棘 H
3つの魔法が野犬を直撃した。ベクトールの炎が僕とルルの風を受けて捲き上る。
巨大な炎の火柱が野犬の黒い姿を飲み込んだ。橙色に盛る炎の中から野犬の苦悶に満ちた吠え声が聞こえてくる。
魔法が効いているようだ。
「ふぅ・・・」
僕は安堵のため息を漏らした。
ラックは走り続け、確実に野犬と距離を取っていた。これなら確実に逃げ切れる。
ならばダメ押しの追撃を行うべきだろう。なんなら、このまま仕留めることも可能なんじゃないか。
僕の中でそんな想いが鎌首を持ち上げた。
「・・・ダメです・・・」
誰かがそう呟いた。背後を振り返る。ルルとベクトールの目が恐怖に見開かれていた。
「・・・やっぱり・・・勝てない・・・」
ベクトールが手に持った炎のハンマーが震えていた。
ルルが今にも泣き出さんばかりに顔を引きつらせている。
「アギー!ナにやってる!早く中に入れ!」
ラックはいまだ焦った顔で叫んでいた。
「え?」
僕は混乱していた。
皆は何にそんな怯えているんだ。目の前には炎に飲まれた野犬がいるだけだ。奴に魔法は確実に効いてる。
僕は自分が本当に皆と同じものを見ているのかどうか急に不安になってきていた。
今目の前の光景は僕が見せられている幻影で、本当はもっと絶望的な状況なのだったりするのか。
僕は自分の頬を叩いた。痛みは本物だ。目の前の光景は幻なんかじゃない。
僕はその不安をかき消すように竜の翼に魔力を集めていく。
もし、次に何が来てもこの風で吹き飛ばすつもりだった。
次の瞬間だった。
何かが爆発するような重低音とともに強烈な熱風が吹き荒れた。
夜空に火の粉が舞う。散った炎に照らされて、世界が赤く浮かび上がった。
陽炎が立ち上る。その向こうに野犬が立っていた。血の槍を振りかざし、真っすぐにこちらを見据え、口元を大きく歪ませて立っていた。野犬が息を吐くたびに、火の粉が小さく舞い上がる。奴の口から滴り落ちた赤い涎が地面に落ちて煙をあげる。
奴の体表には火傷の痕や、傷ついた様子はまるで見えない。
「そ、そんな・・・」
野犬が勝利を謳うかのように吠え声をあげた。身体が自然と身を引いてしまう。
そんな僕の内心を見透かしたかのように野犬が再度吠え声をあげた。
目の前の現実から背を向けたくなる衝動が沸き上がる。心が既に負けそうになっていた。
「・・・・・・・くそ・・・くそっ!!」
逃げ腰になる両腿に平手を叩き込んだ。ラックを見捨てて室内に戻る選択肢を頭の中から排除する。
僕は背中にため込んでいた魔力を再び叩きつけた。
「このぉおおお!!」
放たれた風はラックを避け、再び野犬に迫る。今度は奴は避けようともしなかった。
野犬の周囲に浮いている血の槍が網のような形状に変化し、奴の周囲を覆った。
僕の魔法が直撃する。だが、僕の全霊を込めた竜の風はその網に受け止められた。
「・・・・・・な・・・」
そして、網が鼓動を放つように膨張した。
再び起きる重低音。僕の魔法が吹き飛び、魔力を帯びた風が吹きつける。
「・・・・うそ・・・だ・・・」
血を操る魔法が僕の『竜の精霊』を打ち破った。
そして、ふと疑問が湧いて出た。
『血を操る魔法』ってなんの精霊に呼びかけてるんだ?
「・・・・・・あ・・・」
今更だった。今更気が付いてしまった。
『血を操る魔法』は『闇の精霊』の領分。今、目の前にいる野犬は『神の精霊』に干渉している。
全身に悪寒が走り抜けた。身体全体が震えだしていた。
僕は相手がヴァンパイアであるという現実をこの時まで実感していなかった。
目の前にいるのが、アンデットの王であるという意味をまるで理解していなかった。
「・・・・ラック!!」
ベクトールの声が轟いた。
宙に浮いていた血の網が再び槍の形に戻っていた。その槍がラックめがけて放たれる。
今まで気配だけで回避していたラックの集中力は既に限界だった。
ラックは振り返り槍を視認する。だが、そこから肉体を動かすには遅すぎた。それでもラックはその僅かな時間で地面を蹴り、宙に浮かんだ。身体の中心を狙って放たれた槍が右の大腿を切り裂いた。血の槍がラックの肉を破り、血飛沫が舞った。ラックのフードが外れ、その下から三角の獣耳が現れる。
「ああっ!!」
ラックの顔が苦悶にゆがむ。無理な姿勢で飛んだために着地ができず、ラックが地面に転がった。
「ラック!!逃げろ!」
僕の口から出た声は情けなくも震えていた。ラックを助けに行きたい気持ちだけは溢れているのに、足が動かない。身体が恐怖に縫い留められたかのようだった。
「うっ・・・ううっ・・・」
ラックは立ち上がろうと足に力を込めたが、力が傷口から外に抜けていくかのように逃げてしまう。膝が砕けて、地面に這いつくばる。視線を落としたラックは自分の足から血が噴き出しているのを目撃した。
痛みがそれほどもないのは身体が興奮しているからだろう。傷は思った以上に深いらしい。
だが、そんなことは正直どうでも良かった。
ラックの心を占めていたのは、『ヴァンパイアの血の槍を受けた』そのことに尽きた。
ヴァンパイアの体液を体内に入れてしまったのだ。その時点でラックの未来は決まってしまった。
『眷属になるか』『食い殺されるか』
ラックの目に涙が浮かんでいた。
「・・・コんな・・・トころで・・・」
その時、再び咆哮が轟いた。
奴が放った勝利の雄叫びだ。
ラックは後ろを振り返る。奴がゆっくりと歩き出していた。
「・・・・・・イやだ・・・イやだ・・・」
ラックは地面を這う。少しでも遠くへと逃げろと本能が訴えていた。
彼女の視線の先には友人の待つ談話室が見えていた。
ルルが顔をぐしゃぐしゃにしながら魔法を放っていた。ベクトールが炎の槌を振り回して炎をまき散らしていた。アギーが顔を半狂乱にしながら風の塊を放ち続けていた。
だが、ラックの後ろから野犬の悲鳴は一切聞こえてこない。
這いつくばった地面から奴が大地を踏みしめる足音が確かに伝わってきていた。
ラックは自分の未来はもう決定しているらしいことを確信した。
食い殺される。
ラックの頬から涙が零れ落ちた。
「・・・死に・・・・・たく・・・ない」
腕の力だけで地面を這う。だが、その瞬間は確実に迫ってきていた。
ラックは熱い吐息が首筋にかかるのを感じた。ラックの呼吸が恐怖で止まる。
「ラック!!くそっ!くそっ!!動けよ!!動けよ」
僕はその場に跪き、恐怖で動かなくなった両足を殴っていた。
気持ちばかりが前のめりになるばかりで、足が前に出ない。
ラックの背後にはもう野犬が迫っていた。
野犬がその前足をラックの背に振り下ろした。
「ぐふっ・・・」
ラックの肺から空気が押し出され、身体が地面に押し潰される。
「・・・・・・・ギィラィ・・・」
ラックの口から呻くような言葉が漏れた。それは獣人達の言葉。
「・・・ノリア・・・イィス・・・」
死にたくない
涙が零れ落ちた。背後から伝わる野犬の吐息に含まれる熱量が増した。
奴がその咢を大きく開いた気配が伝わる。
ラックは次の瞬間に訪れるであろう牙の痛みに怯え、強く目を閉じた。
「えいっしゃらぁぁあああ!」
ラックは自分の真上で強烈な打撃音を耳にした。
ガチン、という歯が閉じられる音と同時に犬の悲鳴のような声があがる。
ラックの隣に誰かが着地する。ラックが見上げる。そこには、興奮で顔を緑色に染めたボブズが膝をさすっていた。
「やっべぇ!やっべぇよこんにゃろー!」
――――――― ※ ――――――― ※ ――――――― ※ ―――――――
僕は地面に大の字に倒れていた。
背後から飛び出してきたボブズに踏みつけられ、無様に地面に叩きつけられたのだ。
お陰で額を盛大に地面にぶつける羽目になった。あまりにも強烈な衝撃に目の奥に火花が散っていた。一瞬、意識が飛んだかもしれない。
だが、その痛みこそが僕の頭をリセットさせてくれた。
友人に踏み潰されたという衝撃と、ラックが一時的にも救われたという事実が縛れていた僕の手足に力をくれた。
「アギー!早く来い!」
「わかってるよ!」
僕は両手足に力を込め、不可視の重力の枷に立ち向かう。足は竦んでいなかった。
奴は?野犬はどうなった?
僕の目はラックの後ろに野犬の巨体が膝砕けになって地面を這い回っている姿を見つけた。
ボブズの膝蹴りが顎を直撃していたのだ。人間や獣人、ドワーフさえも凌駕する鬼人の膂力。その渾身の力で放った膝蹴りは確実に野犬の身体の自由を奪っていた。
ラックがボブズを見上げていた。彼の火傷の跡が火の粉の照らされて橙色に輝いていた。
ボブズはすぐさま息を大きく吸い込んだ。そして、手を口に当てた。
「あぁぁぁ・・わわわわわわわー!」
奇妙な雄叫びだった。村の付近で時折現れていた猿の一種があのような声で鳴いていたのを思い出す。
その声が夜闇に包まれる城内に響き渡った。
僕もラックのそばに駆け寄った。
「アギー、頭持て!脇の下に手をいれて抱き上げろ!」
「わかった!あっ、ボブズ!足の血に触れないで!」
「えっ!?じゃあどこ持てっていうんだよ」
すぐさま僕はボブズの手に水の膜を張った。簡易の手袋代わりだ。ラックの魔法より水の表面が凸凹で安定しないが、無いよりはマシだった。
2人がかりでラックを抱えあげる。僕らは談話室の窓に向かって走りだした。
腕の中のラックは急激に疲労して行っているように見えた。
顔色は次第に悪くなり、身体からも力が抜けていっている。
ヴァンパイアに襲われた者の末路は二つ。
僕は頭の中の選択肢を振り払う。今、絶望にとらわれたら身体が硬直しそうだった。
「・・・あっ・・・あいつが」
「えっ?」
ラックの呟きはほとんど小さなものだったが、なんとか僕の耳に届いた。
「うしろ・・・」
ラックが緩慢な調子で声を出す。
僕が後ろを振り返るのと、野犬が怒りの咆哮をあげるのはほぼ同時だった。
「や、やばい!ボブズ!急いで!」
「わかってるって!」
2人の足の回転速度があがる。ラックの身体が揺れ、足から血が滴り落ちる。
談話室まであと少し。だが、そのあと少しがあまりにも遠い。
ボブズと僕はラックを抱えながら全速力で走った。背後から迫る恐怖が呼吸を乱し、足をもつれさせる。だが、不思議なことに2人の走るリズムは練習を重ねてきたかのようにピタリと揃っていた。
2人は度々転びかけながらも談話室の手前までやってきた。
「皆さん!早く!」
いまだ泣き止まないルルが談話室の中から叫んだ。
「ラック!少し乱暴に行くよ!」
「手を伸ばすんじゃねぇぞ!」
ラックは自分の腕を身体の前で組んだ。次に何をされるのかを悟ったのだ。
「ボブズ!3カウント!」
「了解!1、2の・・・3!」
ラックの身体が宙を舞った。走る勢いと2人の腕の力で放り投げられたラックの体は談話室の窓を通り抜け、柔らかな風のベッドに受け止められた。
「・・・2人も・・・こっちに!」
ベクトールがはめ殺しの窓をいつでも嵌め込めるような姿勢で待機していた。
しかし、僕らにはもはや逃げこむ余裕は残されていなかった。
例の野犬が血の槍を放ちながら突進を始めていた。それはさながら、獲物を逃がさんと追いかけてくる野生動物のようだった。
迫り来る血の槍。それは談話室の窓に向けて真っ直ぐに飛んできていた。
「くっそ!このぉぉお!」
僕は竜の翼を大きく広げて身体の前面を覆う。『竜の精霊』の象徴でもある翼に込められた魔力は質も量も最高クラスだ。防御に徹すれば『神の精霊』による『血の魔術』でも防ぐことぐらいはできるはずだ。
だが、確信はない。一瞬、竜の翼を突き破って体に槍が突き刺さる妄想が頭を流れたが、もう今更後に引くことはできない。竜の翼に込めた自分の魔力を信じ、僕は槍を迎え撃った。
血の槍が竜の翼に激突する。魔力同士が衝突した際に起きる虹色の火花が飛び、血の槍が弾き飛ばされた。
「よしっ!」
だが、息をつく暇などありはしない。
次々と飛来する槍をその翼で受け止める。少しでも気を抜けば槍が容易くこの身を貫くことは想像に難くない。一瞬たりとも気を散らせない集中が必要なこともあり、僕はその場から身動きが取れなくなってしまった。
「お、おい!何してる!こっちに来い」
「ごめん、動けない」
「ああ、もう!しょうがねぇなもー!」
ボブズは談話室の窓に足をかけたところで反転した。
僕はボブズに足から抱え上げられた。ボブズは僕を持ったまま談話室に逃げ込もうとする。
だが、野犬は猛スピードで向かってきていた。既に一刻の猶予もなかった。
野犬は血をその身に纏い、鎧を纏ったような姿をとった。
僕は息を飲む。飛んでくる槍ならまだしも、奴がもし体当たりでもしてきた時、それを竜の翼で防ぎきる自信はなかった。
野犬が口を開いて吠えた。ボブズの息があがっていた。奴が作り出した最後の血の槍を弾いた。もう談話室は目の前だ。ボブズは僕を抱えたまま、窓から中に飛び込んだ。
僕は床に激突して投げ出される。その勢いのまま談話室を転がる。隣ではボブズも同じように転がり、机にに頭をぶつけつて悶絶していた。
「・・・・・くっ!」
ベクトールが窓をはめ込もうとした。だが、間に合わない。
ヴァンパイアが談話室に飛び込んできた。奴はテーブルや椅子を蹴散らしながら床をのたうった。
血の鎧が談話室の床を赤く汚していく。
ヴァンパイアはすぐさま立ち上がり、視線を定めた。
その先にいたのは僕とボブズだった。




