12 トラウマ――西沢美玲
それからまた二つ、夜が過ぎた。
ししゃもが死ぬまであと6日。そしてクリスマスまで、あと6日。
最近はよくあるのだが、いつものように柊、槻谷、佐々木はもそもそと昼食を摂った後、大して話も盛り上がらないまま、別れた。
俺はブラック企業出身だったから、職場の人の入れ替わりは激しかった。その分多くの奴と関わってきたからわかるのだが、中心になって会話を回す、若しくは会話の中継点となるべき人間が一人抜けただけで、人間関係というのは途端に巧くいかなくなる。
そういったことが、柊達のグループにも影をさしていた。
西沢が戻ってきてくれないと、この青春集団は青春集団として機能しない。
それの何が悪いのか、と訊かれれば、俺は自分の生命を賭けてでもこう答えるだろう。
――こいつらが青春ごっこしてないと、いつまで経っても柊のトラウマは引っ張り出せないし、癒やせないんだよ。
いや、逆境にあるからこそ、むしろトラウマは引っ張り出しやすいのかも知れないが、今回の『試練』は「柊のトラウマを克服すること」だ。
単にトラウマを探っただけでは、「それで?」と言う話になるだろう。
傷を負ったなら、傷を癒やすまでの手当が、包帯となってくれる仲間が必要なのだ、と、最近の俺は思っている。
「美玲、大丈夫かな……」
芝生に腰掛けながら、柊が、ポツポツと話す。
話を聞いたところによると、西沢はまたトップカーストの友達に働きかけていることはいるらしい。ただ、一度失ってしまった人徳を取り戻すには、やはり時間がかかる。
何とかカーストには取り入れられたものの、彼女の叫びを聞いてしまった柊にはわかるのだろう。
その笑みが、態度が、言葉が、全て作り上げられたものだということに。
「西沢美玲であるために」西沢は、『西沢美玲であることを諦めている』。そんな笑えないパラドックスの渦中に身を置いている彼女の姿を見ているのは辛い。
そう、柊はため息をついた。
「……私、どこで間違ったのかな?」
俺は答えることはできない。仮に猫でなかったとしても、答える権利がなかった。
なにせ、俺自身、何がまずかったのかがまるでわからなかったのだから。
あのとき言葉をかけられなかったのは、柊だけじゃない。俺自身、そうなのだ。
いや、むしろ俺が、そうなのだ。
「……帰ろうか、ししゃも」
柊が立ち上がる。
――と。
「まてよ」
野太い声がかかった。柊にこんな雑な声をかける人間は一人しかいない。
「佐々木くん、槻谷くん……」
佐々木は槻谷の制服の首根っこを引っ張りながら柊の所まで、苦い顔をしながらやってきた。
「最近なんかすっきりしねぇからさ。いろいろ話そうぜ。で、考えて……ほら、コイツも連れてきたし」
「佐々木君、痛いって。乱暴しないでくれよ」
「槻谷は幼馴染なんだろ、西沢の? なんか知ってるだろ?」
「まあ、知ってるといえば……」
「なら、吐け」
佐々木がぐりぐりとヘッドロックを決める。
「ちょっと、無理強いはよしてあげなよ」
柊は、乱暴すぎる佐々木を、流石に止めに入る。
しかし、少し顔を歪めて決意表明をしたのは槻谷の方だった。
「いや、大丈夫。ごめん。むしろ話すべきだよね、立花には」
◆◇◆
西沢さんとは幼稚園時代から、何故かクラスも何も一緒でね。
うん、小中高と一緒。で、西沢さんの家庭なんだけどね、昔から、本当に厳しい親御さんに育てられてたんだ。西沢さんも、昔から優等生で、成績はトップで運動神経も良くて、人当たりも良かった。
――昔から、そうなんだ。
ただ、一度、近所の僕の家に駆け込んできたことがある。小学4年生の頃だよ。裸足で、靴下も履かずに。西沢さんは何も言わなかったし、僕自身、女の子を家に上げるのは気恥ずかしい年齢だったから、大して言葉も交わさなかった。
ただ、あのとき、言ったんだ。一言だけ。
――お父さんが、怖いから帰りたくない。
って。それから、おばさんがうちに西沢さんを迎えに来て――すごく怖い顔をしていたのは覚えてる。うちの親は、しばらく西沢さんをおいてあげればどうかって提案したけど、西沢さん本人が、『ごめんなさい、帰ります』って言ってね。
僕はそのときは気づかなかった。西沢さん、いつも長袖を着ていたし、スカートだって、長いやつばかりだった。今から思えば、「ああ、そうだったんだ」って思えるけどね。
西沢さんやおばさんがよく怪我をすることが、近所でも噂になったんだ。
そう、いわゆるDVみたいなものだったんだと思う。西沢さんのお母さんはお母さんで、世間体を気にする人だったみたいだから、ひた隠しにしてたんだね。
でも、それを隠すように、西沢さんはクラスの花として、ご両親の自慢の娘さんとして知られていた。たぶん、西沢さんが、壊れそうな家庭をつなぎ止める『かすがい』になっていたんじゃないかな? もちろん、推測なんだけどね……。
それから中学生に入って、僕と西沢さんはどんどん疎遠になって。毎年……その……バレンタインチョコ……義理はもらってたんだけど、中1のときに、もらったのが最後で……。あ、えーと、僕が言いたいのはね、そのとき西沢さんが、「お父さんが女作って家から出ちゃって大変なんだ。けど女が尽くす今日みたいな日に言うことじゃないけどね」って、すごく自虐的に笑っていたということ。そのときだよ、僕が彼女の事情を把握したのは。
でも、遅すぎた。僕が何かを彼女にしてあげたいと思ったときには、僕はすでにいじめのターゲットにされたばかりだったし、彼女との格差も、埋められないほどになっていた。僕には、何もできなかったんだ。
……槻谷は、つっかえつっかえながらも、幼なじみの過去や家庭の事情について、しっかりと話した。
なるほど、そういうことだったのか。西沢が家族を支えるためには、西沢自身が、『立派な娘、西沢美玲』として、存在しなくてはいけなかった、と言うことだろうか?
あまり詳しくはないのだが、家庭を支えるため、子供は子供でいることを許されず、まるで親と子供が逆転した、あべこべの状況で、『大人の殻をかぶった子供』として生きることを強いられることがあるという。
常に完璧であることを要求されたり、両親のマスコットであることを強要されたりする。
西沢もまた、そうだったのだろうか?
『必要』とされる『西沢美玲』になるために、必死でもがいてきたのだろうか?
話を聞き終えると、柊は大きく一つ息を吐いた。
「……私、ズケズケと美玲の大切な部分に入り込んでたんだ。美玲は『美玲』じゃなくなったら、存在意義すら感じられなくなってたのかも知れないね。それなのに私、独りよがりの友情を押しつけて……最低だよね」
「そんなことは……」
槻谷が、頭を掻きながら、困ったように言う。
柊は、首を振った。
「――私ね、心をぶつけ合うことが大切なんだって思い込んでた。でも、きっとそれは勘違い。もう傍観者でいるのはのは嫌だって思ってたけど……だけど……やっぱり私は……」
「それは……この前のクラスでのときは僕も、ちょっと困ったけど……」
「馬鹿。そんなんじゃねえだろ」
ポカリと、佐々木が槻谷の頭を殴る。
柊は疲れたような、かすかな笑みを浮かべてかぶりを振った。
「槻谷君」
「ん……」
「ありがとう、話してくれて。それと、佐々木君、気を遣わせちゃったね。ごめんね」
「いや、そんなの、謝罪することじゃないだろ? 槻谷だって、そう思うよな?」
「あ……うん」
「……うん、そうだね」
柊は再び淡く微笑むと、足下の俺の方に視線を落とした。
「それじゃ、帰ろうか、ししゃも。槻谷君、佐々木君、帰るね。……ありがとう」
ああ。と思う。
柊は、また関わることを諦めてしまうのだろうか。
人に傷つけられることに、人を傷つけることに、人一倍敏感で。
そのくせ人の心にわけ入っていく、面倒くさいお節介で。
そんな柊は、一つ一つ、心をぶつけながら、傷つけ会いながらも、確かに成長してきた。
だが、その積み上げた物が、今、音を立てて崩壊し始めている。
その音を、俺は聞いていた。
でも俺にできることを考えても、そんな物は一つも無くて。
こいつらの青春ドラマなんて、俺には関係ない。
心の成長? 知るか?
……でもさ。
違うと思うんだ。何かが違っている。
たとえ間違えだったとしても、柊、お前が、そして西沢、槻谷、佐々木が積み上げてきたものは、きっと――。
トボトボとした足取りで、柊は帰途に着き、俺も歩調を合わせながら歩き出した。
残してくるふたりのことが、どうにも気にかかって、ちょこちょこと後ろを振り返る。
俺には何もできない。なあ、神。くそったれの神。どうか、こいつを、柊を、助けてはくれないのか?
と、そんな俺の心の嘆きにに応えてか、背中の方からいきなり叫び声があがった。
「柊!」
見ると、俯いて拳を握り締め、真っ赤な顔をした佐々木の姿があった。
柊が、振り返る。小首をかしげ、耳にかかった髪を無意識にかき上げる。
そんな柊の姿を見て、佐々木はぐっと言葉を詰まらせながらも、ありったけの声を上げた。
「俺、頭悪りーからさ! よくわかんないけど、そういう、本音でぶつかっていくとか、いいと思う!」
突然何事かと、帰途につく生徒達が佐々木を振り返る。
だが、そんな好奇の視線に晒され、真っ赤になりながらも、佐々木の眼ははっきりと柊を捉えた。
「俺はそういう柊の気持ち、全部イイって思ってやんよ!」
その乱暴に叩きつける言葉に、柊は息を呑んで佐々木の顔を凝視し……。
一瞬、泣き出しそうな、微妙な表情を作った。
「……またね、佐々木くん、槻谷くん」
そう言って、胸のところで、軽く手を振る。
俺は柊と一緒に歩きながら、投げつけられた言葉に嘆息を禁じ得なかった。
ああ、そうなんだ。
今の柊の周りには。
心を殺すんじゃなくて。
心を偽るんじゃなくて。
心をぶつける。
めんどくさい、そういうことを大切にしてくれて、声をかけてくれる人がいるんだ。
きっと大人になるって、そういう友人を探していくこと。
そのために、生きていくんだ。
……俺は? 俺はどうだろう?
果たして、俺にはそういう友達はいたことがあっただろうか。
確かにそういう存在は……俺にもいた。
と言うか、周りの馬鹿な奴らは、みんなそうだったのかも知れない。
でも、それも社会人になるまで。
それからは仕事に追われ、金欠に追い詰められてさ。
変に大人ぶって、肩肘張って。
強がって、残ったものは……。
そんな関係は、感情は、「青臭い」って決めつけていた。
「ガキの戯言、大人になれ」って、自分に言い聞かせて。
――でもさ、柊。
たとえ俺がそうでも、今、お前には。
それは、羨望というよりも嫉妬といったほうが良い感情だったかもしれない。
だが、たかだか高校生の、十数年しか生きてない奴らを、「いいな」と思ってしまう自分は、否定しきれずにいた。
そして、そのことは決して俺に不快ではなく――、こういうとき、こいつらには、なんともいえない、胸のすくような気持ちを、何度も、何度だって感じてしまうのだ。




