棘 D
「うわ・・・うわ、噛まれた。噛まれちまった・・・誰か助けてくれぇ!!」
その男は見えない誰かに縋るかのように両手を突き出して、視線をさまよわせていた。
足元はふらつき、身体が一歩踏み出すごとに揺れている。目は真っ赤に血走り、半開きの口は何度も「助けて」と訴えていた。
その男から逃げるように市場の人々は逃げ去っている。僕らはその男を遠巻きに見つめ、立ち止まっていた。周りに残っているのは僕らと、自分達の商品を死守せんと斧を振りかざしている商人達だけだった。
きっと誰かが近くの警備兵を呼んでくれているはずだ。それが到着するまでどれぐらいかかるだろうか。
「おい・・・あんたら・・・」
その男の目の焦点が僕らに定まった。
背筋にぞくりと緊張が走る。隣でルルが生唾を飲み込んだ音がやけに大きく聞こえた。
「助けて・・・助けてくれ・・・俺は・・・まだ・・・死にたくないぃいい!」
男が一歩こちらに足を踏み出した。下がりそうになる足を叱咤してその場に縫い留める。
ここで引き下がってしまったら、何のためにここに来たのかわからない。
腹を据えて、その人を観察する。
目に見えて大きな傷はない。首筋からの出血が止まっていない。だが、噴き出るような出血はなくじわじわと漏れ出るような出血だ。最初にあの人を見た時は傷口は何かに噛まれた痕のようにも見えたが、今はその出血が傷を覆い隠してしまいよく見えない。
顔色は悪く、身体はふらついているが立って歩けている。今すぐにバタンと倒れて死ぬ可能性があるようには見えなかった。
「さて、どうすっか・・・」
ボブズが小さな声で呟いた。彼の火傷顔が若干引き攣った笑みを浮かべていた。
ほとんど反射的にここまで駆け付けてきたものの、自分達に何ができるのだろうか。
「ヴァンパイアに噛まれた方の対処ができる方はいますか?」
ルルの質問に肯定の返事は帰ってこない。
当然、僕もそんなものは知らない。この学園に入学する前だったら『神魔法でなんとかなるかもしれない』とか言ってたけど、今はそんなことは口が裂けても言えそうになかった。
「ソもそも、本当にあの人は噛まれたのか?」
ラックがそう言った。
「噛まれたと思っただけ、ってこともありうるぞ」
「パニックになってるだけってこと?」
「ソういう可能性もあるって話だ」
そんな話をしている間にもその男は一歩ずつ僕らに近づいてきている。
どういう対応をするにしても、もう時間がなかった。
「・・・とにかく・・・落ち着けて・・・横にさせる・・・じゃないと、危なくて近づけない」
ベクトールはそう言って、その場に胡坐をかいて何事かを呟きだした。
魔法を使う気だ。集中するための姿勢が座禅っぽいのには少し気になったが、後回しにする。
「って!ベクトール、ちょっと待って!!」
「・・・・・なに?」
ベクトールは魔法を中断し、僕を凄まじい形相で睨みつけてきた。親の仇でも見つけたかのような殺意を孕んだ瞳、眉間に深く刻まれた皺はまるで魔除けの置物のようだった。それを前に引き下がりそうになる自分を叱咤する。僕にはベクトールを止める必要があった。腹を据えて、僕は口を開いた。
「ベクトール!今やろうとしてたのって、『石棺』の魔法でしょ!ちょっと乱暴すぎない!?」
「・・・・・・拘束するにはこれが一番」
地面を盛り上げて、相手の首から下を生き埋めにする魔法だ。
いくらなんでもやり過ぎな気がした。
「・・・それに・・・本当にヴァンパイアに噛まれてたら・・・近づかれたら私達も危ない」
ヴァンパイアはその体液を使って眷属を増やすというのは、この世界では子供ですら知ってる知識だった。
目の前の男の手は自分の血で真っ赤に染まっている。確かにあの爪でひっかかられたら間違いなく危険だった。その程度でヴァンパイアの支配下に置かれるのかどうかはわからないが、試してみたいとは思わない。
ベクトールはそう言って再び詠唱を始める。どうやら譲る気は無いようだった。
僕は周りのみんなを見渡した。だが、ラックもボブズもその判断が正しいのかどうか決めかねているような顔をしていた。
「ベクトール、私に任せてください」
「・・・ルル」
「もう少し、穏やかに解決しましょう」
ルルはそう言って一歩前に出た。
そして、彼女は自分の懐から短刀を取り出した。
「え・・・」
その短刀は見たことがある。ルルが森を出る時に渡されたという銀の短刀だ。鞘に入ったままだが、間違いない。
「ルル!何する気だ」
ボブズの声にルルは振り返る。そして、安心させるように微笑んだ。
「ただの詠唱の準備ですよ」
ルルは短刀を杖のように構え、古代語を呟いた。
それは強化魔法に分類される魔法だった。強化魔法とは他者の筋肉量を一時的に強化したり、心拍を速めたりして肉体の限界値を超える活力を与える魔法だ。だが、それと同時に相手に逆の効果を与える魔法も広義では『強化魔法』と呼ばれている。
そして、彼女が唱えているのはそのうちの一つ。
「なるほど・・・『スリープ』か」
『スリープ』という呼称はついているが、日本のゲームのように相手を寝かしつけるような便利な魔法ではない。眠らせるのはその人の『意識』ではなく、『痛み』の方である。所謂、鎮静剤の効果のある魔法だった。それと同時に相手の精神を鎮めることもできる。
相手を寝かして完全に意識を奪う魔法も存在するが、習熟が難しく、僕でさえ扱うことができない。『神の精霊』程ではないが、それに匹敵する難易度の魔法だった。
この『スリープ』はそこまでの練度は必要はない。だが、扱いの難しさはやはり普通の魔法と比較すると群を抜いていた。
ルルの周囲に紫色に光る水滴が漂う。その一粒一粒が魔力を宿していた液体だ。
「アギー、これを風に乗せられますか!」
ルルの額に玉の汗が浮かんでいた。『スリープ』は力を保つのが難しい。込めた魔力が不安定になりやすく、容易に霧散してしまう。ルルは赤く染まったり、青くなったりする液体を必死に紫に保っていた。
「わかった、任せて」
ルルを除いて風の魔法が一番得意なのは僕だ。
僕はルルの隣に並び、両の掌を合わせた。
僕の周囲に風が吹き渡る。水滴を散らせ、霧のようにして風の中に閉じ込める。
「くぅっ!!!」
ルルが小さく唸った。
粒が小さくなったことで、より魔力のコントロールが難しくなる。
風に乗った紫色の魔力が点滅するかのように赤と青を行ったり来たりしていた。
「は、はやく!」
「わかってる!!」
「助け・・・・助け・・・・・・」
その男は手を伸ばせば届きそう距離まで迫ってきていた。血のついた指先が伸びてくる。
僕は大きくその場で柏手を打った。それに応じるように紫色の風が男を包む。相手を傷つけないようにしながら、霧散させた水滴を均一に保つ。相手をぶちのめせばいいだけの攻撃魔法とは桁違いの精神力が必要だった。魔法に集中するために僕は身動きが取れなかった。
早く!早く吸い込め!!
指先が目前まで迫る。爪の先から滴る液体が禍々しい毒のように見えた。
「ハい、オ触り禁止ですよ」
ラックの手が伸びてきて、その腕を下ろさせる。
ラックの掌には水魔法で作られた膜が張ってあった。
この前、ザイラル先生が習得するように言っていた魔法だった。
「うっ・・・ああ・・・」
その人の視線がラックに向かう。ラックは水の膜をまとった両手でその男の腕を抑えた。
「ドうですか?マだ痛みますか?」
「え・・・あ・・・あれ・・・」
その男の目に正気が戻ってきていた。
「痛くない・・・う、あ・・・でも首からの血が止まらない・・・なぁ、俺はどうなるんだ?」
男の顔からは必死の形相が消え、穏やかさが浮かんでいた。血走っていた目も険が取れ、微睡の中にいるような様子になっていた。さっきまでの不安定な挙動はなくなり、落ち着いた言動が見て取れた。
「トにかく、コっちで座ってください。傷と、手についた血を洗わないと・・・ボブズ、手伝ってくれ」
「はいよ」
ラックに連れられ、その男は市場の隅に横にされる。
それを見届けて、僕とルルは大きく息を吐き出した。
「・・・もう、いいですかね・・・」
ルルが糸の切れた人形のように隣で崩れ落ちた。
彼女は膝を折ってへたり込み、肩で息をしていた。
僕も手を一振りして風を消し去り、ルルの魔法も周囲に解き放つ。紫の風はすぐさま消えて見えなくなっていた。
「はぁ・・・」
そして、尻から地面に倒れる。
初めて『神魔法』以外の魔法で処置を行ったのだ。精神的疲労が一気に押し寄せてきていた。
こういうのを、涼しい顔でできるようにならないと、治癒魔法師は名乗れないのか。
なにせ、一人の患者に二人がかりで鎮静するだけでここまでの疲労感なのだ。
怪我人だけを見てきた時代とはわけが違った。
『運がよかった』か・・・
僕はその言葉の意味をようやく理解しだしていた。
僕の前に来ていたのはだれしもが軽症の怪我人ばかりだった。
そりゃそうだ。自分が怪我をして、10歳にも満たない子供に全てを任せられる人なんていない。
それを僕はようやく理解しだしていた。
僕の前に来ていた患者はそれを相応の人しかいなかったのだ。
もしあの時、重い病の人が運び込まれていたらと思うと今更ながらに鳥肌が立つ。
本当に僕は『運がよかった』のだ。
だが、今は・・・
僕は小さく笑って、ルルの方に顔を向けた。
ルルもまた僕を見て小さく笑っていた。
まだ、あの人を救えたわけではない。
だが、あの人が暴れることによる二次災害は防げたのだ。
僕らは小さな達成感を胸に笑いあった。
だが、そんな心地よい疲労感は新たな絶叫に吹き飛ばされた。
「ふざけるな!寄るなぁ!!」
あの男の声だった。
慌ててそちらを見ると、男の人は血を洗い流された両手でラックやボブズを払いのけようとしていた。
「獣人に・・・鬼人じゃないか・・・なんでこんなところにいるんだ!!俺に触るな!!触るんじゃない!」
鎮静が切れたわけではないはずだ。その証拠に彼の目はさほど開かれておらず、動作も緩慢だった。
だが、彼の声ににじみ出る嫌悪感と拒否感は本物だった。
僕はその光景に目を疑うしかなかった。
彼の言葉に耳を疑うしかなかった。
「寄るな!寄るな!!この、魔族共め!!」
ラックとボブズは曖昧な笑顔を浮かべていた。
ラックの皮肉気な笑みと、ボブズの痛みをこらえるような笑顔が僕の心に突き刺さった。