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棘 I

目の前にヴァンパイアの咢があった。

奴は口を軽く開き、獣臭と鉄臭を混ぜ合わせた吐息を放っていた。

その口の端から零れ落ちる赤い液体。それは床に落ちて蒸気をあげた。わずかな焦げ臭さが吸い込む空気に混じった。


自分の呼吸音がやけに大きく聞こえる。心臓が脈打つ音が脳天まで響いていた。


「・・・はぁ、はぁ・・・やべぇよな」


背中は談話室の壁につき、左肩には友人が当たっている。

右側には空間が広がっていたが、行きつく先は部屋の角。袋小路に追い詰められるだけだ。その逃走経路は最後の手段でしかなかった。


野犬が吠えた。血飛沫と唾液が飛ぶ。


「くそっ!!」


やぶれかぶれで背中の翼で風を吹き起こして血を吹き飛ばした。

だが、その程度ではヴァンパイアはびくともしない。


「いいか・・・お前は右・・・俺は左だ」

「他に逃げ道ないもんね」


2人して声が震えていた。


野犬がゆっくりとした足取りで迫る。

既に奴は俺達をひとっとびで食い殺せる位置にまで接近していた。足先の爪がカーペットに食い込んだ。血の兜に囲まれた野犬の頭がわずかに下がった。


わずかな静寂。野犬が呼吸を止めた。


ボブズに肩を突き飛ばされる。二人して左右に分かれる。その瞬間だった。野犬が一気に跳躍した。

僕らがさっきいた場所に野犬が飛び込む。その姿がスローモーションで流れる。

走馬燈のように引き延ばされた時間の中で僕はその犬の姿の全容を明るいランプの元で眺めた。


「・・・・・・あ・・・」


鎧の下にある毛皮に見覚えがあった。毛皮の隙間に見える傷の位置を僕は知っていた。


「・・・・・・・・・」


野犬と目が合う。そいつが目元を細め、口の端が一際大きく裂けた。

笑っていた。

僕を見て笑っていた。


その犬はつい先日、僕が治癒を施したあの野良犬だった。


「よいっしょおおおおおお!」


そんなスローの世界に誰かが割り込んだ。

野犬の身体が空中で大きく振られた。

誰かが奴の顔の横っ面を殴りつけたのだ。その拳は流れるような動きで野犬の首筋に絡みついた。

その腕は太く、そして緑色に染まっていた。


「ふんぬらぁぁあああ!」


床に巨体が激突する音が響き、談話室が揺れた。

野犬が暴れ、なんとか自分を縛る腕から抜け出そうとするがそれは無駄な足掻きにしか見えなかった。

奴の四肢は床に投げ出され、空を引っかいていた。首を抑えられては自慢の牙も役には立たない。


「犬という種族の攻撃手段は牙のみだ。こうやって首を抑えちまえば無力化するのはたやすい。散々、うちの生徒をいたぶってくれた礼だ・・・たっぷり苦しめ」


ダグ先生がその全身をもってヴァンパイアを押さえつけていた。いくら暴れようとも、ダグ先生の拘束はがっちりと極まっており、抜け出すことはできない。

ならばと、野犬は血の槍を空中に出現させた。


「おっと、そいつはなしだぜ」

「なら、私の出番だ」


パンッ、という音が談話室の中に響いた。いつの間にかそこにザイラル先生が立っていた。

ザイラル先生は胸の前で強く両手を打ち合わせ、魔法語を呟いた。

そして、その両手素早く離した。青い稲光が走った。


落雷の轟音と共に宙を舞う槍が瞬時に撃ち落とされていく。


『神の精霊』の一つ『雷の精霊』だった。


本物を見るのは僕も初めてだった。

ザイラル先生は次々と現れる血の槍を瞬時に撃ち落として蒸発させていく。血の一滴すら飛び散らせない。


「ダグ、まだかかるか」

「いや、ようやく・・・弱ってきたっと!」


ダグ先生は首を極めていた腕を一捻りした。骨がずれる音がした。その拍子に野犬の目が裏返る。野犬の全身が一気に硬直し、そして痙攣を始める。ダグ先生はしばらくその様子を眺めていたが、次第に動かなくなった四肢を見て犬の首から腕を外した。

ヴァンパイアの周囲を覆っていた血の鎧が溶けてただの液体となって流れ出す。血だまりが談話室の床に広がっていった。


随分と呆気ない最期だった。


ダグ先生は立ち上がって、野犬の目を覗き込んだ。呼吸を確かめて、死んだことを確認した。

ダグ先生はもう用済みとでも言いたげに野犬から目を離した。


「ボブズ、怪我はないか?血まみれだな・・・念のため後でザイラルの治癒を受けておけ」

「は、はい・・・」

「お前の『危険信号』確かに聞いたぞ。おかげで間に合った・・・よくやったぞ」

「はい・・・」


ダグ先生の向こう側でボブズが力無く床に横たわるのが見えた。


もう、本当に大丈夫なのだろうか。

僕は床に尻餅をついた姿勢のまま、今まで襲いかかってきていた野犬から視線を外せずにいた。


「そうだ、ラックは!?」


僕がルルの方を見ると、ラックのそばには既にザイラル先生が膝をつき、怪我を見ていた。


「セ、せんせい・・・ワた・・・ワたし・・・」

「安心しろ。受傷したのはついさっきだろ。なら、まだ十分間に合う」


ザイラル先生が空中に水球を浮かべた。そこに何事かを呟いて魔法を注ぎ込んでいく。使われている魔法語はあまりにも複雑怪奇で僕には聞き取ることもできなかった。

複数の精霊に同時に干渉して、一気に水球の中に魔法を注ぎ込んだのだ。そして、手際よくその水球の中身でラックの傷を洗い流し、液体を腕の血管に流していく。


「おい、アギリア。お前は大丈夫か?」

「ダグ先生・・・」

「いつまで魔法を出してる。疲れるだろ。安心しろ。あいつはもう起き上がってこないよ」


ダグ先生が振り返る。横たわる野犬はもうピクリとも動かなくなっていた。


「本当に・・・もう・・・」

「ああ。もう大丈夫だ」


ドッと身体に疲労感が押し寄せた。

首の力が抜けて項垂れる。自分の呼吸はやけにぎこちないものだった。

僕は固まった筋肉を緩めるように自分の背中の魔力を外に流していった。だが、魔力経路が強張ってしまっていたのか、魔力をうまく流すことができない。僕はほとんど気絶しながら、『竜の精霊』の力を霧散させた。


「怪我はしてないな?」

「はい・・・」

「そうか。動けるか?」

「はい」


ダグ先生の手を借りて立ち上がる。ダグ先生は僕の立ち姿をしっかりと観察していた。


「ふらつきはないか?めまいはしないか?歩けるか?」


ダグ先生の治癒魔法師としての一面が垣間見えていた。

僕の身体の不調がないことがわかったダグ先生は安堵したように息を吐き出した。


「さて・・・それじゃあ、そこに座ってなさい。それと、あとでザイラルに診てもらえよ」


ダグ先生に促されるまま、談話室でまだ清潔である椅子に腰かける。

談話室には騒ぎをききつけた学生達が起きだしていたが、他の先生たちが部屋に戻るように言っていた。

中には談話室に横たわる犬の死体を目撃したものもいて、目を丸くしていた。それが『ヴァンパイア』であると察した者もいた様子だった。


僕は談話室の隅に座っていたが、視線はラックの方に固定されていた。

ザイラル先生なら大丈夫だと頭ではわかっていても、心配なのは変わらない。

ルルが風で作ったベッドに寝かされたラックは黙って治療を受けている様子だった。その目は閉じられ、眠っているようにも見えた。

そうこうしているうちに僕の隣にボブズとベクトールも座らされた。


「よし、あの野犬と戦ったのはここにいる5人で間違いないかな?」


ダグ先生は僕らの前に椅子を持ってきて、そこに腰かけた。


「それじゃあ、事情を聞かせてもらえるか?」


ダグ先生の顔は教師のそれに戻っていた。


僕らはお互いの顔を見合わせた。誰が話すか無言のやりとりがあり、僕がポツリ、ポツリと語りだした。

談話室で森に消える光を見つけたこと、しばらく見ていたらラックが出てきたこと、3人の魔法で迎撃しようとしたこと。

そこまで話した時、ダグ先生の眉間に皺が深く刻まれた。


「貴様らは・・・今日の校長の話を聞いていなかったのか?ヴァンパイアを見つけたらすぐに大声で教師を呼び、逃げ出すように言ったはずだっただろう」

「・・・僕が・・・戦いだしたんです」


それを聞き、ベクトールが何か言いかけたが、僕はすぐに言葉を続けた。


「処罰なら。僕が受けます・・・僕が・・・ヴァンパイアを甘く見たのが・・・間違いだったんです」


自分の魔法を過信していた。『竜の精霊』を扱える自分であれば生半可な相手なら楽勝だと思っていたのだ。だが、相手はそんな生温い存在ではなかった。

僕の命がまだあるのは単に運が良かったにすぎなかった。


「・・・まったく、アギリア。お前は本当に運だけは良いみたいだな」


ダグ先生の言葉が胸に刺さる。


「・・・まぁ、無事でよかったが・・・」


その優しい言葉に涙がこぼれそうだった。

話の続きはボブズが引き継いだ。


彼は夜中になぜか目が覚めて、隣のベッドに僕がいないことに気が付いたという。そして、虫の知らせに従って談話室に降りて現場に遭遇したのだと言った。

そして、気付け代わりに僕を踏みつぶし、野犬相手に膝蹴りをかましたという。


「・・・お前も・・・なんて無茶を・・・」

「でも、ああでもしねぇとラックは食い殺されてた。俺は最善を尽くしたぞ・・・」

「・・・はぁ・・・」


ダグ先生は呆れて声も出ないといった様子だった。

話を続けていくたびにダグ先生の顔は怒りを通り越して呆れ通しであった。二人でラックを抱えて走ったところで顔を抑え、僕が『竜の精霊』で槍を迎撃した段に至っては拳が振り下ろされんばかりだった。


「貴様らは・・・若気の至りもいい加減にしろよ・・・今日と同じことをこの学園にいる間にもう一回してみろ・・・2年は羽ペンを握れない身体にしてやるからな」


顔を真緑にしながらダグ先生が息巻いた。


「Mr.スマイト!!」


名前を呼ばれ、反射的に顔をあげた。

ザイラル先生が片手で水球を維持しながら僕を呼んでいた。


「・・・行ってこい」

「はい・・・」


頭に血を登らせていたダグ先生が手で追い払うような仕草をして、僕を行かせた。

ザイラル先生は涼しい顔をしたまま、水球を操り、僕を見上げた。


「なんでしょう?」

「Ms.ラックの足の怪我・・・出血がひどい・・・浄化はもう終わっている。閉じろ」

「え・・・」


一瞬、何を言われているのかわからなかった。


「さっさと傷を治せと言っている!こういう時に役に立たないでなんの『神魔法』だ!」


ザイラル先生の怒声に指先が痺れた感覚が走る。


「はいっ!!」


ザイラル先生に言われるがまま、僕はラックの隣に膝をついた。


「ラック・・・大丈夫?」

「ウん。デも・・・足が痛いかな。ナんか、今にも千切れそう」

「そう・・・」

「ア、あとさ・・・」

「ん?」

「実は・・・右足の先・・・感覚ないんだよね・・・」


僕は息を飲んだ。戦慄が走り抜けていた。隣からザイラル先生の舌打ちが響く。

そんなに深い傷なのか。ルルが鼻をすする音がやけに大きく聞こえていた。


「マいったね・・・イや、マいった・・・指も動かないし・・・ハハ、ははは」


ラックは無理に笑おうとして失敗していた。笑顔が引き攣り、玉の汗が浮かんでいる。ラックの頭の三角の耳が萎びたように髪の毛にくっついていた。

こんな時に笑うなと言ってしまいたかった。だが、その笑顔が差別を耐えていた時のラックの顔に重なり、僕は口を閉じてしまった。


どうして、そんなに耐えられるのか。


僕は唇をかみしめた。


ならばせめて一つぐらい、ラックが耐えなきゃならないものを取り除きたかった。

特にこの傷だけは、僕のこの手で治さなきゃならなかった。


僕は自分の力を心臓部で練り上げた。

詠唱も、集中力も必要ない魔法。僕だけの魔法。

心臓の熱量を掌に移すと、手が光を帯びた。


「馬鹿野郎!素手で触れようとするな!!」


ザイラル先生が魔法を保ちながら器用に僕の頭をはたき、水の膜を作ってくれる。


「す、すいません・・・」

「まったく」


僕は改めてラックの傷を見た。

酷い有様だった。槍が太腿の深い位置に穴をあけ、そこから肉が裂けたかのような傷だった。流れる血はもうほとんど止まっている。ザイラル先生が応急処置で止血してくれたのだろう。

僕はその傷に掌を当てた。


筋肉まで至る傷だ。足が動かないなら神経も切られている。


最初から全力だ。


手に集めた力をラックの傷の中に流していく。傷の端から順に、決して焦らず確実に傷の中に魔力を注いでいく。これまで、こんなにも集中して傷を治したいと願ったことはなかった。

出来て当然。成功して当たり前。そう思っていた。

だが、今の僕にそんな慢心や余裕を感じることは出来なかった。


この傷の本当の原因は僕なのだ。


傷口に念入りに魔力を注ぎ込む。筋肉一つ、神経一本に至るまで丁寧に、念入りに力を込めた。


ここでラックを治せずして、何が『神魔法』だ。


しばらくして僕はラックの傷から手を離した。

もうそこには、健康的なラックの褐色の足が戻ってきていた。


「ラック、足は動く?」


僕がそう聞くと、ラックは惚けたような顔をしていた。

ラックは膝をたてた。問題なく動いた。

足首を動かす。彼女の細い足首が軽快に揺れる。

指を開いたり閉じたりする。器用なものだ。


「感覚はどうだ?」


ザイラル先生がそう尋ねた。

僕はラックの足先に触れた。


「・・・アあ・・・わかる・・・」


ラックの顔に生気が戻ってきていた。


「ワかる。ワかるぞ」


ラックの目に涙が溜まっていた。彼女が僕を見る。そして、その時始めて僕はラックの本当の笑顔を見た気がした。


「アギー・・・アギーは本当に・・・治せるんだな」


僕は小さく頷いた。


「・・・モう・・・ダめだと・・・思ってた・・・足はもうダメになったって思ってた」


ラックの笑顔を僕は真正面から受けることができない。

やめろ。やめてくれ。そんな目で僕を見ないでくれ。


「アギー・・・」


僕に感謝を受ける資格はなかった。だって、この傷は僕が生み出したのだ。


「本当に・・・アリがとう」


自分の掌に集めた魔力がまだ光を放っていた。

この光がヴァンパイアを治したのだ。この光がラックの命を危険に晒したのだ。この光がこの学園に怪物を解き放ったのだ。

噛み締めた奥歯が軋んだ音を立てていた。


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