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6 遠いあと一歩

 それから柊は、朝の早い時刻に起きるようになった。


 シャワーを浴び、作りおきの朝食を食べ、制服に着替えると、「よしっ!」と気合を入れて、玄関まで歩いていく。

 そして、玄関の靴脱ぎ場に靴を履いたままの足を乗せ、じっと膝を抱え玄関マットにしゃがみこむ。

 そのまま、気合を入れてドアを開ければ、あとは惰性で登校できるだろう。

 俺も固唾を飲んでその行く末を見守っていたものだが、柊はといえばこの三日の間、こうして座ったまま、30分も一時間も動かないでいることを繰り返している。

 じーっと微動だにせずしゃがみこんで、しばらく経つと、ふと気づいたように腕時計に目をやる。

 そして大きくため息をついたあと、ゆっくり俺の方を見るのだ。


「ししゃも……ダメだよ、どうしても行けない」


 まあ、よくある登校拒否だよな。

 事前の準備は完璧。食事も着替えも身だしなみももろもろが済んで、あとは扉を開けるだけなのに、その扉はやけに遠くに存在する。


 あったわー。俺も新入社員の五月病で経験したわー。なんなら、入社直後の4月の時点で、既にその状態だったわー。もっともそのあと、激怒した上長の声が留守電から響いてきて、泡食って出社したもんだけどな。強制力がなかったら、俺も今の柊と同じ状況にいただろうと考えると、無碍に馬鹿にする気にはなれない。


 背中を押す人間が必要なんだよな。

 とりあえず俺は玄関ドアまで歩いて行き、ドアをクンクン嗅いだあと、もう一度柊の横に戻ると、「みゃう(おつかれさん)」と声をかける。

 ここまでの行動が、『クセ』にならないといいんだが。


 本来ならこの進歩は『上出来』と見るべきなのだが、いかんせん俺にかけられた呪いのタイムリミットは迫っている。焦れる気持ちは柊の中にもあるのだろうが、それ以上に俺は自らの身の危機感を感じていた。

 約束の一週間まで、あと三日。

 どうすんだよ、もう?


 柊は自室に戻ると部屋着に着替えを始める。

 もちろん、着替え中は俺はそっぽを向いている。青少年健全育成条例、尊いです。


「今日はもう行く準備で頑張ったから、あとは自由時間でいいよね」


 俺は今日も臍を噛む。

 まるっきり定番のニート発言だ。

 もともとお前、毎日が自由時間じゃない。

 こうして壁に制服を掛けた柊は、いつものように悶々として過ごし、西沢が来る頃になるとそわそわし出すいつものパターンに戻る。

 いや、このままで一週間以内に登校させるとか、俺、既に詰んでるだろ?

 だが、諦めたらそこで試合は終了だ。

 逆に言えば諦めなければ試合は過労死するまで延々と続く。

 社畜って生きてるね! あなたの力を活かしてみませんか? やりがいのあるお仕事です!(やりがい以外はありません)


 柊が難攻不落なら、攻めどころを変えてみることにしよう。

 俺は固い決意とともに、大きく「くわっ!」っと、あくびを漏らした。


*****


 作戦はこの前と同じ。

 タイムリミットまで残り二日。

 追い込まれた俺のやることは決まっている。

 西沢が現れる寸前に柊を連れ出し、ドアをカリカリ。


「ししゃも……またなの?」


 左の掌底を額に当てて、柊が大きくため息をつく。

 知ったことではない。俺にはこの手しかないのだから、今できることに全力を注ぐ。

 ピンポーン。


「にゃーにゃー」


 ピンポーン、ピンポーン。


「にゃー! にゃー! にゃー!」


 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。


「もおおおお! わかったよ、わかったわよ! 今、出るから」


 お? 柊が、初めてドアを開けるだと?

 俺の嫌がらせ作戦に、思いのほかの効果が?


「……インターホン、今、出るから」


 やっぱり柊はチキンだった。

 震える手で受話器を上から押すように抑えると、息を吸い込んで吐き、勢いで受話器を持ち上げる。


「はい」

「立花さん? 私。西沢だよ」

「知ってる。用件はプリントでしょ?」

「うん」

「そ」

「……うん」

「……」

「……」


 気まずい沈黙。


「……あの、さ」

「あ、あの猫くんだけど……!」


 二人は同時に口を開き、気まずさに輪がかかった。

 気を取り直し、柊が答える。


「あ……うん、ししゃも」

「あ、ししゃもくんって言うんだ。か、可愛いよね。ロシアンブルーだよね、確か?」

「……詳しいんだね」

「まあ、猫飼いたいと思ったこともあるから。ああいう猫くんを飼いたいと思ってたの。羨ましいなー」

「……そう」

「……」

「……」


(…………っ!!!)


 柊は何か言いたそうというか、明らかに会話継続の助けを求めるように、俺の方に泣きそうな目で訴えてきた。

 知るかよ、俺だって友達少ないんだよ。隠れコミュ障に何助け舟求めてんの? コミュ力あったら、もっとホワイトな会社受かってたっつーの。

 仕方ない、ここは柊と肩を並べるコミュ障の俺も腹を据えよう。

 あらん限りのコミュ力を駆使して、柊にメッセージを送る。


(タスケ、ムリデス。ゼンショシテ)

(…………!)


 すると、一瞬で柊の顔に絶望の色が刺した。

 マジかよ、通じたのかよ。スゲェな猫のコミュ力。

 柊は大きく深呼吸すると、悲しそうな瞳をしながら、吐き出した。


「用件はそれだけ? もう帰ったら?」


 カメラ越しの西沢はその柊の冷たい声に、捨て犬のようなしょぼくれた表情を見せ、かすかに頷いた。


「……うん。プリント、ドアポストに入れておくね」


 そうして踵を返すと、トボトボと階下へ向かうエレベーターへと歩いていく。

 それを口をパクパクさせて、結局「ん」とぼそりとしか言えないまま見送ったあと、柊は俺の方に駆け寄ってくる。


「ししゃも……ししゃもぉ~~~~!」

「ぬぁ~~~~~」


 くっつくな、抱き上げるな、胸と顔と涙を押し付けるな。


「私、またあんな気が悪くなるようなこと……。西沢に嫌われたよ。完っ全に嫌われた~~!」


 だろうな。そしてこのままだと俺の方も「さようなら人生。こんにちはキャットライフ」を迎えざるを得ない。「人間やめて猫のほうがいいよ」とか言う輩がいたら、喜んで替わってやるからな? 人間にしかできない楽しみとか、ホント多いって思い知らされている。美味しい食事にせよ、酒とかにせよ、ほ、ほら(?)げ、ゲームとか……にせよ。

 まあ、とにもかくにも、ジャンクな生活が恋しいっていうのはわかってもらえると思う。だからこそ、今は西沢を一刻も早く追いかけなければいけないのだ。

 なのに、このバカJKと来たら……本当に間が悪い。


「ししゃも~~~~~」


 知らん、離せ。

 ぬおーーっと、前足でグリグリ押し付けてくる顔につっかえを作ると、何とかして柊の腕の中から逃げおおそうとする。

 ピンポーン。


「……?」


 ……? だれだ?


「……西沢? なんであんた、戻って……?」


 驚きのあまり、反射的に受話器を取った柊は、自らの行動も理解せず、ただ目をぱちくりとしている。


「立花……さん。一つ……言い忘れたことがあって」


 駆け足で戻ってきたのか、少し息を荒くした西沢の声が響く。


「去年のあのことは、私も悪いことをしたと思ってる! でも……でもさ、立花さんのやったこと、間違ってなかったと思うよ! 少なくとも立花さんは、あの子を見捨てようとしなかったんだし……」


 去年のこと? まただ。また出たキーワードだ。

 柊は何をやった? このチキンの腐れ女子に、何か大変なことが出来たとは、俺には到底思え……。


「…………」


 ふと俺を抱きしめる力が強くなり、不満げに柊の顔を見上げた俺は一瞬凍りついた。

 仮面のように表情をなくした柊の顔には。

 そこには、静かな、静かな怒りがあった。

 そこには、荒ぶる冷淡さが見て取れた。

 そこには、烈火の如き絶望感がひしめいていた。


「……帰って」

「立花さん、立花さんがあの子を助けたのは……」

「帰ってって言ってるでしょ! 二度と来ないで!」


 そう言って、インターホンの受話器を叩きつける。

 俺を抱きしめる腕が緩んで、その隙に俺は床に着地すると、恐る恐る柊の様子を窺う。

 柊はもはや玄関の先の西沢や俺自身の存在すら忘れたように、夢遊病者の足取りで自室に戻っていった。

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