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棘 A

「はぁ・・・」


僕は講義が終わった直後にため息を吐きだした。

ザイラル先生の試験結果が出てからというもの、講義内容が急激に加速していた。治癒魔法学、身体構造学はもちろんのこと魔法基礎まで段階を経て内容が複雑化していた。

どれもこれも、実技としては興味深いことも多く、面白い内容ではある。


だが、記憶せねばならない事柄の分量が尋常ではないのだ。


「うぁ・・・アギー・・・寝る、俺寝る。晩飯食う気力もねぇ・・・」


ボブズは隣で疲労困憊で倒れている。

正直、僕も似たような状況であった。


エルフとドワーフの魔力の蓄積経路の違いとか知るか。

血管走行の種族事の差異など覚えきれるか。

鬼人オークの血液成分の違いによる回復魔法の影響についてのレポート提出とかもう本当に勘弁してほしかった。


そして、今日もまた新たな宿題が言い渡されたところだった。


「お二人とも、大丈夫ですか?」

「ルル、お前は平気そうだな」

「勉学は得意ですから」


にっこりと微笑むルルに癒されるが、またしばらく図書館詰めだと思うと気が遠くなりそうだった。


「ラックもほら、起きてください・・・」

「ハッ・・・私、寝てた!?エ、ジゃあ・・・今さっきまで私が受けていた講義は・・・」

「夢だと思います」


ルルの容赦ない一言にラックの耳がフードの下でしなびたのが見て取れた。


苦労しているのは僕らだけではない、一般の生徒も貴族連中も揃いもそろって火車に追われているような有様だった。

この教室で平気な顔しているのは勉学上等のルルと常に無表情でいるベクトールぐらいだ。

ただ、あまりに勉学が忙しすぎて、僕やルルに対する当たりが大分弱まっているのは朗報と言えるが。


「ほら、後で私のメモ見せてあげますから」

「アァ・・・ダメだ・・・晩飯食べたら寝てしまいそう・・・先に写させてもらっていい?」


ラックはそう言って席から立ち上がろうとしなかった。


「いいですよ。アギーはどうします?」

「僕はもうはらぺこ・・・先に食べに行かせてもらうよ」

「はい」


ラックとボブズからアンデットのうめき声のような返事があり、僕は荷物をまとめて講義室をあとにした。

外はもう夕方だ。明日は休日だとはいえ、レポート提出のために机に向かうしか道は残されていない。


ここにきて間もなく2か月が経過しようとしていた。


正直、入学前の呑気な自分を殴り飛ばしてやりたくなっていた。

入学前に首席だった自分はもう過去の存在になりつつあった。

ひたすらに頭に詰め込む作業はどちらかというと苦手な分野だ。


『神魔法』で有利が取れるかという甘い考えはまるで役に立たない。なにせ、回復魔法を使う機会が圧倒的に少ないのだ。

目に見える傷よりも、臓腑や頭蓋内の損傷に気を配る方が大事だという理屈は言われていみれば当たり前だった。


回復魔法は身体の治癒能力を助長し、傷の修復を促す魔法だということを僕は初めて知った。

つまり、内出血なんかが起きた時、血管の修復は可能だが、ぶちまけられた血液が内臓を圧迫することによるダメージを消すことができない。


それに、これが大事なことなのだが・・・


回復魔法では失血を補うことができない。


これは致命的であった。


血が無くなれば人は死ぬ。傷を負った直後ならいいが、血が大量に流れ出た後の患者に対して回復魔法はほとんど無力である。止血はできても、血が足りない。


では、どうするか?


来週までの宿題であった。


「話の流れから、多分精霊魔法使うんだよな・・・強化魔法じゃどうにもなんないし、浄化魔法は意味がない・・・ってか、ザイラル先生の講義なんだから精霊魔法だろう・・・」


『神魔法』だけで店先の怪我人を治していたころが懐かしい。

あの時は何も考えずに『神魔法』を使っているだけで良かった。


食堂の前までたどり着き、そして立ち止まる。

ちょうど貴族連中の集団が入っていくところだった。


一瞬、僕と盛大に喧嘩をやらかしたMr.ガンドレッドと目があった。

彼はその碧眼を盛大にゆがませてこちらを睨みつけてきた。

親の仇でも見るような目だ。

殺意と嫉妬と憎悪を全てごちゃまぜにして暖炉に放り込んだような黒い炎が目の奥で燃えているように見えた。


『貴様さえいなければ・・・』


彼の全霊がそう訴えていた。

僕はそれを真正面から受け止めて睨み返す。

1対集団ならまだしも、こいつとの1対1で引くわけにはいかなかった。


だが、すぐにMr.ガンドレッドは僕から視線を背け、食堂の中に入っていった。


僕は眉間に皺を寄せた。

今から食堂に入るとあいつらと顔を合わせ続けることになる。

視界に入らない位置に座るのはなんだか逃げたような気がするし、視界に入られるとそれはそれで不愉快だ。

そんな状態で晩飯など食べたくない。


僕は食堂の前を素通りし、街の市場に向かうことに決めた。

ここ2か月でラックやボブズと出店はあらかた開拓している。

お気に入りの店の1つ2つは確保していた。


大玄関を抜けて、外に出る。ほとんどの人が食堂に向かっているのだろう。外には誰もいなかった。やけに静かな夕方だった。


その時、ふと目の端をかすめるものがあった。


「ん?」


足を動かしながら、道の脇を見る。

道の両脇に作られた街路樹と花壇、そして校舎を取り囲む雑木林。

これらの植物は全て薬や魔法の触媒というのだから、この学園は徹底している。


そんな木々の隙間にふと揺れるものがあった。


僕は足を止めた。


犬だ。黒ずんだ少し長めの毛並みの犬がいた。尖がった三角耳をこちらに向け、犬が木々の隙間から僕を見ていた。その犬は舌を突き出し、肩で息をしている。


野犬が迷い込んだのだろうか。この世界では犬はほとんど家畜化されており、街中で野犬を見かけることはほとんどない。街の外で野犬を見かけたとしても、魔法が発達したこの世界では爪と牙しか持たない獣など、さほどの脅威ともみなされていなかった。


街の外で襲われて人が苦戦する野生動物は集団行動で相手を追い詰めてくる狼か、体重と膂力に物を言わせて襲い掛かる熊ぐらいだ。


誰かの飼い犬が迷い込んだんのだろうか。


僕はそう思って、近づいた。


「へい、ワン公。どうしたい?迷子かい?」


犬の近くにしゃがみこんで声をかける。ただ、いつ襲い掛かられてもいいように片手に風魔法を発動させておくのは忘れない。野犬は比較的魔族に近い種族で、二足歩行が可能な奴もいる。中には噛み付くことで人を犬畜生に変える力のある奴らがいるというのはよく聞く教訓だった。

随分と深刻に語られるので、この世界ではそういうものなのかと僕は思っていた。


「ハッ、ハッ、ハッ・・・」

「ん?」


なんだか様子がおかしいことに僕は気が付いた。

犬の足が震えている。なんだか今にも倒れそうだった。

不意に風向きが変わった。


風下になり、獣特有の臭いが鼻をつく。そして、その中に鉄臭い臭いが混じっているのに気が付いた。


「まさか・・・」


僕はつぶさにその犬の毛並みを観察した。

間違いない。

僕はゆっくりとその犬に手を伸ばした。


野犬はうなり声をあげることも、牙を剥くこともせず、おとなしく僕の手を受け入れた。


「・・・やっぱり・・・」


手が触れた毛並みは黒い糊のような物質で固められたものだった。


血だ。


毛皮で見えにくくなっているが、全身に切り付けられた痕跡があった。

出血は今も続いており、血がにじんで毛並みが赤黒く光っていた。

ただ、傷はどれも浅い。ナイフか何かで切り付けられたのだろうか。

子供の度の過ぎた悪戯か、それとも包丁で追い回されたか。


「この程度なら、大丈夫だ。任せてよ」


僕は犬にそう声をかける。

その声が聞こえたわけではないだろうが、その犬はその場に膝を折った。

どちらかというと、崩れ落ちたという表現が近かった。


それほどに衰弱しているのだろう。

僕は急いでその犬に手を伸ばした。


傷口に触れ、手の指先に魔力を集めた。


久々に発動する『神魔法』だ。


それを傷口にあてる。指が通った場所が順に治癒していく。

それを見ていると、心のどこかがホッとしていた。

傷が一つ治るたびに自分の力は決してつまらないものではないと確認する。


決して悪い気分ではなかった。


他の連中はこんな犬っころを治すなんてしないだろう。

なにせ、時間がかかりすぎる。犬一匹治療するには割に合わない。


僕だけが治せる犬だ。

僕以外は治そうとしない犬だ。


そう思うと、このワン公にもなんとなく情が沸いてきた。


僕は手早く怪我を治してやる。

更に水魔法を発動して全身を洗い流す。この犬はおとなしく水を浴びてくれた。


信頼してもらっているのだろうか。


その犬の瞳をのぞき込むが、僕には犬の気持ちを読む力はない。

ただ、暴れる様子がないので大丈夫だろう。


黒い塊が赤い色の水となって流されていく。その下から現れた毛並みは茶色がかった黒い毛並みだった。

最後に炎魔法で軽く熱気を作って毛皮を乾かしてやる。


なんか・・・随分と手際がいいな・・・


僕は自分の手際の良さに驚いていた。

もしかして、昔犬を飼っていたのだろうか。


だが、思い出そうとしても頭の中は霞がかかったようにはっきりとしなかった。


妙な違和感を覚えながら、犬の毛並みを乾かし終わった。

水魔法で飲み水を出してやる。

その犬は一心不乱にその水を飲み続けていた。


「おいしい?」


返事はない。そりゃそうだ。犬だもの。

この犬は決して肉付きが悪いわけではない。どこかでしっかり餌をもらっているのだろうと想像ができた。

犬は水魔法で作り出した水流から口を放した。


僕はその場からゆっくりと立ち上がった。


どうしようか、と逡巡する。

この犬はまだ立ち上がろうとしない。ただ、僕にできることはもう残っていなかった。

寮に連れていくことはできないし、かといってここに放置するのも気が引ける。


その時、その犬は僕の苦悩を読み取ったかのように起き上がった。


「あ、もういいの?」


犬からは返事はない。

その犬は僕に背を向けて、森の中へと歩いていこうとする。


「おーい、もう怪我するなよー」


当然返事はない。

その犬の背中は雑木林の闇の中へと消えていった。

しばらく、暗がりの中を見つめていたが犬が戻ってくる気配はなかった。


「・・・大分、遅くなっちゃったな・・・」


付近は既にもう暗くなっている。

早くいかないとベーコンが売り切れてしまう。


ここまで時間を置けば貴族連中も食堂にはいないだろう。だが、一度出店に行こうと決めたのだ。自分の舌は焼き立てのベーコンを求めていた。


僕は血で汚れた自分の手を水魔法で作った水球で洗い流す。僕は改めて学園の外へと足を向けた。

だが、数メートルほど歩いたところでふと視線を感じた。僕はさっきまで犬が倒れていた場所を振り返った。

すると、そこにさっきの犬が戻ってきていた。そいつは木々の隙間からこちらを見ていた。


「へへっ・・・」


なんだか、嬉しくなって手を振る。


「ワン公ーまたなー!」


だが、僕が手を振った直後にはその犬は雑木林の中に姿を潜ませてしまった。

その後、道すがら何度も振り返ったがその犬はもう姿を見せてはくれなかった。


「・・・・・・」


心のどこかで懐いてくれないかなと期待していた僕はわずかに肩を落とした。


でも、懐かれても困る。これで良かったんだ。


僕は自分にそう言い聞かせて、夜の賑わいを見せる街の中へと向かっていった。


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