11話「鎌鼬」
制服を着て学校の鞄を持ったあたしは学校に向かって一人で歩いてる。若藻は付いてきたがっていたけど連れていくわけにはいかないのでお留守番していてもらってる。
ふと、あたしは視線を感じた。背筋に寒気のようなものを感じて体が勝手にぶるり、と震える。
怖い。そういう言葉が似合う視線だ。視線の主は見ない方がいいかもしれない。
だけど、そう言うわけにもいかないとも思う。何かがこのままその視線を無視するのは危険だと警告する。
だから、あたしは意を決して後ろを振り返る。
あたしの後ろに広がるのはいつものあたしの通学路。それと、奇妙な姿をした生き物が一匹。
基本的な姿はイタチなんだけど、前足の部分が鎌になっていて後ろ脚二本で立っていた。その姿は鎌鼬と呼ぶのがふさわしいように思えた。
その鎌鼬はあたしの方をじっと見ている。それはあたしに興味を持っているから、というようには見えなかった。
あたしをじっと見ているその鎌鼬の赤色の瞳と目が合う。その瞳にある光にあたしは恐怖を覚える。
若藻の赤色の瞳と目が合ったときも恐怖を覚えることがあるけど、それとは性質が違った。
なんていうんだろうか。あたしの中にある知識を総動員させて、殺意という言葉が浮かんできた。実際に感じたことはないけどあたしの知識にあるものとしてはそれが一番近いような気がした。背筋が凍えるような、そんな感覚を抱く。
そこで、あたしは自分の中に意識を向けすぎていたことに気がつく。鎌鼬の姿はいつのまにか消えていた。
え?どこに、行ったの?
いきなりのことにあたしは呆然としてしまう。ただ、それは間違った行動だった。もし、鎌鼬があたしの思っている通りの存在なのなら早く逃げないといけない。でも、心の中でもしかしたら何も起こらないかもしれない、とも思っていた。
そして、それは殺意を実際に受けたことがないあたしの誤った判断だった。
そのことに気がついたのはあたしの周りを風が巻いた瞬間だった。そう、吹いたのではなく巻いた。あたしの周りを囲むようにして風が吹いているのが地面から吹き上げられた土でわかる。
そして、直後にあたしは右手のあたりに鋭い痛みを感じた。右手の甲を見てみるとそこにはいつの間にか切り傷ができて血が出てきていた。
あたしはこの瞬間にはっきりと、ここから逃げないと危険だ、という恐怖を感じた。
だから、逃げようとした。だけど、思ったよりも恐怖は大きくて足が震えて思うように動けない。
そんなことをしているうちにあたしは鋭い痛みをまた感じた。今度は左足の腿の部分だった。生暖かい液体があたしの足を伝っていくのを感じる。その部分を見るような勇気は今のあたしにはない。
ただ恐怖しか感じることができない。これからあたしはどうなってしまうんだろう、という恐怖。もしかしたら、あたしはもう家に帰ることができなくなってしまうかもしれない。
次々とあたしの体に切り傷が生まれる。足、腕、肩、背中、頬……。ほとんど全身が切り刻まれていく。
痛い、痛い、痛い……。
全身の傷が痛みを発する。そんな中でもなお新しい傷が次々と生まれていく。
そして、こんな状況に陥っても、あたしは逃げなかった。逃げられなかった。
今まで感じたことのない恐怖が、痛みが、絶望感が体を動かす神経を麻痺させる。さらに、逃げたい、という思いでさえあたしの動きを縛り付ける。
怖い、痛い、逃げたい、逃げられない?
それだけがあたしの頭の中でくるくるとまわっている。今のあたしの思考には進展も後退もない。ただただ同じところをぐるぐると回るだけ。
だけど、本当に回り続けていくわけでもないみたいだ。少しずつあたしの意識は薄くなっていく。たぶん、血を流しすぎたからだと思う。今このまま意識を失ってしまえばあたしはもう目を開くことはなくなると思う。
それは嫌だと思った。思ったけど、どうしようもない。
これ以上、恐怖が大きくなるのは、痛みを感じるのは、絶望に潰されていくのは嫌だ。だから、あたしは諦めて目をつむる。
意識がゆっくりと沈んでいく。それに伴って痛みも小さくなっていく。少しずつ少しずつ、何も感じなくなっていって―――。
意識が完全に沈むその直前にあたしはあることを思い出した。そうだ、あたしは魔力を使えるんだった。
そう思った瞬間にあたしは目を開いた。意識はかなり薄れてしまっていて周りのことがよく見えなくなっている。それでも、いや、それだからこそあたしはイメージを固める。
あたしの周りを覆う壁を。あたしが傷つくのを防いでくれる壁を強く思い描く。
そうして、霞んだあたしの視界の前に魔力の壁が現れる。今まで増加する一方だった痛みが増加しなくなる。全身の痛みはまだまだあるけど、追い詰められて傷つけられるだけだったあたしにとってはそれだけで十分だった。
そして、そのことにあたしは安心してしまったせいか体から力が抜けていく。まだ、周りでは風が渦を巻いていて魔力の壁が消えてしまえば危ない、ということを示している。
あたしの意識がなくなったあとも魔力の壁が存在し続けるのかどうかはわからない。わからないからこそ、このまま意識を失うわけにはいかない。
だけど、その思いに反して血を失いすぎたあたしの体から力が失われていく。
そして、気がつくと地面に膝をついていた。つい先ほど、ぴちゃり、と水の跳ねるような音がしたからその時かもしれない。
あぁ、あたし、そんなに血を流してたんだ。これは、もし鎌鼬がここから離れたとしても助からないかもしれない。
さらに体から力は抜けていき、ついにあたしは地面の上に倒れてしまう。
べちゃり、という音がしてあたしの服が血を吸っていく。
不快感を感じるような余裕はなかった。意識が、遠のいていく。
「美穂……っ」
意識を失うその直前に誰かがあたしの名前を呼んだのが聞こえた―――。