7 「ごめんなさい」
柊のことも気になったが、それ以上に今、失って痛いカードは西沢だ。
彼女は柊が登校するにあたってのキーパーソンであり、力強い援助者たり得ている。
実際、西沢とのインターホン越しのやり取りの後、柊は「朝起きて、支度して、玄関まで行く」というステップを踏むことができるようになった。
たとえ西沢がクラス委員で、点数稼ぎのために学校の配布物を持ってきているのであれ、柊にとっては「クラスメイトと接触を持った」という一事が、とてつもない意義を持っているのだ。
先程のやり取りではすれ違いを生じたが、それを致命傷にしないためにも、早急なフォローが必要だった。
猫にエレベーターは使えない。さりとてマンションの14階から飛び降りるスタント猫として颯爽とデビュー! ……と同時に死亡リタイアする気は毛頭ない。
階段だ!
とっとっと、と、軽快なリズムで階段を下りていく。
途中の階で、エントランスを眼下に見下ろし、ちょうどマンションを出てきた西沢の姿を目に捉えた。よし、右を向かったのを確認。
重い足取りなので、スピードはそれほどでもない。十分に追いつける。
速攻でエントランスまで駆け抜け、そのままのスピードで右に曲がる。
全力で走っていると、前方に制服姿の女子が見えてきた。
徐々に足を運ぶスピードを落とし、早歩きになって、ちょこちょこと忍び寄る。
ぜえーーーーー! ぜえーーーーー! ぜぇーーーーー!
涼しい顔をしているものの、全力疾走した俺の内面疲労度はMAXを超えていた。
し、しんどい! こんなに走ったの何年ぶりだよ。この前のマンションの通路で追いつくだけで顎が出てたんだぜ? 勘弁してくれ……。
若くないんだからさ、おっさんに大運動会させてんじゃねぇよ、おまえら。
「あれ、ししゃもくん……?」
気を取り直してスタスタ早歩きで西沢と並び、声を掛けようとしたところで、西沢が先に俺に気づき、不思議そうな声を上げた。
「また付いてきちゃったの? だめだよ、君はご主人様を支えてあげなくちゃ」
そうふわっと微笑んで、俺を優しく抱き上げる。
制服に毛が付くことは躊躇しないようだ。カバンを肩にかけたまま、俺をすっぽりと胸の中に収める。
うん、この安定感。柊に比べ、たわわな実りが腰辺りに当たる。ちなみに少し甘ったるい香りも感じられて、猫になるということは、煩悩を捨て去るために修行僧になることと等価だと、最近思い知らされている。
「励ます……つもりだったんだけどなあ……」
西沢は天を仰いで嘆息する。
諦めるな西沢。君は柊のホープであり、もはや俺にとっての一縷の望みだ。
「にゃあ」
西沢が諦めたら俺のキャットライフの開始はほぼ確定する。
なんとか柊を引っ張り上げてもらいたい。
「私、必要とされてないのかな……?」
「にゃあ」
「そんなことない? うん、私、必要とされてなくちゃいけないよね……」
「にゃあ」
「うん、みんなと仲良くしなきゃいけないよね。みんなと仲良くされなくちゃ、必要とされない」
「にゃあ?」
「必要とされない私になんて存在意義なんてない」
「……にゃ?」
ん? 何だ、西沢?
柊もたいがいだが、お前も少し……。
と、その時、向かいから歩いてきた、制服を着崩している三人組の女子高生が、西沢に気がつくと、声をかけてきた。
「お、美玲じゃん? 今帰り?」
「西沢ー、おつかれー」
「美玲ー、やっほー」
西沢は愛想の良い笑顔を浮かべる。
「あ、やっほー」
と、三人組は俺を目に入れ、キャーキャーと西沢ごとこちらを囲んできた。
「えー! その猫何?」
「かわいくない?」
「やばいー!」
「………ああ、この子ね。立花さんところの……」
「えー、立花? 不登校の?」
「まだなんかもって行ってあげてるんだっけ?」
「あの子、少しは学校に顔だそうって感じになってるの?」
「うん、まあね……でも、なんかうまくいかなくって」
少し居心地が悪そうにしながら、西沢は応える。
「えー、なんか可愛そう、美玲、あんな奴の犠牲になって」
「学校に来るかなどうかなんて自己責任じゃんね」
「それをさ、西沢の人の良さに付けこんでるんだよ」
「あはは。そんなことないよー。でも、みんなで学校行けたら、それが一番いいよね」
優等生的な回答をする西沢に、三人は毒気を抜かれたように顔を見合わせる。
「美玲、人良すぎ」
「でも、確かに、登校させたいよねー。ほら、トモダチとして?」
「あー、それじゃさ、美玲、アレやってみたら、アレ?」
「……ん? アレって?」
西沢は小首をかしげる。
「なんつーの、あたし、小学校のとき、風邪で結構長いこと休んでたんだけど。その時に、担任から、『早く元気になって、また可愛い笑顔見せてください』ってメッセージカード入ってて」
「キャー、キョウコ、それって何? 淡い恋の思い出ってやつ?」
「憧れるわー。あははは。 イケメン教師だったの?」
するとキョウコとやらはゲラゲラ下品に笑う。
「ううん、キモオタ教師だった。ほんと身の危険案じたわー」
「ロリコンじゃん! 教育委員会にチクったほうがよくね?」
「ってかメッセージカードっていう発想自体がやばい」
ゲラゲラ笑う三人に、西沢はどことなく沈んだ様子で曖昧な笑みを返す。
「…………そう……だよねー、キモいよねー。だよねー」
ん? 西沢の返答に、何か間があったような。
「そうそう、もしそんなことしたら、逆にイゾンされちゃうって。美玲っていい子だからさ、気をつけたほうがいいよ」
「立花ってなんか、隠れ粘着っぽいしね」
「そうそう、気取ってるふうを見せて、実は友達に飢えてますー、みたいな」
「あはは……、ちょっと、それは……いいすぎ、かな」
「えー、美玲、あいつのこと庇うわけ?」
「やっさしー」
「まさかの百合展開ってやつ?」
囃子立てる三人組に、西沢の頬に朱が差す。
「そ、そんなんじゃないよ。私、クラス委員だから!」
少し語気の強くなった西沢に、三人組は再び顔を見合わせ、小動物を見るかのように優しい目線を投げかける。
「わかってるって、美玲。冗談だよ」
「クラス委員、大変だよね」
「ごめん、ウチらも調子乗りすぎた」
ん? なんだこいつら? 口では何のかんの言いつつ、結構心根の悪い奴らじゃない?
それにしても、最近のギャルは制服着崩しすぎだな。俺が猫ということで、さらに警戒心が緩んでいるのか、どうにも目のやり場に困るのだが。
「うん、ありがとう」
西沢はぱっと花の咲そうな笑顔で答える。
三人は笑顔でそれぞれ別れの挨拶を口にすると、またがやがやと駄弁りながら美玲のとなりを通り過ぎていった。
そして、彼女らが去っていった遠くの方から、途切れ途切れの声が届く。
「……玲も……いよねー」
「優……生……ら……ねー」
「点数稼……ご……さん」
もちろんそれが聞こえてないはずがない。
西沢の肩が、明らかに下がる。
あいつら。
とことん根性の腐った奴らだ。俺は憤然とする。
「あは……キモいか…………そうだよね……私、独りよがりで……そういうのって、キモすぎるよね」
キモくないぞ、西沢。人を思いやることがキモいと、とかく言われがちなご時世だが、だからこそお前のような存在は貴重なんだ。
おもに柊のために。すなわち俺が人間に戻るために。
だから、自信を持て。俺のために。
「ししゃもくん……」
「みゅう」
西沢は美しいが、どこか危なっかしい、水仙のような笑みを見せた。
「ごめんね、もう私、君のご主人様の力にはなれないや」
ノオオオオオオオオオオオ!
まて、気をとり直せ西沢。
君は柊の希望。ライフライン。
つまり俺にとってもライフライン。
どぅーゆーあんだすたん?
ミュウミュウ鳴く俺を、西沢は優しく地面に下ろした。
「ごめんね。ごめんなさい」
西沢はそう言って、足を引きずるようにして帰り道を歩いて行った。
ど……?
このあと、どうすりゃいいんだよおお!!??
俺の断末魔の鳴き声が、夕暮れ染まる街並に、ただただ響いていた。