17話「事件」
制服に着替えたあたしは再度、家の前に立っている。
さっきフェンの創り出した魔力の階段を上って窓からあたしの部屋に侵入した。自分の家なのに正面からじゃなくて窓から入るというのは妙な気分だった。
でも、今のあたしは正面から家に入れる立場じゃないから仕方なかったといえば仕方なかった。
それから、制服を取り出してそれに着替えた。その間、フェンには外で待ってもらっていた。
なんであたしはわざわざそんなことをしてまで着替えているかっていうとフェンがあたしに言ったことを実行するためだ。
それは、予備の制服に着替えて学校に行っていた、と思わせることだ。
「じゃあ、俺は帰るな」
そう言ってあたしの隣に立っていたフェンが踵を返す。
「あ、うん。ありがとね、フェン」
あたしに声をかけられたからかフェンはその場で立ち止まってあたしの方を向いた。
「ああ、貸し一つだな。いつか、なんらかの形で返してもらうからな」
「う、うん。あたしができる限りのことならなんでもやってあげるよ」
微かに警戒心を抱きながらもあたしはそう言った。若藻といた時に若藻がいろいろ言ってきたって言うのが原因なだけで、別にフェンに警戒心を抱いているわけじゃない。なんというか、条件反射みたいなものだ。
「そうか。じゃあ、期待してるからな」
フェンは片手を振りながら歩き出した。あたしが警戒心を抱いているっていうことには気が付いていないみたいだった。
フェンが遠ざかっていく。門を出て右側に曲がっていってしまった。
それから、あたしは体の向きを反転させる。扉と向かい合う形になる。
自分の家に帰るだけだというのにかなり緊張してしまっている。こうやって制服に着替えているから何かを言われることなんてないはずなのに。
でも、いつまでも緊張に震えてここに立っている、というわけにはいかない。
うん、大丈夫、絶対に大丈夫、何か言われたりしない。そうやって自分に言い聞かせながらあたしは呼び鈴を鳴らした。
ピンポーン、という電子音が鳴り響く。
ばれませんように、ばれませんように、と心の中で祈りながらお母さんが出てくるのを待つ。
そして、がちゃり、という音がして鍵が外される。お母さんが扉を開けて顔をのぞかせた。
「あ、おかえり、美穂」
「う、うん、た、ただいま、お母さん」
何か言われたりしないかな、とびくびくしながら言葉を返した。
でも、とりあえず、今の段階では大丈夫みたいだ。気付かれてないみたい。
そうやって自分を安心させつつ家の中へと入る。
「美穂、外では何もなかった?」
靴を脱ごうとした途端にそんなことを聞かれた。あたしはぴたり、と動作を止めてしまう。
ま、まだばれたわけじゃない。だから、ここで止まったら怪しまれる、と無理やり思って黙りこくってしまわないようにする。
「な、何か、あった、の?」
不自然な口調になってしまった。気付かれないかな?気づかれたらどうしよう、と気持ちがどんどん焦っていく。
だけど、お母さんはあたしの口調が不自然だったとは気がついていないみたいだった。
「うん、この町で何件か殺傷事件が起こったんだって」
え?、とあたしはまた動きを止めてしまう。だけど、その理由はさっきとは違う。その事件はもしかして、という思いが駆け巡る。
無意識のうちにあたしはセラフィナイトのペンダントを握りしめていた。
「美穂、どうしたの?」
心配そうなお母さんの声が聞こえてきた。
「だ、大丈夫、どうもしてないよ。……それよりも、どういう、事件、だったの?」
鎌鼬に襲われたあのときのことを思い出して心が震える。事件と鎌鼬のことが関係あるとわかっているわけでもないのに何故だか何かの予感があった。だから、どんなことが起きたのか聞かないといけないと思った。
「全身に刃物で全身に傷がつけられて死んだ人が三人、見つかったんだって。それと、大きな血だまりもひとつ見つかったんだって。全部、同じ犯人の仕業じゃないかって言われてる。……怖いよね、この辺りでこんなこと起きるなんて。美穂も、気をつけるんだよ」
「そんなことがあったんだ……」
そう言いながらもあたしは上の空だった。意識が別のところに行ってしまっている。
お母さんからの話だけでは鎌鼬が関係しているのかどうかわからなかった。だけど、それ以前に鎌鼬のことを考えようとするとどうしようもない、抑え切れない感情が出てきてしまう。そのたびにあたしはペンダントを握る手に力を込めていく。
「美穂?」
怪訝そうなお母さんの声。それで、あたしは我に返った。
「あ、あたし、部屋にいるね」
「う、うん」
お母さんが戸惑ったように頷く。靴を脱いだあたしはその脇を通り抜けていった。
バタン、と音を立てて自分の部屋の扉を閉めた。いつもは出来るだけ音がならないように気をつけて閉じている。だけど、今日はいつもと気分を変えるため―――あの記憶の恐怖を部屋の中に入れないようにするように少し強めの力で閉めた。
視線はベッドの上へと向かう。そこにあるのはネアラが渡してくれて、さっきまであたしが着ていた白色のワンピースだ。
わざわざクローゼットから服を取り出すのも面倒くさいのであたしはそれに着替えることにした。
制服を脱ぐ、ワンピースを着る、脱いだ制服を綺麗にする、という動作をゆっくりと行って十分ほどで終わらせた。
その後に、あたしはベッドの上に腰かけた。椅子よりもこちらの方が座り心地がいい。だから、勉強する時以外はいつもここに座っている。
そこで、あたしは先ほどお母さんから聞いた話を考えようとする。
あのことについて考えよう、考えないといけない、と思う反面、鎌鼬に襲われたときの恐怖が蘇るから嫌だ、という思いもあった。
でも、結局あたしは恐怖に勝つことはできないから座ったままぼんやりと窓の外を眺める。
六月だとは思えないくらいに爽やかな青空が広がっている。あたしが今日鎌鼬に襲われただとか、殺傷事件が起こっただとか関係ないくらいに明るい青色だ。
はあ……。
知らずのうちにため息がこぼれていた。疲れからくるため息なのか、それとも、明るい青空を見ての感動のため息なんだろうか。あたし自身でも先ほどのため息の意味はわからない。
ただ、心が少し憂鬱な気持ちになっている、っていうのはわかった。
なんとなく首からぶら下がっているペンダントを握ってみる。それだけで、憂鬱な気持ちが薄れたような気がした。
今あたしの心を正常に保させてくれているのはこのペンダントだけだ。このペンダントを外してしまえばすぐに、というわけではないだろうけど心が崩れてしまう。
それは想像しただけであたしをとても不安にさせる。ペンダントを握る手にいくら力を込めても消えないくらいに大きい。
あたしはこれからどうなっていくんだろうか。まともに生きていくことができるんだろうか、と思ってしまう。
だけど、まともに生きていくことはできると思う。これ以上、今日のようなことに巻き込まれたりさえしなければ。
だけど、巻き込まれてしまうんだと思う。鎌鼬にとってあたしは狙いやすい獲物なんだから。
だけど、これからは外にいるときは若藻がいてくれる。もしかしたらそれだけで、鎌鼬はあたしを襲うのを諦めてくれるかもしれない。手を出しにくい、と思って。
だけど―――
そうやって、否定に否定を重ねていく。だから、楽観的な考えと悲観的な考えとを行ったり来たりする。
そういえば、と思う。なんで、鎌鼬はここに来たんだろうか。
ふと、あたしが言った言葉が甦った。
『それだと、ネアラのせい、というよりはあたし自身のせいって感じがするんだけど?』
これはネアラが自分が悪い、と言ったときにあたしがネアラに対して言った言葉。鎌鼬はあたしの魔力につられてこの町にやってきた。そして、その魔力を解放させたのはネアラだから、と言った。
それに対してあたしは先ほど甦った言葉の通りに言った。
あのときはそれほどこの言葉を気にしたりしていなかった。だけど、今はその言葉があたしの心に突き刺さってきた。
それは、殺傷事件が起きた、という話を聞いたからだと思う。
あたしのせいで何人もの人が死んでしまった。
まだこれらの事件が鎌鼬のせいだと決まったわけでもないのに勝手にそう決めつけて自分自身を追い詰めていってしまう。
あたしが悪いんだ。あたしが原因なんだ。
不安定になって弱ってしまっている今のあたしの心は負の感情へと転がりやすくなっている。あたしはあたし自身に苛まれている。
一瞬、視界が白くなり直後に吐き気を感じた。その不快によってあたしはあたしを苛むのを止めた。
あたしは吐き気を抑えるように荒い呼吸を何度も繰り返す。座っているのも辛くなってきて、あたしはベッドの上にそのまま体を横たえた。
白い天井が見える。荒い呼吸は今も続いている。
あたしの心があたし自身の精神的な攻撃に耐えられなくなった結果なんだと思う。人間というのは自分自身を本当の限界まで追い詰めることはできないのかもしれない。
そして、あたしは泣き出しそうになった。あたしはもう、どうしていいのかがわからない。心の中はもうぐちゃぐちゃだ。
だけど、ペンダントのおかげで泣き出すことはなかった。それはあたしにとってありがたかった。たぶん、今泣き出してしまえば大声をあげて子供のように泣いてしまうような気がする。そうすれば、お母さんがこの部屋に来てしまう。
それは、あまり好ましいことではない。誰かが隣にいてほしいとは思っている反面、あたしを心配してくれている人の姿を見たくなかった。理由はわからないけど、そう思っていた。
突然、あたしの視界が滲んだ。その少し後に顔の横を液体が流れていく感覚。
あたしは泣いていた。泣かないだろう、と思っていたけど自分が思っていた以上に心は色んな思いを抱えていたようだった。
それに気がつくと、もう、抑え切れなかった。
あたしは両方の目を右腕で覆い隠して声を殺して泣いた。