10話「朝の受難」
「美穂、朝ですわよ」
声が聞こえてきてからあたしは光を感じた。それから、ゆっくりと目を開いて周りを見回す。
「おはようですわ」
九本の尻尾を持った狐――若藻があたしの前にやってきた。寝起きで少し寝ぼけているあたしは一瞬だけ若藻のことがわからなかった。
だけど、どうにか目の前にいる狐が若藻だ、ということだけは思い出した。
「うん、おはよう……」
意識してではなく、挨拶をされたから反射的に返した、という感じに挨拶をする。ゆっくりとだけど体を起こしてやっとあたしはある程度の思考力を持てるほどに頭が起きた。
いつもはこうなるまでにもう少し時間がかかるんだけど今日は若藻が声をかけてくれたおかげで早めに意識がはっきりとした。
「美穂は寝起きがいいんですのね」
「若藻が、いたからだと、思うよ……」
尻すぼみな口調になってしまう。朝が来るたびにいつもあたしはこんなはっきりとしない口調になってしまう。
「やっぱり、前言撤回ですわ。あまりはっきりしてない口調になってますわよ」
「それはわかってるよ……」
わかってるのに直せないっていうのがすごくもどかしい。
「でも、そんな口調も悪くはないと思いますわよ。美穂の可愛らしさがより一層深まると思いますわよ」
「そうかな……」
そう答えて少し大きめの欠伸をする。
「あまり、人前では欠伸はしない方がいいですわよ。……まあ、美穂は可愛いからいいんですけれどね」
若藻はそんなことを言ってる。朝でも若藻ってこんな感じなんだ、とまだ少し寝ぼけている頭でぼんやりと考える。
「あ、そうですわ。ひとつやり忘れてたことがありましたわ」
そう言って若藻の姿が白い光となる。若藻が何をしようとするのか予想が簡単にできたあたしは寝起きの割には素早い動きでベッドから降りようとする。ただ、それでも遅い。この遅い速度にもどかしさを感じる。
それでも、なんとかベッドの上から降りることができた。だけど、その程度では安心できない。重要なのは若藻から距離を取ることだ。
そう思って今度は扉の方へと行こうとすると、人間の姿に変わった若藻に後ろから抱きつかれ押し倒された。ここからだと顔が見えないのでどんな姿になっているのかはわからない。だけど、たぶん、長い黒髪の女の人の姿をしてるんだと思う。長い髪の毛があたしの頬に当たっているのがわかる。
「は、放してっ」
若藻に抱きつかれた焦りで完全に頭が起きたようだ。あたしの口調がいつものものに戻る。
「照れる必要なんてないんですのよ。わたくしに身を委ねてしまえば楽ですわよ」
「嫌だよっ」
朝なので叫ばない程度に声を抑えて若藻の言ったことを拒否する。昨日のあたしだったらすぐに魔力で作った壁を使って若藻をあたしから引き離しているはずだ。
「嫌なら、なんで魔力で壁を創り出さないんですの?」
あたしが何を考えているのかわかっているような若藻の問い。たぶん、単なる偶然だとは思うけど。
「昨日、魔力の使いすぎて倒れちゃったから使いにくいんだよっ。また、倒れたりしたくはないし」
そう、あたしは昨日、魔力の使い過ぎで立ち上がれなくなるほどの虚脱感に襲われた。
ああなってしまう、と実際に体験すると簡単には魔力を使えなくなってしまう。特に朝から魔力が尽きて動けなくなるなんてのは嫌だ。
だから、あたしは本当の本当に危なくなるまで魔力を使うつもりはない。
「そうなんですの」
呟くように言ってからふふ、と小さく笑う。少し不気味だがそれ以上に危険を感じた。
このまま正攻法で抵抗していても逃げられないどころか事態は悪い方へと進んでいく、と思ったあたしは奥の手を使う。つまりは、魔力で壁を創り出して若藻をあたしから引き離すことだ。
壁のイメージを頭の中に創り出す。そして、そのイメージが簡単には揺らがないようなものになったときにあたしと若藻の間に壁が現れた。正確には魔力の壁が若藻を持ち上げたと言う感じだ。
「美穂ー、わたくしたちはこんな冷たい関係ではなかった筈ですわよ」
あたしは若藻のそんな言葉を無視して床と壁の間から這い出る。なんで朝からこんなに疲れないといけないんだろう、と立ち上がってから小さくため息をついた。