12話「一時の安心」
いい匂いがしてきてあたしは目を覚ました。
なんだか、頭がぼうっとする。寝起きだから、というよりは体の中に必要なものが足りないからのように感じた。
あたしはゆっくりと体を起こす。あたしの体にかけられていた毛布がするり、と落ちる。
「美穂、やっと起きたか」
横から誰かがあたしのことを呼んだ。声のした方へと顔を向けるとそこには人間の姿をしたフェンがいた。
「……ここ、は?」
まず口から出た言葉はそれだった。ここは、どこだろうか。なんだか、見たことがあるような気がする場所だ。とりあえず、あたしは布団の上で寝ていたらしい、と言うことくらいはわかる。
「ここは、ネアラの店だ」
フェンは短くそれだけ答えてくれた。あたしは、ゆっくりと首を動かしてみる。
確かにフェンの言ったとおりここはネアラのお店だった。お店、と言っても奥の部屋だけど。
「……美穂、身体の調子はどうだ?」
心配の色が滲んだ声。その言葉を聞いた瞬間に先ほどまであたしがどんな状況になっていたのかを思い出した。
自分の体を見てみると包帯が巻かれていた。そのことが更にあの状況を鮮明に思い出させる。
鎌鼬に襲われて体中に切り傷を刻まれた。あの時のことをあたしは思い出してしまう。
あの時に感じた恐怖が、痛みが、絶望が記憶としてだけれど蘇った。そして、もう大丈夫なんだ、という思いが出てきた。
まだ、体中が痛いけれど、もうあんな恐怖を、絶望を感じなくていいんだ。
そんな大きな安心が湧き上がってくる。その安心はあまりにも大きくて抑え切れなかった。
そうしてあたしは嗚咽を漏らす。せめて大声を上げないように頑張って感情を抑え込む。
「お、おい、美穂、痛いのか?」
フェンが心配そうにあたしの肩をつかむ。それのせいであたしが抑え込んでいた感情が溢れ出してしまった。
まだ、誰かに触れることができるんだ、まだ、誰かがあたしに触れてそのことを感じられるんだ。そう思ったことがあたしの最後の不安を取り払った。
溢れ出した感情でどうしようもなくなったあたしは体の痛みも無視してフェンに、抱きついた。何でもいいから、誰でもいいから抱きつかせてほしかった。
それから、あたしは声をあげて泣き始める。
本当に、痛かったし、怖かった。
あのまま、あたしの全部が終わってしまうんじゃないかって思ってた。
絶望しかあたしにはなかった。
だから、あのまま終わってしまおうかって思ってた。
でも、あたしはこうして生きている。まだまだあたしという存在は続いてる。
こんなにもどうしようもない安心は初めてだった。
どうやって抑えればいいのかわからない。本当にあたしはどうすることもできない。だから、あたしはこの安心を全部表に出してしまうことにした。
フェンはそんなあたしの背中を優しく撫でてくれた。それが、あたしの安心をより大きなものとした。
十分後ようやく、あたしは泣きやむことができた。
ゆっくりとフェンから離れる。
「フェン、ごめん、ね……。それ、と、ありが、とう」
泣きやんだばかりだからか声を出しにくかった。それでも、フェンには謝っておきたかったしお礼も言っておきたかった。
「別に、んなこと気にすんなよ。あんなことがあって怖かったんだろ?」
優しい口調でそう言ってくれる。見かけには似合わないけど、やっぱり優しい性格みたいだ。
「美穂、調子はどう?」
あたしが泣き始めてから少ししたときからネアラはあたしの隣にいてくれた。
「……体の所々が、痛いし、ちょっと体が、だるい、かな?」
あんまり心配させたくなくて大丈夫、と答えようと思ったけど今のあたしは誰がどう見たって大丈夫そうには見えない。そんなあたしが大丈夫、なんて答えたら余計に心配をかけてしまうかもしれない。だから本当のことを言った。
「本当にそれだけ?どこかが動かないとかない?」
そう言われてあたしは自分の体を見下ろして痛いのを我慢して少し体を動かしてみた。
「うん、大丈夫、だよ」
あたしは本当に大丈夫だということを伝えるように笑いながら答えた。
さっき、あたしは自分の体を見下ろしたときにようやく制服ではなくパジャマを着ていることに気がついた。
パジャマは青色の子どもっぽい色合いをしていた。でも、あたしが着ているパジャマもこんな感じのものだから抵抗は全然ない。
ネアラのかな?、と思ったけど、サイズはあたしにぴったりなのでそれはない、と思った。
「そういえば、あたしの荷物とあたしが着てた制服とは?」
今はあたしが着ているパジャマが誰のものかなんてどうでもいい。それよりも大切なのは先ほどあたしの荷物と制服だ。
「美穂の持ち物はちゃんとある。だけど、服はボロボロになってて着れるような状態じゃない。……一応、取ってあるけど、見てみる?」
「……ううん、いいよ」
「わかった」
わざわざボロボロになってしまった自分の服なんて見たいと思わなかった。また、あのときのことを事細かに思い出してしまいそうな気がしたから。
それに考えてみれば当たり前だ。体中にこれだけ切り傷を作られて服だけ無事だなんてことは普通に考えてありえない。
でも、制服はどうしようか。今はもう夏服の期間なので替えはあるけどお母さんになんて言えばいいんだろうか。
ネアラはあたしがそんなことを考えているとは露知らず、
「そうだ。美穂、お昼御飯、食べる?一応、美穂の分も作ったから」
と聞いてきた。あたしはネアラの言葉を聞いて空腹感を感じた。
今は制服のことなんてどうでもいっか。今考えていたってどうすることもできない。
「うん、それじゃあ、せっかくだから食べるよ」
「じゃあ、ちょっと待って。それと、フェンは机の用意をしておいて」
「ああ、わかった」
フェンはそう言って立ち上がると隣の部屋へと消えていった。隣の部屋に机が置いてあるんだろうか。
ネアラも台所へと戻ってしまった。あたしはぽつん、と一人、部屋に残される。
この家に住んでいる人間じゃないあたしがなにもしていないってことになんだか居心地の悪さを感じる。だけど、あたしの体は思うように動いてくれないから何かをしようとすれば逆に邪魔をしてしまうだけになってしまうかもしれない。
だからあたしは落ち着かない気持ちになりながらもおとなしく待っていることにした。
少し体の位置を変えると隣の部屋にいるフェンの姿が見えることに気がついた。何もせずに待っているのも暇だからあたしは準備をしているフェンの姿を見ていることにした。
不良っぽい姿をしているのに真面目に準備をしている、というギャップがなんだか微笑ましい。
そんなことを思っているとフェンは何かを持ってこちらの部屋に戻ってきた。
ゴト、と音がし、それはあたしの正面に置かれた。足の短い丸テーブルだ。
あたしの正面に置いたのはあたしのことを考えてのことだろうか。フェンは優しいだけじゃなくて気もきくようだ。
あたしはフェンの顔を見る。
「なんだよ、俺の顔をじっと見やがって」
不思議そうにフェンは首を傾げた。確かに、誰に見られれば気になるものだと思う。
「うん、フェンって気がきくんだな、って思って。ありがと、わざわざあたしの前に置いてくれて」
「そんなことでお礼なんて言うなよ。これぐらいは当たり前だろ?」
本当にそう思っているようでなんでもないことのようにそう言った。正直、そういうふうに言えるのはすごいと思う。
「ううん、あたしはそうやって出来るのはすごいと思うよ。……あたし、最初フェンを見たとき、怖い人かなって思ってたんだ」
「よく、そんなこと本人の前で言えるな」
「うん、だって、今までフェンのことを見てきたけど優しい人なんだってわかったからね」
「……そうかよ」
フェンはあたしから顔をそらしてしまう。あれ?ここで恥ずかしがるとは思わなかった。
なんだか、正直に思ったことを言ったこっちまでなんだか恥ずかしくなってしまう。
そのまま、あたしとフェンの間は沈黙で満たされてしまう。
「……ねえ、ちょっと思ったんだけど、フェンも若藻みたいにいろんな姿に変われるの?」
沈黙に耐えられなくなってそんなことを聞いていた。
「なんでいきなりそんなことを聞いてくるんだよ」
フェンはあたしの方へと顔を向ける。
「なんとなく聞いてみたくなっただけだよ。嫌なら別に話さなくてもいいよ」
そうは言ったけど本当に話してくれなかったらがっかりする。
「……まあ、別にいいか。話して困るようなことじゃないしな」
どうやら、フェンは話してくれるみたいだ。やっぱりみかけによらず優しい。
「とりあえず、結論から言うと俺が変われるのはこの姿だけだ。というよりも、九尾の狐が特殊すぎるんだよ」
「え?自由に姿を変えられるのって九尾の狐だけなの?」
「いや、そういうわけじゃない。九尾の狐は生き物の姿に変わるのが得意で、妖力をたくさん持った狸は無生物に姿を変えるのが得意だな」
「自由に姿を変えられるのはそれだけ?」
「ああ、それぐらいだ。俺みたいに妖力が高くても変わることのできる姿は一つだけだな。そんだけ、姿を変える、ってことは特殊なことなんだよ」
「へえ、そうなんだ。結構、表に出てる神話とか童話とかの話と同じなんだね。……あ、でも、なんで今はそういう妖怪の話って出てこないの?妖怪の数がかなり減ってるとか?」
「いや、別にそんなことはないぞ。ただ、今は魔力の高い人間が少ないから俺たちみたいな存在が見られるってことが少ないんだよ。魔力が低けりゃ人間の姿に変わってるのになんて気がつかないし、他の妖怪もできるだけ人間には見つからないようにしてる。けど、昔は魔力の高い人間がたくさんいたからそういう奴らに存在が気がつかれることが度々あったんだ。だから、書物にその存在が書かれ現代に伝えられたってことだよ。その書物の内容が本当のものか仮想のものか判断はされずに、だけどな」
あたしはフェンの話を聞きながら何度も頷く。学校の授業なんかよりも聞いていて何倍も楽しい。
今まで知ることの出来なかった世界に触れることができるからだと思う。それと、あたしの周りの人たちは絶対に知らないようなことを知っているからかもしれない。
あんまり意識したことないけど、あたしは周りの人と同じであることがあんまり好きではないようだ。
「二人とも、なんの話をしてるの?」
いきなりネアラの声が降ってきた。降ってきたと言ってもネアラの顔はそれほど高い位置にはない。床に座った状態でも少し上を向くだけでネアラの顔が見える。
ネアラは少し大きめのお盆を持っている。そこからいい匂いが漂ってくる。
「美穂が、俺に自由に姿を変えられるのかって聞いてきたから答えてやってたんだよ」
「そうなんだ」
ネアラはなんとなく聞いてみただけのようで興味なさげにそう呟く。それから、お盆を丸テーブルの上に置いた。
そこにあるのはスパゲティだ。ミートソースがかけられたものとカルボナーラがかけられたものの二種類がある。
「これってネアラの手作り?」
ネアラがそれぞれの前にお皿とフォークを置いていくのを見ながらそう聞く。
「そう。忙しくて適当に作ったものだから味はあまり保証できないかも」
そう言っているけど、どう見ても適当に作ったもののようには見えない。
「全然美味しそうだよ。適当に作ったようには見えないし」
「そう?でも、いつもは二時間ぐらい煮込んでいるものを今日は一時間ぐらいしか煮込んでないからあんまり味がしみ込んでないかもしれない」
「……料理にこだわりを持ってるんだね」
あたしは料理をしないからネアラの発言がどの程度の料理の技能を持った人のものなのかはわからない。だけど、ネアラが料理に対してプライドを持っている、ということは伝わってきた。
「別にそんなことはない。ただ、どうせ食べるなら中途半端なものじゃなくて本当に美味しいものが食べたいだけ」
そういうのがこだわり、っていうんじゃないかな、と思ったけど口にはしなかった。褒められるのが恥ずかしいからあんなことを言ってるんだと思う。あたしから少しだけ視線をそらしてるからそう思った。
ネアラはいつも大人っぽい感じがあるけど、こういう子供っぽいところもあるんだ。ネアラのそんな一面を見ることができて、少し嬉しかった。
「……何?」
「ん、なんでもないよ」
ネアラがあたしの顔を見る。対してあたしは、ネアラに笑いかけた。
「お前ら、話なんかしてないで早く食った方がいいんじゃないか?冷めちまうぞ」
いつの間にかフェンはひとりで食べ始めていた。フェンの握っているフォークにはミートソーススパゲティが絡まっている。
「たしかに。美穂、早く食べよう。あとで話したいこともあるから」
「うん、そうだね」
話したいことってなんだろう、と思ったけど食事の後に言うなら今聞かなくてもいいかと思い素直に返事をしネアラの作ったスパゲティを食べ始めた。