感染の網 E
翌日の朝食の席。ボブズと一緒に朝食を取りに食堂に降りてきた僕は席に座るや否や両手を合わせた。「いただきます」の挨拶ではない。
僕は素早く古代語を唱える。
「アギー、何やってんだ?」
「練習だよ。練習」
僕は自分の右肩あたりに水球を浮かべる。さらにそこに毒を浄化する『ハイキュア』の魔法を重ねる。魔法の中心に魔力の核を練り上げて水を常に循環させれば、完全な球体となった水の塊のできあがりだった。僕はそれを宙に浮かべたまま朝食へと手を伸ばした。意識を宙に浮かんだ魔法に向けている間はその大きさは常に一定を保っているが、僕がパンを咀嚼するわすかな隙に水球は風船が膨らむかのように肥大化していった。
「おっと・・・」
僕はすぐに意識を魔法に集中して、水球の大きさを元の大きさに戻す。
「ふぅ・・・やっぱり難易度高いな・・・」
眉をしかめる僕を見てボブズは不思議そうな顔をした。
「練習って。お前もう水球は安定してるんだろ?」
「そうだけど。今、2個浮かべるのに挑戦中なんだ・・・でも、これが案外難しくて・・・」
2個同時に水球を浮かべるのは容易ではない。例えるなら右手で円を描きながら、左手で三角を描くような感覚に近い。両側に均等に意識を割くことなど易々とできるものではないのだ。2個のうち片方が不安定になれば、そちらに意識が向き、その間にもう片方も不安定になる。
何度か試行錯誤した結果、これは2個同時を練習し続けても意味がないとの結論に僕は至った。
「とりあえず、1個に『ハイキュア』をいれて、それをほぼ無意識に保てるようになるぐらいじゃないと、2個目は無理だと思うんだよね。だから、僕はこれから寝る時以外は常に治癒魔法を入れた水球を浮かべることにする」
「はぁ、なるほどね」
「ボブズもやってみたら?」
「あのな。俺はその魔法を出すだけで四苦八苦してるんだぞ。飯時ぐらい忘れさせろよ」
ボブズはサラダを皿に注ぎ分けながら顔をしかめる。その目元には黒い影が隈取りのように張り付いていた。昨日も夜遅くまでベクトールと魔法の練習に費やしていた。ザイラル先生の講義は明日。それまでに水球と『ハイキュア』を同時に使えるようにしておけという課題はやはりボブズとベクトールには大きなプレッシャーになっているようだった。
「でも、大分安定するようになってきたじゃない」
「お前がそう言ってもな・・・俺もあいつもまだ完璧には程遠い」
ボブズの言う『あいつ』とは、当然ベクトールのことだ。
「しかし、あの鉄面皮。まじでどうなってんだ?深夜過ぎても顔色一つ変えないんだぞ」
僕もその隣で2個目の水球に四苦八苦していたから知っていた。ベクトールは何度『ハイキュア』が失敗しようと、ボブズが何度失敗しようと眉一つ動かさずに練習を続けていた。魔法に向かう姿勢はもはや職人のそれだった。
「そのあたりはドワーフって感じだよね」
ベクトールには『立派な髭』がないのであまり御伽噺のような『ドワーフ』という見た目ではないが、その性格は間違いなく職人気質の『ドワーフ』だ。
「粘り強さと頑固さは世界一だ。あれがあるから糞熱い炉の前で12刻丸々耐えられるんだろうな。付き合わされるこっちはいい迷惑だ」
「でも、おかげで上達してきてるでしょ?」
「まぁな・・・」
ボブズは不機嫌そうな顔を隠そうともせずにため息を吐いた。
「でも、まだだ。俺の魔法じゃ、患者に投与するだけで精一杯になっちまう。将来的には水球にいくつか治癒魔法を追加しなきゃなんないことを考えると、先は長そうだよな」
「そうだよね・・・」
その為にも僕も練習を重ねなければならない。ラックは既に『ハイキュア』を投与したまま、ほとんど無意識的に水球を維持することに成功していた。まずはそこに追いつくことが目標だ。
「そういえば、僕は昨日あまり見てなかったけど、ベクトールの方はどうなの?『ハイキュア』は上達してる?」
「・・・ああ・・・そりゃな・・・」
「ん?」
ボブズの返答に少し間があった。言葉を濁すことなどほとんどないボブズにしては珍しい。僕はふと彼の顔を見た。ボブズは変わらず疲れた顔でサラダを頬張っている。だが、視線はどこか別の場所にあった。言いにくいことをあまり詮索するものではないだろうが、今日は好奇心の方が勝った。
「なにか問題でもあるの?」
「あ、いや・・・」
ボブズの口が真一文字に結ばれる。彼はしばらく話すかどうか迷っていたようだが、結局僕の圧力に負けて口を開いた。
「なんか、愚痴っぽくなっちまうんだけど・・・実はもうほとんど俺の水球が先に力尽きることはほとんどねぇんだよ」
「え?そうなの?」
2人の練習はボブズが水球を浮かべ、そこにベクトールが魔法を注ぐという方法だ。だいたいがどちらかが先に力尽きて魔法が霧散して最初からやり直しになる。
「じゃあ、ボブズは・・・もう練習付き合わなくてもいいんじゃ」
「・・・いや、それは・・・ここまで付き合って、俺が出来たから『はい、さいなら』ってわけにもいかないだろ」
なるほど、と僕は納得する。
今のボブズは相変わらず顔をそむけたまま。彼の火傷に覆われた顔の半分がこちらに向いている。おかげで表情などほとんどわからないのだが、彼の耳には血が上って若干緑がかっていることを僕は見逃さなかった。きっと、言いにくかったのは愚痴っぽくなるからではなく、単純に自分のしていることが恥ずかしかったのだろう。
「ボブズって、結構義理堅いよね」
「ほっとけ!」
ボブズはそう言って「やっぱ言うんじゃなかった」と呟く。
僕は自然と頬が緩むのを感じた。ボブズは少々言動が荒いところがあるが、決して内心が荒んでいるわけではない。
「くっそ・・・なに、ニヤニヤしてやがる!」
「べっつに?」
僕は唇の端に笑みを浮かべたまま、パンを豆のスープに浸した。
ボブズはしばらくそんな僕を忌々しげに睨んでいたが、ふと真顔になってある一点を見つめだした。
「どうかした?」
「ああ・・・なんだ・・・お前の水球、弾けるぞ」
「え?」
僕はふと自分の肩口に浮かんでいる魔法の水球へと視線を向けた。
「あ、ああっ!!」
僕が浮かべていた水球、その中で凄まじい勢いの渦が出来上がっていた。核を中心とした流れがほとんど激流の域にまで達している。今にも渦潮の轟音が聞こえてきそうな程だった。完全なる暴走状態だ。
「や、やばい!!」
慌てて、意識をそちらに向けるがもう勢いは止まらない。ボブズとの会話に夢中になりすぎた。
ボブズが素早く机の下に退避したのを傍目に見ながら、僕はやけくそ気味に両の手を打ち合わせた。
全集中力を持って血の中に流れる魔力を『水の精霊』への干渉に注ぎ込む。だが、加速を続ける水の流れを制御することはできない。まるで滝を逆行しているかのような抵抗力が僕の全霊にのしかかってきていた。
僕は既に魔法が抑えきれない領域に達していることを悟った。
水球は渦の白波で既に白い光を放ちだしていた。それが爆発寸前の爆弾に見えたのは僕だけではないはずだ。既に危険を察して僕の周囲から人はいなくなっている。
「た、退避!!」
僕は『水の精霊』への干渉を断ち切り、机の下へと逃げ込んだ。僕の身体が石造りの床に擦り下ろされるのと、水球が轟音を響かせて炸裂したのはほぼ同時だった。強烈な爆音が響き、激流に流された木製の食器類が飛び散る音がする。机の外では皆の朝食が無残な姿で床に叩きつけられ、スープが単なる床の染みになって消えていった。
激流が収まり、雫が机から落ちてくる。食堂の中は静まり返っていた。僕は机の下にもぐったまま、外に顔を出すこともできずに頭を抱えていた。
「やっちゃった・・・」
「はっはっはっはっは!!」
机の下ではボブズが腹を抱えて笑い転げている。
「はっはっは!お前、また伝説になるな。食堂を水魔法で吹き飛ばすなんて・・・『神魔法の使い手』の次はなんだろうな?『激流神』とか『食堂神』とか?」
「水に流したんだから『トイレの神様』でいいんじゃない」
今も笑い転げるボブズに目を細めながら僕はそう言った。
「なんだそりゃ?だが、それいいな。よしっ、今日からお前は『便所神』だ」
「遠慮しとくよ・・・」
語感が『便所飯』に近くて非常に嫌な気分になる渾名だった。
その間に、ショックから立ち直った人々のざわめきが食堂に戻ってきていた。犯人を捜すような台詞がちらほらと耳に届いてくる。それ以上に既に自分だと特定されているであろう話も聞こえてくる。水魔法が暴走していく過程を見ていた人は大勢いるだろうし、何より僕は『神魔法』の使い手としてただでさえ注目を集めていた。
とはいえ、次に広まるのもまた悪評の類になりそうな予感がする。
僕は自分のしでかしたことに項垂れるしかなかった。これは処罰は免れないだろうな。退学は無いだろうが、罰則をいくつか言い渡されるであろう未来が見えている。朝食を台無しにした分を弁償しなきゃならないとかだったらどうしようか。その時は雑用でもなんでもして働いて返すしかないだろう。野菜屋出身の僕の懐事情はいつだって寒いのである。
「くぉらぁああああ!誰だ!こんなことをしでかしたのは!!」
ザイラル先生の吠え声を聴いて、僕は机の下から出る気力が根こそぎ奪われていった。
しおれていく僕を見ながら、ボブズは隣でしばらく笑い転げていた。




