返事をしたものの昨日の恐怖が頭の中にこびりついているせいで若藻の言う通りにすることはできなかった。
と、突然、あたしの太ももに何か柔らかいものが触れた。
「ひゃあっ!」
触られることに弱いあたしはそんな声をあげてしまう。それと同時に足から力が抜けてその場に膝をついてしまった。
「わ、若藻いきなり、なにするの!」
下がコンクリートだったので膝が痛かった、という気持ちも込めて若藻を非難する。
「美穂が自分一人では体の力を抜けないようでしたから手伝って差し上げたんですのよ。お望みならもっとやって差し上げますわよ?」
そう言って若藻は尻尾を揺らす。さっき、あたしの太ももに触れたのは若藻のあの尻尾だった。
「いいよ、もうしなくても」
そう言いながらあたしは立ち上がった。入りすぎていた体の力はいつの間にか抜けていた。少しだけ、気が楽になる。
「でも、ありがと。おかげで楽になったよ」
「お礼なんて別にいいですわ。その代わり、と言ってはなんですけれど―――」
「若藻は、学校まであたしについてくるんだよね!その姿のままのつもりなの?」
このまま若藻の言葉を聞くつもりのないあたしは無理やりそんなふうに話題をそらした。少しの間若藻は不満そうな感じだったけど、結局それ以上続けようとはせず、あたしの質問に答えてくれた。
「ええ、そのつもりですわよ。何か、問題があるかしら?」
「うん、その姿のままだと目立つような気がするんだけど」
学校では動物なんかがいるとかなり目立ってしまう。それに、狐はこの辺りでは結構珍しいので尚更だ。
「そう言われれば、そうですわね。……それなら、蝶の姿はいかがかしら?」
若藻の体が光となり小さくなっていく。そうして、現れたのは一匹のアゲハチョウだった。飛んでくるのかな、と思ったけど若藻は地面の上にいるままだった。
「どうしたの?」
不思議に思って聞いてみる。
「蝶の姿になったからといって空を飛べるわけじゃないですわよ。だから、わたくしを持ち上げてくださいませんか?」
蝶から声が聞こえてくる、というのはとても妙な感じがした。誰もいないのに声だけが聞こえてくるようなそんな感じ。
たぶん、若藻の姿が小さすぎるのと、蝶に口がないのが原因なんだと思う。でも、そう思うとどうやって声を出しているんだろう、ということになる。それも妖力の力なのかな?そう考えるのが一番それっぽい感じがしたのであたしは自分のその考えで納得することにした。
あたしはしゃがみ込んで右手を若藻の方へと差し出した。若藻はあたしの右手をゆっくり登る。あたしは後ろからそれの手助けをした。
若藻が手に乗ったことを確認したあたしは立ち上がる。
「これで、どうかしら?」
自らの全身を見せるようにその場で一回転する。
「うーん、ちょっと季節外れのような気がするけどいいんじゃないかな」
あたしの率直な感想を告げる。
「季節外れなんかではないですわよ。アゲハチョウは春の初めから秋の終わり頃までいるんですわよ。知らなかったんですの?」
そんなこと知らなかった。蝶っていうのは春にしか飛んでいないイメージしかなかった。
「先入観による知識と本当のことが違うことなんてよくあることですわよ。ですから、時には見方を変えたり、たくさんの情報を集めることが必要なんですわよ」
「若藻っていろんなこと知ってるんだね。あたし、そんなこと考えたことないよ」
あたしが今まで生きてきた中で先入観なんて言葉を使ったことなんてない。いや、あるけど、学校の現代国語とかの授業のときくらいだ。実生活の中で使ったことなんてない。
「生きてきた時間の長さの違いですわよ。生きている時間が長ければ長いほど必要な知識も必要じゃない知識も自然と増えていきますわよ」
当然のことであるかのように若藻は言った。若藻にとって知識がたくさんあるとかいうのはどうでもいいことらしい。
「美穂がわからないことがある、というのでしたら、なんでも、手とり足とり教えて差し上げますわよ」
だけど、人のために知識を使うのは好きみたいだ。いや、少し違うか。役に立ちたいと思う人の役に立つのが好きなんだと思う。いや、若藻の声音からそれも違うような気がする。下心から役に立ちたいと思っているような気がする。
ていうか、どうにかならないのかな、若藻のあたしに対するこの行動は。悪意があるわけじゃないっていうのはわかってる。こうなった原因が事故みたいなものだっていうのもわかってる。だから、簡単にどうにかなるものじゃない。
こういう行動をしないなら一緒にいても落ち着けるのに。時々見せる若藻の優しいお姉さんみたいな姿はあたしを安心させてくれる。
「美穂、立ち止まってどうしたんですの?早く行った方がいいんじゃないんですの?」
「あ、うん、そうだね」
考えることに集中していてこれから学校に行かなければいけない、ということを忘れていた。
「しっかりしてくれるかしら?」
今の若藻の言い方はお姉さんみたいな言い方だった。あたしはそのことに安心していた。