感染の網 D
結局、僕は極光騎士団が通り過ぎるまでその様子を見てしまった。
学園に戻った時には既に7時を回っていた。今日の夕食に間に合うかどうかはギリギリであろう。僕は足早にラックの病室へと向かった。
ザイラル先生の研究室の前に行き、どっちの扉をノックするか一瞬迷う。
ザイラル先生に声をかける為に研究室の扉をノックすべきか。それとも無視してラックのいる病室の方をノックするべきか。
「・・・ま、いっか・・・」
僕は病室の扉の方をノックした。やはりザイラル先生に対する苦手意識がまだ残っているのだ。できるなら、関わる時間は短い方がいい。
だが、結局のところどちらの扉をノックしても変わらなかったようだ。
ザイラル先生は病室側にいたのだ。
「あ・・・どうも・・・」
僕は反射的に頭を下げる。できれば身体も引きたかったところだが、それではせっかく燻製肉を買ってきた意味がない。僕はほんの少しの勇気をもって病室に踏み込んだ。
しかし、当のザイラル先生は僕の方を一瞥しただけで、すぐにベッドの方を向いた。そこはラックが使っているベッドとは別の場所だ。ベッドにはカーテンがかけられており、中を見ることはできなかった。
僕はザイラル先生の後ろを通り抜けながら、そのベッドを盗み見た。
「やぁ・・・どうも、どうも」
そこには見事な太鼓腹をした男性が横になっていた。彼の腕からは水の管がつながり、宙空に浮いた水球と繋がっている。その人と目が合った僕は軽く会釈をした。
見覚えのある人だった。僕の記憶が正しければ、薬草学を行う教室の近くで時折みかける。多分薬草学の講師の1人だ。
「マスキッタ。何を呑気に手なぞ振ってる」
ザイラル先生の硬い声が飛ぶ。ここ数か月で大分わかってきたが、今のザイラル先生はかなり機嫌が悪そうだった。
僕は逃げるようにしてラックのベッドを覆うカーテンを手に取った。
「ラック、今いいかい?」
「アあ、イいぞ。入ってくれ」
ベッドの中から聞こえたラックの声は随分と焦っているようであった。
僕もその声に急かされるように急いでカーテンの中に入り込む。ラックは上体を起こしており、いつものフードを被っていた。ただ、その下の耳が周囲を警戒するかのように揺れていた。
「アギー・・・イいとこに来てくれた」
ラックは小声でそう言った。彼女は地獄で仏に出会ったかのようにホッとした表情を浮かべている。僕は手近な椅子を引き寄せてベッドの隣に座った。
「何かあったの?」
釣られて僕も小声になる。
「コれからあるんだよ・・・」
怯えたようなラックの声。その時、ザイラル先生の不機嫌な声が病室内に響いた。
「話を戻すぞ。噛まれたのは何時だ?」
「ついさっきです。倉庫の整理をしていたら、急に指先に痛みが走って。手を引いたらそこに赤い瞳が・・・」
「それで、そのネズミは逃げたのか?」
「え?」
「そのネズミはお前を噛んだ後にすぐに逃げ出したのか?それとも、お前の様子を観察するように眺めていたのか?お前を食い殺さんと首筋に駆け上がってきたのか?」
「そ、そりゃ・・・ネズミですからね・・・逃げましたよ?」
「・・・ネズミが魔法を使った形跡はあったか?」
「わかりません。倉庫を調べればわかると思いますけど・・・」
「ほう?私が調べろとでも?」
ザイラル先生の声音が1割程冷え込んだ。
「い、いえ。とんでもない・・・後で調べてお届けします。でも・・・」
「なんだ?」
「あ、いえ・・・私はしばらく安静では?」
「それはお前がヴァンパイアの眷属であるネズミに噛まれた場合だ」
僕はその話に驚いて、ラックの方を見た。だが、ラックは小さく首を横に振った。
「どう考えてもお前を噛んだのは、ただの、普通の、何の変哲もないドブネズミだ」
ザイラル先生は一言ずつ区切るようにしてそう言った。そんなザイラル先生にマスキッタ先生が不安気な声をあげた。
「いや、でも・・・逃げたからただのネズミだって言い張れるんですか?もしかしたら、そういうネズミにみせかけた動きをしただけかも・・・」
ザイラル先生が返事をするのに少し間があった。そして、最初に先生が吐き出したのは大きなため息だった。
「お前それでも魔術講師か?」
「め、面目ないです・・・で、でも、知ってはいますよ?眷属となった獣は人間相手に絶対に逃げない・・・『闇の精霊』の影響で、どんな生物に対しても高圧的な態度を取ります・・・もちろん知ってます。けど不安じゃないですか!この時期にネズミに噛まれたなんて・・・」
「それでよく、戦闘魔法科を担当できるものだな」
「そ、それは・・・申し訳ないです」
ザイラル先生は同僚の先生相手でも遠慮会釈というものがなかった。この人の普段の威圧的な態度は生徒だけに向けられるものではないらしい。教会の権力高い神父に対しても態度が変わらない様子を見ると、やはり性格的なものなのであろう。
「そ、それで私は・・・今後、ここで安静にしていた方がいいのでしょうか?」
マスキッタ先生は二度目の質問をした。ザイラル先生が睨みをきかせた音がカーテン越しに聞こえたような気がした。
「そ、そうですよね・・・はい、ダメですよね・・・」
「一応、ネズミに噛まれたということで、こうして破傷風のために治癒を施してるが・・・今晩お前にベッドを貸すつもりはない・・・この水球が全て体内に入ったら、とっと研究室に帰ってさっさと寝ろ!!」
「は、はいっ!」
次第に声が荒くなっていったザイラル先生に大の大人がほとんど悲鳴に近い返事をしていた。
ザイラル先生が大股で病室を歩く音がする。去り際に「まったく、余計な時間を取らせおって」との愚痴が聞こえてきた。多分、マスキッタ先生にも聞こえているだろう。
隣の研究室のドアが乱暴に閉じられる音がした。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
しばらく気まずい沈黙が流れる。この病室は小窓で隣の研究室と繋がっている。不用意な発言はできなかった。ラックは僕を静かに手招きした。彼女の意図を察して、僕は彼女と顔を近づける。
「・・・怖かった・・・」
その声は心の底から放たれたかのようなため息と一緒に吐き出された。
「ラックも怖がることあるんだね」
「・・・ザイラル先生の圧力・・・苦手なんだよ」
あれを受けて平然としていられる人のほうがおかしいのだ。僕は同意する意味をこめて何度も頷いた。
「アギーが来てくれて助かった。今のを1人で受けるのは勘弁だった」
「僕はもう少し遅く来れば良かったって後悔してるけどね・・・」
ザイラル先生の何も言わずとも周囲を静かにさせる能力を講義以外の時間に味わいたいとは思わない。
「ソういうこと言うか?友達がいの無い奴だな」
「はいはい。じゃあ、友達がいのあるところを見せますか」
僕はラックの顔から離れ、小脇に抱えていた包みを差し出した。
「アっ、ヤっぱり、コれって?」
「うん、みんなからラックへの差し入れ。デルエルの燻製肉だよ」
「アりがとー!デは、サっそく・・・」
僕はラックが手を伸ばした瞬間に袋を引っ込めた。
「それで?友達がいがなんだって?」
「アあ、モう!ソんな根に持つなよ!ワかった、アギーは最高の友人だ!今日は私を助けてくれたばかりか、こうして差し入れまで持ってきてくれた。ダから、感謝する!サぁ、コれでいいだろ?」
僕は無性にラックの尻尾を見たくなった。きっと、興奮した犬のように全力で振られていることだろう。
だが、さすがにそれを口にはしない。親しき中にも礼儀ありだ。
「しょうがないな・・・」
僕は苦笑いをしながら、ラックに包みを手渡した。
ラックはそれを大仰な手つきで受け取った。
「ははぁー・・・アりがたき幸せ!」
「まったく。他のみんなにもお礼言っときなよ」
「ワかってるって」
ラックはさっそく包みを1つ開いた。デルエルの屋台特有の臭いが鼻に付く。
やはりどうしても僕はこの臭いを好きになれそうにない。
「ラック、晩御飯は食べたの?」
「コれは別腹なのさ」
「ほどほどにしときなよ」
「モちろん。私は楽しみは後に取っとく方だ」
ラックは食べやすいようにフードを外し、幸せそうな笑顔を見せて燻製肉を頬張る。そんなラックを見ると諸々の面倒を引き受けて良かったと思えるから不思議だ。最初は違和感のあった彼女の獣耳も数日で慣れてしまった。美人は3日で飽きるというが、人の身体的特徴などというものもそれと同じなのかもしれない。
その時、ラックの腕に繋がっている水球が急に不規則な動きをした。
「オっと、危ない危ない・・・」
ラックは顔を引き締めて、水球に手をかざす。水球はすぐに波を鎮め、綺麗な球形へと戻っていく。
それを見て僕は目を丸くしていた。
「もしかして、ラック・・・これ、自分の魔法?」
「ソうだよ。浄化魔法と水魔法は自前。残りの栄養素とか解毒とか・・・私にできないのはザイラル先生に後から入れてもらったけどね」
「でも・・・すごいね・・・集中力持続するの?」
「慣れればどうってことないよ。サっきはこのお肉に心奪われすぎちゃったけど」
そう言ってラックはまた幸せそうな顔で燻製肉を頬張った。
今度は水球に変化は見られない。
「・・・僕もここまでできるようにならないとな」
水球を構築する魔法は大分安定するようになった。だが、それは1つの魔法に集中し続けた結果だ。ラックみたく食事をしながらなんて芸当は僕にはできない。
「私は暇な時、ズっとこれやらされてるんだ・・・上手くもなるよ」
「ああ、なるほど・・・ザイラル先生の指示?」
「トいうか、宿題・・・今3個同時に挑戦中・・・」
3個。その言葉に僕は自分の顔が引き攣るのを感じた。
「2個は?」
「集中力いるけど、デきるようになった」
ラックは唇の端でニヒルに笑ってみせた。
それが、『苦しいことを無理やり飲み込んだ末の笑顔』でないことぐらい僕にだってわかる。
ラックの全力のドヤ顔は僕の闘争心に火をつけるのに数秒とかからなかった。
「・・・ほほう・・・それはすごいね」
「普通だよ」
ラックはわざとらしい猫撫で声でそう言った。僕は魔法の練習に費やす時間を伸ばそうと心に決める。
我ながら単純な性格であると思わなくはないが、これでも僕は『神魔法』の使い手だ。他の人の何倍もの速度で人の傷を癒すことができる。その力を正確に役に立たせるには自分がまだまだ勉強不足であることは理解している。だが、最高の治癒魔法士になるという夢を捨てた覚えはなかった。
「もう遅いから・・・そろそろ帰るよ」
「ソう?燻製肉ありがと。ジゃあ、練習頑張ってね」
僕のわかりやすい思考回路などラックにはお見通しなのだろう。
僕はラックの挑発的な声を背中に受けながらカーテンを抜けて病室を出ていった。
扉が閉じる音がして、足音が遠ざかる。
アギーが遠ざかるにつれ、病室のベッドの上にいるラックの笑顔は次第に真剣なものへと変わっていく。アギーは残った燻製肉を包みの中に戻し、自分の太ももに指をあてた。
そこは血の槍が貫き、爆ぜ、肉が引き裂かれた場所だった。ラックはその時の光景を今も鮮明に覚えていた。血が溢れんばかりに零れていき、ぐちゃぐちゃになった筋肉の繊維が飛び散っていた。骨まで露わになった傷を見て、感覚を無くした足を見て、もう二度と自分が立てなくなることを悟ったのだ。それぐらいの傷だった。
それをアギーはものの見事に治癒してしまったのだ。
「・・・負けて・・・ラれないもんね・・・」
『神魔法』に純粋な治癒能力で勝とうなどと思っていない。だけど、それ以外の分野ならばまだお互いの才能は未知数だ。
ラックは決意を込めて自分の太ももを握った。
獣人の私を救ってくれたアギー。その恩を口にしたところで、アギーはきっと照れたように首を横に振るだけだろう。当たり前のことをしただけだ、とでも言いながら。彼のその性格は理解していた。
そんなアギーに恩を返すには後ろからではだめなのだ。彼はきっと遠慮するような台詞を言って私の手伝いを断るだろう。だからこそ肩を並べたかった。
彼が私に「任せる」と言ってくれるように、私が彼に「オ願い」と言えるように。
この水球魔法に熟練することはその第一歩だった。
ラックは残った燻製肉を口に押し込む。
「シャウ!!」
それは獣人が気合を入れる時の掛け声だ。
ラックは指を不思議な形に組み、古代語による詠唱をはじめる。
ラックの周囲に次第に水球が浮かび上がる。その数、8個




